「今日、どうだった?」
「はい、みんな親切でした」
夏目が転校してきた初日の放課後、日本史の資料が山と積まれている史学用の第二資料室の小さな机の上で、名取は夏目と二人向き合っていた。窓からは暖かい光が差し込んでいる。ずいぶん前に四時を過ぎていたが、初夏の陽射しはまだ明るかった。
名取の専門は史学だ。主に日本史を教えている。もう一人史学で主に世界史を担当している教師がいるのだが、そちらでは世界史の資料が揃っている第一資料室を使うので、実質この第二資料室は名取の部屋だった。四畳あるかないかの狭い部屋は山のような資料が置かれていて圧迫感が漂っているし、埃まみれで少し息苦しい。
時折掃除はしているのだが、やはり長年積み重なった汚れはそう簡単に落ちてはくれない。名取が本や物を持ち込む事が多いせいもあるのだが、部屋にはいつも混沌とした空気が漂っている。
「元気だろう? うちのクラスは何だかみんな元気でね」
「そうですね」
相変わらず、夏目は表情の薄い眼で表情のない返事を返すばかりだ。たった一日の間、朝から夕方までの短い時間で変化があるとは思っていないが、この調子であの騒がしさの塊のようなクラスの面々と喋っていたのかと思うと少しおかしい。
それとも、名取が教師だから打ち解けようとしないだけで、クラスメイトたちには多少は砕けた会話をしてくれていたのだろうか。
それならいいな、と名取は希望的観測を持つ事にした。
「後ろの西村がうるさかったんじゃないかい?」
「いえ、そんなことないです。たくさん話しかけて来てくれましたけど」
「あはは、西村はやけに楽しみにしてたからねえ」
今は名簿順で席を並べているので、夏目の後ろには西村と言う生徒が座っている。お調子者でクラスの中でも最も騒がしい部類の彼が夏目のすぐ後ろの席となったのには少し懸念もあったが、反応を見る限り迷惑とは思っていないようだった。
「それでね、夏目」
世間話の延長のような会話を打ち切る。
何冊かの教本を棚から取り出し、名取は本題に入る事にした。
「前の学校と比べると、うちの学校の授業内容は重いそうだね」
「……はい」
気軽に言ったつもりだったのだが、夏目は息を呑んで固まった。しまった、と後悔したが後の祭りだ。反応に慌てた名取は数冊の本を机の上にどさりと落としてしまう。バサバサと紙が翻った。
「ご、ごめん」
「いえ、すみません」
「夏目が謝ることないよ。ごめん、折っちゃったかなあ。これ、夏目のなんだけど」
ばさりと広がってしまった本を集めて、元通りに直しながらひとつひとつ夏目の前に積んで行く。すると彼は少し困ったような顔をして本を見た。
「教科書はもう全部貰ったって聞いてますけど」
「教科書はね。これは私の方で揃えた分だから」
「……え?」
弾かれたようにぱっと顔を上げた夏目の表情に名取は一瞬眼を見張った。無表情で固定されているかのようだった夏目の顔に、隠しようのない驚きが浮かんでいる。
何にそんなに驚いているんだろう。却って名取が驚いた。
「その、これって」
「ああ、授業内容が追い付かないんじゃないかと思って、他の教科の先生方からも君に合いそうな教本を選んでもらっておいたんだ。これは全部君にあげる。しばらくの間は放課後補習するから、ここにおいで」
驚いたままの顔をした夏目にそう告げると、はっとしたように彼は勢い良く頭を下げた。差し出された教本を受け取る。
「ありがとう、ございます」
強張ったような声に名取は眉を顰めた。何となくだが、誰かの親切や愛情に慣れていないようだと感じたからだ。
これくらいの事は教師からしてみれば当然の事だし、補習を行うなどと言われて礼を言うような生徒はなかなかいない。今までの彼の扱いの一片が伺えてしまう。
だからと言って、今の彼に何か言えるわけでもない。名取は口の端まで来ていた言葉を飲み込んだ。
「補習するのに、ありがとうって言われるとは思ってなかったなあ」
代わりに、笑い声で軽口を吐くと名取は窓に寄った。古びているせいで硬くなり、開閉が難しい窓を音を立てて開ける。
途端に初夏の風が吹き込み、黄ばんだカーテンを揺らして部屋中を走り回る。棚の上から埃が舞い上がって、夏目は口を押さえた。
「わっ」
「ごめんごめん、埃すごかったね。この部屋汚くてね、掃除しても古いからなかなかきれいにならなくて」
「いえ……でも、そうですね」
けほけほと咳き込みながらそう返される。やはり汚いのは事実なので、名取は苦笑いして夏目の言葉に頷いた。
けれど、確かに汚くはあるが、この部屋は名取には宝箱のような部屋だった。大学にも置いていなかった貴重な資料を引き抜いた事もあるし、遠い昔の誰かが忘れていった壁の落書きや、資料に挟まったメモに驚いたり笑わされたり泣かされたりもする。無遠慮な生徒が突然訪ねて来るのもそれなりに楽しみだ。
何より、この部屋は眺めがいい。
「夏目、こっちおいでー」
窓際に寄った名取が手招きすると、夏目は素直に窓に寄った。その隣で名取は窓枠にぶら下がるようにして外に身を乗り出した。
「先生、落ちますよ」
「落ちないよ。ほら、外見てみなさい」
夏目を促して、二人で窓際に並ぶ。野球部やサッカー部の部員たちが声を上げて動き回る校庭と、それを一望した景色の向こうに田舎の野山が美しく広がっていた。新緑の鮮やかな緑が眼に心地いい。
「眺めいいんだよ、ここ」
「そうですね」
安易に答える夏目の声には余り表情がない。これも失敗だったか、と思いつつそっと真横の夏目の表情を盗み見ると、彼は口端だけを少し上げてうっすらと笑っていた。
初めて笑顔を見た。
「うわっ」
何だか嬉しくて、風に揺れる夏目の髪に手を伸ばしてかき混ぜる。夏目が驚いた声を上げるのにも構わず、わしゃわしゃと髪を撫でて名取はすぐに手を離した。
「……なんですか」
「いーや、何でもないよ。今日は疲れただろう? もう帰っていいよ。明日からおいで」
ぼさぼさにされた髪を直し、少し恨みがましげな表情をする夏目に名取もまた安堵した。こんな顔も出来るなら大丈夫だろう。
「じゃあまた明日ね」
「はい」
そのままカバンを抱えた夏目を資料室の外に送り出す。ひらひらと手を振って見送ると、ぺこりともう一度頭を下げて帰って行く。その背中が遠ざかるまで見送ってから、名取は資料室の片付けをしようと決めてもう一度部屋に戻った。
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2009/04/04