箱庭にて -2




 今年のゴールデンウィークは正確には四連休だった。
 通常の会社や公務施設ならば、飛び飛びの平日に休みを取ってしまえば十連休くらい簡単だろうが、学校ではそうは行かない。休みの間を縫っての平日も学校に通うのが子どもと教師の義務だ。
 それでも少し長めの連休は身体を鈍らせる。ゴールデンウィーク中は部活動も全て休みとされていた為、休息に慣れきった生徒も教師もどこかぼんやりとしている。学校中にそんな空気が満ちていた。
 ぼんやりした空気の中、名取だけは一人ひどく緊張した気分で応接室に向っていた。休み前に学年主任と約束した男の子とは今日初めて会う。意識しないようにしているつもりだったが、やはり教師としての経験の少なさが仇になる。どうしたって意識せざるを得ず、休み中もずっとその子の事ばかり考えていた。
 とにかく優しく、かと言って腫れ物に触るような扱いもしないように、大事にしよう。
 そう決意しながら、応接室のドアを叩いた。

「どうぞ」

 ノックの音の後、中からは学年主任の返事が返って来た。ひとつ深呼吸をし、名取はドアを開ける。

「失礼します」
「おはよう。藤原さん、こちらが夏目くんが編入する一年二組の担任の名取先生です。名取先生、こちらが保護者の藤原さん、と夏目くん」
「名取です。これからよろしくお願いします」

 学年主任の穏やかな声が返り、名取は頭を下げて名乗った。それから顔を上げて室内を見回すと、学年主任の前のソファーには年配の女性がひとりと男の子がひとり。
 優しそうな女性が頭を下げる。それに合わせるように、男の子も慌てて頭を下げた。

「初めまして、夏目くん」
「はい」

 頭を上げた男の子の名前は事前に聞いていた。夏目貴志。
 会う前に色々考えてはいたが、実際に会った子どもは思っていたよりずっと小さく、細っこくてガリガリだった。そしてとても大人しい。名取よりもずっと緊張しきった表情で黒いソファーの上で小さくなっている。少し怯えているような様子だった。
 少年のびくついた様子に反して、藤原と呼ばれた温厚そうな雰囲気の女性は安堵したようにほーっと息をついて名取を見上げた。

「藤原と申します。まあ、お若いと聞いていましたけど、本当に」
「彼も新卒ですので、まだまだ慣れない事も多いようでして。ご迷惑をお掛けすることもあるかと思いますが、よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ。こんな時期になってしまって。手続きが間に合わず失礼しました」
「いえいえ、私どもの方こそ、なかなか書類をお返し出来ずに申し訳なかったですね。お役所仕事は面倒なものです」
「ふふ、そうですね」

 ぺこぺこと頭を下げながら他愛のない話題に興じる学年主任と、藤原と名乗った彼の保護者の会話が耳を通りすぎる。
 名取は小さく縮こまった少年を見ていた。顔立ちは端整と言うか、きれいな方だと思うが、とにかく無表情でどこか怯えたような雰囲気がよろしくない。他人を拒絶しているような空気があからさまに滲んでいて、これはなかなか同年代の子ども達に心を開かないだろうと容易に予測出来た。
 それでも、この大人しい少年とこれから良好な関係を築かないと教師失格だ。名取は何となくそう思い詰めていた。良くも悪くも、名取は理想を追い求める若い情熱がまだ燃え盛っている年頃だった。
 心中だけでもう一度強く決意した時、まるでそれに合わせるように授業開始を告げる鐘が鳴った。

「ああ、もう授業が始まるね。名取先生」
「あ、はい。教室に連れて行きます」
「どうぞよろしくお願いしますね」
「はい、お預かりします」

 深々と頭を下げた藤原の奥さんに名取もまた頭を下げた。
 それから学年主任から数枚の書類を受け取ると、名取は夏目を促す。

「夏目くん、おいで」
「はい」
「カバンは持って来てね。君のクラス三階だから、階段昇るよ」
「はい」

 手を振って見送る保護者にぺこりと頭を下げ、夏目は名取の後を付いて行く。応接室を出てすぐの階段を昇ると、初夏の陽射しが眩しく差し込んでいた。

「夏目くん」
「はい」

 呼んでみてから、名取は少し躊躇した。何から話して、何から聞けばいいか解らなくなったからだ。一瞬の沈黙が静まり返った階段に満ちていく。
 息を吸って、名取は困惑を見せないように話し出す。

「ええと、そうだな、君のクラス、一年二組なんだけど」
「はい」
「女子の方が少し多いんだ。人数も少ないんだけどね。田舎の学校だから、生徒が少なくて」
「そうですか」

 肯定するだけの相槌しか返って来ない。話題が続かず、名取は困って首を傾げた。
 普段、名取の周囲を囲む生徒たちはみんな本当によく喋る。新卒の若い教師をからかいたい男子たちや、集団で固まって騒ぎ立てる女子たちに囲まれていつだって騒音が絶えない。確かにうるさく感じる時もあるが、幼さと若さに満ちた子どもの声は決して耳障りではない。黙ることなく話し続ける少年少女たちの笑顔は見ていて飽きないものだ。
 だから、今、夏目のように無表情に黙りこくっていられると調子が狂う。騒がしいばかりの年頃の生徒たちに馴染めるか、再度不安が募った。
 どうしたものかと思案しながら歩いているうちに、あっと言う間に教室に着く。結局解決法は見つからないままだった。名取が不甲斐無く息をつくと、抱えていたノートが一冊手から滑り落ちた。

「あ」

 手を滑ってばさりと床にノートが落ちる。黒い表紙が床に突っ伏していた。
 それを拾おうと名取が屈む前に、後ろにいた夏目がすっとしゃがみこんだ。

「どうぞ」

 ノートを手に取るとすぐに立ち上がって、さっと名取にそれを差し出した夏目の眼を見る。
 あれ、と思った。確かにその眼にはあまり表情がない。色素の薄い眼は感情も薄いように見える。
 けれど、怯えたような雰囲気と反して、視線はとてもまっすぐだった。眼を逸らすことなく名取を見ている。
 少しだけ安心した。こんなにまっすぐ人を見るなら、大丈夫かもしれない。

「ありがとう」

 笑ってノートを受け取ると名取はくしゃりと夏目の髪をかき混ぜた。驚いたような表情の夏目の頭をノートでぽんと軽く叩いて、名取は一年二組のドアを開けた。
 ざわめきが聞こえていた室内は、がらりとドアが開く音と共に一瞬で静まり返る。

「おはよう。今日はみんな期待の転校生が来たよー」

 わくわくと期待に満ちた空気が教室に満ちている。
 室内に入る名取に続き、夏目もまた教室に入った。



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2009/04/02