「名取先生」
放課後の職員室の前で、一年生の学年主任に声を掛けられ名取は立ち止まった。
窓から覗く空は暗く、既に陽は落ちている。夜が近付いている学校の中にはもう生徒の姿はない。僅かに残った教職員たちが静かに雑務をこなすばかりだ。
そんな時間を見計らったかのように、学年主任はこっちへ、と進路相談室に名取を招いた。
「もう帰る所だったかな、済まないね」
「いえ、まだ採点が残っていますので」
「そうか。演劇部の方はどうだい?」
「みんな一生懸命で優秀ですね。こちらの学校はレベルが高いと伺っていましたが、凄いですね。さすが全国大会常勝も当たり前の実力だと」
「ありがとう。今の部長なんて勝気だから、大変かと思っていたんだけどね」
「そんな事ないですよ。割としおらしいですよ」
「ははは、人気あるからねえ、名取先生は」
いい顔したいんだろう、女の子たちは。そう言って学年主任は笑い皺の刻まれた目元を細める。名取もそれに笑顔だけ返した。
「四月に着任したばかりの君には大変かと思っていたけど、そうでもないかい?」
「そうですね……確かに、まだ勝手はわからないですけど、やっぱり演劇を観ているのは楽しいですね。生徒たちもみんな懐いてくれてますし」
「良かったよ。君が演劇をやっていたって聞いた時、顧問の佐藤先生が喜んでね。ずっと後続の指導員を欲しがっていたんだ。演技指導は素晴らしいけど、あと二年で定年だしね、彼も」
「ええ、わかっています」
穏やかな会話の間を縫うように、窓を開けたままの進路指導室に夜の風が吹き込んだ。四月の終わり、もうすぐ長い休みに入る直前の夜風は柔らかな冷たさを持っていた。
「それでね、名取先生」
「はい」
「君も高校教師になったばかりで初担任だし、部活動顧問も初めてだし、色々大変だとは思うけど」
「いえ、そんな」
「いや、大変だとは思う。思うんだが、引き受けて欲しい子がいるんだ」
穏やかな笑顔だった学年主任の顔が一気に引き締まった。
ついに本題に入ったか、と名取も背を正す。演劇部についての雑談だけでこの場が終わるわけはないと思っていた。
「ゴールデンウィーク明けに転校の予定があるんだ」
「今の時期に、ですか? 一年に?」
「そうなんだ。事情があってね。今日、校長と一緒に保護者と本人に会って来たよ」
「事情、ですか。何か……」
「ああ、他言はしないで欲しいんだが、君には言っておく。その子は今の保護者さんに引き取られるまで親戚の間を転々として来たらしいんだが、どうもどこかで虐待を受けていたようだ」
「……それは、確実に?」
「保護者さんの話だとね。とても大人しい男の子で自分からは何も話してくれないそうだが」
「なかなか話せる事ではないでしょうしね」
「そうだろうね。それで、今の保護者さんは彼を養子にするつもりだそうだが、まだ彼の意思が決まっていないうちは控えると仰っている。そういった非常にナイーブな問題も抱えているんだが、勉学面において遅れが目立っている事なども気にしている様子なんだ」
「保護者さんがですか? それとも本人が?」
「本人がそう言っていたよ」
「それも虐待の件と関係があるんでしょうか」
「そこはわからないな。ただ、本人が勉学面において同年代の子たちに付いて行けるかとても気にしていたので、フォローしてあげて欲しい。あとは他の子と変わりなく接してやって欲しいんだよ。頼めるかい?」
学年主任の真剣な表情を見て名取は気を引き締めた。
確かに手は掛かるのかもしれない。けれど、そんな子を眼の前にして放っておけるような人間ではないのも自覚している。精一杯の事をしてやるべきだろうと名取は決意した。
「もちろんです。私でよければ、精一杯やりますよ」
しっかりとそう断言すると、学年主任はほっと息をついて表情を緩ませた。
「助かるよ。一年の他のクラス担任はみんな年寄りだからねえ。名取先生くらい若い人の方が警戒されないだろうから」
「ああ、私だと兄くらいの歳ですしね。親くらいの歳の人相手だと怖いかもしれませんね」
「そうだろう? 君には色々負担を掛けると思うけど、がんばってくれ。私も出来るだけフォローするよ」
「はい、ありがとうございます」
ぺこりと礼をする名取に安心したように学年主任は彼の肩を叩く。立ち上がるよう促され、二人の大人は進路指導室を出た。
「それじゃあ頼むよ」
「ええ、がんばります」
「今日はまだ残るの?」
「少しだけ残務があるので」
「そう、じゃあまた休み明けに」
「お疲れ様でした」
挨拶を交わし、教職員用のロッカールームに消えて行く学年主任を見送ると名取は職員室の中に入った。
既に教職員は誰も残っていなかった。見回り中らしい職員の机に鞄が置かれているだけで、他に人影はない。
早く帰ろう。そう思いながら名取は採点中だった答案の最後の一枚に手を付けた。
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2009/03/30