箱庭にて -10




「先生、またねー」
「さよーならー」

 一年二組の子どもたちが口々に名取に手を振って教室から出て行く。はいはいまたね、といちいち手を振りながら名取も最後の生徒を見送ってから教室を出た。
 今日で一学期も終わりだ。終業式はすぐに終わり、午前中早いうちに生徒たちは帰って行く。夏の盛りを迎え、窓からは暑い陽射しが直に差し込んでいた。
 明日からは夏休みだ。暫くの間、クラスの子どもたちとは会わないのかと思うと少しほっとするのと同時に胸に穴が空いたような感覚も感じる。あの騒がしい声が聞けないのは何だかさみしい。
 だが、どうせ名取は夏休み中も学校に通い詰めだ。演劇部の大会まであとほんの二週間程度しか時間がない。追い上げとも言うべき時期で、さすがにもう部長も台本の直しを寄越したりしなくなった。代わりに張り詰めた空気を常時纏うようになってしまい、下級生に怖がられているが。
 体育館に向う前に、名取は資料室に歩を向けた。ゆっくりと歩きながら反芻する。
 夏目はこの数日の間も学校には来ていた。クラスにはいたし、友人と喋ってはいた。
 けれど名取とは決して眼を合わせないし、体育館にも来ない。友人たちには家の用事が、などと話しているようだったが、もう演劇部に来るつもりはないだろう、と名取は予想していた。
 当たり前だけれど、どうしたってため息が出る。

「仕方ないか」

 一人呟いた声が誰もいない廊下に響く。
 小さな決意を持って、名取は資料室に向っていた。
 考えていた。この数日の間、ひとつの思考が脳を占めていた。けれど踏み出そうとやっと決められたのは結局今日の朝になってしまった。踏ん切りのつかない自分には呆れなるばかりだ。
 話したかったのに、結局何ひとつとして話せないままかもしれない。それが嫌で、怖くて、一歩を踏み出せなかった。
 だけど、もう決めなければいけなかった。
 息をついて顔を上げる。

「……夏目?」

 職員室を通り過ぎて二階に向う階段。踊り場にいる影を見つけた途端、声が零れた。色素の薄い髪が視界を過ぎる。
 会いたかった。でも、もう会えないのかもしれないと諦めていた。
 だから何を言っていいのか解らなくなる。嬉しかったのに、何を言えばいいのか解らない。喜んでいいのかさえも解らない。
 名取の小さな声に反応し、夏目は踊り場の上から名取を見つける。すると、彼はみるみる表情を強張らせてそのまま階段を駆け上がった。

「夏目、待ちなさい!」

 はっと気を取り直し、名取も階段を駆け上がった。二段飛ばしで二階に上ると、夏目は廊下を資料室に向って走っていた。
 資料室に向う廊下に人影はない。その遥か先に見える背中に向けて名取も走り出す。

「逃げるな!」

 思わず叫ぶと、びくりと薄い背中が固まる。
 確かに今、名取は夏目に向けて叫んだ。だけど、本当は。
 逃げていたのは誰だったのだろう。

「う、わっ……!」

 固まった夏目に一気に駆け寄って手を捕まえる。そのまま引きずるように廊下を走り抜けて資料室に飛び込んだ。
 がらっと勢い良くドアを閉める。朝、開け放したままにしておいた窓から大きく風が吹き込んだ。全速力で走り抜けた足が震え、名取は床にがたんと座り込む。夏目も引きずられるように床に落ちた。
 足が絡むほど近くに夏目がいた。

「せん、せい」

 息を切らした夏目の声が耳に落ちる。この音を聞いていたかった。この声が好きだったんだと心底思い知る。
 今なら解る。
 あの時、逃げてしまったのは誰だったか。臆病で怖がりだったのは誰だったのか。
 それは夏目ではなく。

「なつめ」

 名取も息を切らしながら彼を呼んだ。床に座り込んだ夏目が俯いたままぎゅっと手を握ったのが解った。握り締めた手の、その力に名取の決意を重ねて見る。
 手放した未来をもう一度引き寄せたい。
 一緒にいたいと思える人に出会ってしまった。その人に未来を見せるために、自分自身の未来が欲しくなってしまった。
 ぐっと夏目の手を引く。抵抗はなく、彼はそのまま名取の腕の中に収まった。

「ごめん」
「……なにが、ですか」
「ひどいこと言った。本当に、ごめん」

 ぎゅっと夏目に縋り付きながら掠れた声でそう呟くと、強張った身体から少しだけ力が抜けた。だらりと腕をぶら下げ、夏目は名取のすぐそばでじっとしている。

「先生は、正しい、です」
「……そうかもしれない。だけど、おれは」

 途切れ途切れの声にようやっと返答を返す。ひどく切羽詰った声だと、名取も自分でそう思った。
 上手く伝えられるか解らない。だけど、話していたい。
 取り戻したい。全てを諦めたくない。

「夏目、おれ、先生辞めるよ」
「……何で、ですか」
「教師は嫌いじゃない。生徒たちはみんな好きだし、大事にしていたい。でも」

 腕に力をこめる。夏目をより近くに引き寄せて背を抱き締めると、いつかと同じように彼は怖々と名取のシャツの裾を掴んだ。

「やっぱり思い出すんだ。みんなを見ていると、おれも、もう少しの間なら夢を追っかけられるんじゃないかって」
「ゆめ?」
「うん……もう少し、演劇をしていたい。おれも演じていたいんだって、みんなを見てて気付いた」
「……そう……うん、そう、ですか……」

 安堵したように息をつき、夏目もまた名取の背に腕を回す。二人の背中を夏の風が撫でて、柔らかい空気が染みて行く。
背に回された腕がそっとシャツを掴んでいた。
 伝わっているんだろうと思えた。言いたいことの全部じゃなくても、夏目には理解できないことがあったとしても、それでも伝わっている。感情を受け止めてくれたことに感謝ばかりが重なって行く。
 触れていると解る。覚えがあるようで、初めてにも近いような強い衝動の正体を理解する。
 好きだった。きっと最初から好きで、一緒にいたくて仕方なかった。

「だから、もういいんだ」
「え?」

 ふいに身体が離れる。
 僅かに距離を置いた二人の間に風が流れ、汗ばんだ身体の温度を奪って下げて行く。
 名取の手がゆるりと夏目の頬を伝った。流れるような動きで指先が顎を持ち上げる。

「せんせ、」

 夏目が呟いた声は重ねた吐息の間に消えた。


 先生と生徒は今日でおしまい。
 これから先のことなんて、今はまだ知らない。



end.


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2009/04/25