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 助けだしたらすぐに貴弘は戻ってくると思っていた。
 だが家に戻っても、貴弘は本来の意味では戻ってこなかった。
 ずっと目を開けたまま泣いていて、その痛ましいすがたに浩隆の方が辛くなっていると、目を塞げば眠ると所長が言ったから、その通りにした。
 確かに貴弘は眠りについたので、なぜ知っているのかと問いかければ、答えは簡単よと所長は言った。
「前にもあったの。こんなことが」
「え……?」
「って言うか、それがアタシと貴裕が初めて会った時なのよ」
 またこんな事になるなんて思ってなかったわ。そう告げる所長は苦渋に満ちた表情をした後に片手で目を覆う。
「貴裕の家の事は知ってる?」
「……いや」
 そのあたりの事は、多分話したくないのだろうと思っていた。そう告げると、そりゃそうよねえと所長は言う。
「過去の話なんてしたら嫌われるって思うわ。普通」
「は……?」
 嫌うはずなどない。そう反射で言おうとして、わかってるわよと所長にさえぎられた。
「あんたが嫌うとかそう言う問題じゃないのよ。あの子が昔の事を後悔してるだけの話」
 疑うとかそう言うものじゃない。だから言えないのと言われて、なんだそれはと思った。
 そして唐突に向けられた問いかけに、謎は深まる。
「……あんた、高校時代の同級生だったんでしょう?」
「そう、だけど」
 それが一体なんなんだ。
 そう思っていると、はあ、と所長はため息をついて、しばらくのあいだ何かを考えるかのように黙り込んだ。
 そして何度か息を吐き出した後に言う。
「あの子がアタシと会ったのは、あの子が高校2年の時よ。意味わかる?」
「え?」
「その時に、今と似たような事が起きてた」
 それがどう言う事なのか、わかるかしら。
 静かな声で言われた言葉に、浩隆は何と言ったらいいのかわからなかった。
 高校時代の貴裕の事を覚えているかと言えば、イエスだ。
 浩隆の記憶にある貴裕は、積極的でこそなかったけれど、自分となんら変わらない高校生だった。
 そう、思っていた。
 それを真っ向から違うと言われて、一体何を言ったらいいのか。
「あの子の家はね、中学時代にあの子以外全員、亡くなったらしいの」
 そこから貴裕の人生は大きく色を違えた。そう所長は語る。
 身寄りもなく、途方に暮れた子供。
 頼る者のいない、アルバイトもできず自分で金も稼げない子供が、どうやって生きてきたのか。
「その頃の子供が施設に頼るなんて事思いつくわけがないでしょう? 教えてくれる人もいない。途方に暮れる子供に声をかける悪い大人は、どこにでもいるのよ」
 どうしようもない世の中よね。そんな風に言う所長は、遣る瀬無いと言う感情を露わに、眉根を寄せている。
「買春されて、そのままずるずる」
「……って、高校にはちゃんと」
「そりゃ、あの子が普通になりたいって思ってたからよ。ずっとね」
 奨学金制度で入学したから、高校では品行方正に磨きがかかったのだろうと所長は言った。
 だがそれでも、昔やった事はついて回る。
 やめたいと本人がいくら思っても、それを阻止する輩が居たのだ。
「あの子ね、ほら、あんたはよく知ってるだろうけど、最高じゃない?」
 所長の言葉の裏には『商品として』と言う意味があったように思う。
 そこについては、反論などできるはずもない。
 浩隆だって最初はそれにひっかかったようなものなのだ。
「だからはまっちゃった悪い大人がね、さらーに悪化したってワケよ」
 そんな頃に、所長は浩隆に出会ったらしい。
「あの子がね、温の息のかかったホテルに来てたのよ。偶然アタシもね」
「あの人ホテル持ってるんですか」
「色々やってるわよー。て言うかアタシの会社の出資者も半分は温だもの」
「えっ」
 だから感謝しなさい、と所長は笑う。
 そして彼の話は、本題に戻った。

 ただの利用客だったら、別にどうだってよかった。
 だが、明らかに入ってくる際の様子がおかしかったため責任者の温に連絡が入った。
 そしてその時の事件は起きたのだと言う。
「何もなけりゃいいんだけどって言いながら監視カメラで入口見てたら、あわてて男が飛び出してくるから、警備員捕まえてもらって、部屋に入ったら明らかにおかしいあの子が倒れてたわけ」
 そして状況は同じだった。
 今回のようにビデオにと言う訳ではないが、浩隆を脅して関係を続けていた男が薬を使った。そういった話だった。
「ほらよくあるじゃない? 媚薬使ってオンナを言いなりにしようってAV。バカな男はあれ本気で信じちゃったのよね」
 そして実行しようとして薬を使ったまではいいが、貴弘が陥った状況に臆して逃げ出したところを捕まった。
「まあその後とっちめてやったけどね。そんなわけ」
 そんなところよ、と告げた所長だったけれど、浩隆はその話にひとつ納得がいかなかった。
「それで貴裕を事務所に……?」
 そんな状況の貴裕を、目の前の人はAV事務所に誘うだろうか。
 それは貴裕を食い物にしようとした男たちと同じ事なのではないだろうか。
 沸いた疑問に、違うわよ、と所長は言った。そして煙草を取り出し、火をつける。
 そして思いっきり吸い込み、煙を吐き出した後に言う。
「後見人になろうとしたんだけど断られて。ひとりで生きるとかぬかしたから事務所作ったの」
「……は?」
「子供になにができるって叱ってやったわ。問題もあったしね。だから事務所作って、雇ってやったの」
 思わぬ言葉にぎょっとしていると、情が移ったってこう言う事かしらねえと所長は煙を吐き出した。
「だって可哀想だって思っちゃったのよ。それでアタシは金持ってたわけだし」
 決してやましい気持ちはなかったと所長は言う。そこは全く疑いもしなかった。
 そこまで聞いてようやく、浩隆は貴裕の所長への信頼の意味を理解した。
 何度感謝しても足りない。それは、そうだろう。そんな事をされてしまっては。
「浩隆は想像もつかないでしょうけど、まあその頃、あの子普通の仕事なんてとてもできる状態じゃなくてね」
 恐らく、それは周囲の状態ではなく、貴弘自身の問題だったのだろう事は想像に難くない。そうでなければ、業種はAVでなくてもよかったはずだ。
「その後はねえ、想像以上に売れてくれちゃったからやめるにやめられなくなって。まああの子も割り切ってたし、稼ぐだけ稼いでさっさと隠居するんだとか言ってたから」
 またこんな事が起きるんだったらさっさと隠居させればよかった。
 煙草をもみ消しながら、所長は後悔の念を吐き出す。
 何も言えずにその姿を見ていると、所長は浩隆に目を合わせて「でも」と告げた後、ふと微笑んだ。
 その笑みをどこかで見たことがあるような気がしたけれど、わからない。
「浩隆が居るから、大丈夫ね。あの頃とは全然違うわ」
 だから大丈夫よ。
 確信に満ち溢れた言葉の自信が、どこから来るのかはわからなかった。
 けれどそこにある信頼が自分に向けられていることに、浩隆の目はじわりと熱を帯びた。
 泣きそうだと思ったところで、所長は立ち上がる。
「浩隆が居るから、あの子は大丈夫よ。アタシは帰るわね。温もお迎えにいかないとだし」
「あ」
 そう言えば後始末があると残った温がどう戻ってくるのかまでは考えていなかった。
 それを読みとったかのように所長は「まあ迎えに行かなくてもいいんだけど」と言う。
「どっちにしろ別のお迎えが来るんだけどね」
「じゃあどうして?」
「やぁね、野暮な事聞かないでよ。じゃあね」
 ちゅっと投げキッスをした男は、そこにウィンクも添えて部屋を出ていく。
 ぱたん、と玄関のドアが閉まる音がした後立ち上がった浩隆は、貴弘の居る寝室へ向かった。
 戻ってくる貴裕の傍に居るために。





     *     *     *





 寒い、暗い、怖い。
 何もわからない中でそれだけを感じていた。
 なんでまだこんな事を感じるんだろうと思う。
 何もわかりたくない。何も知りたくない。怖い事はもう嫌で、苦しいのももう嫌だ。
 一番悔やむ過去の、一番嫌な部分を思い出すことを再現された貴裕の精神は、全部を拒否してしまおうと壁を創り上げた。
 そうして死んでしまえばもう楽だ。楽になれる。
 そう思いこんでの事だったのに、ただただ、暗くなったそこは怖くて、寒い。
 いやだと思って逃げ出した。それなのにまた、いやな事は付きまとう。
 だったらどうしたらいいんだろう。
 うずくまり、膝を抱えて静かに終わる時を待てばいいのか。
 虚ろになった思考は沼に沈んでいくかのように、だんだんと意味をなくしていく。
 ああ寒い。さむい、さむい……さみしい。
 沈む意識の中で思う言葉に、ふわりと何か、別の声が聞こえた。


――誰に?

 だれだろう。
 だれか、いたきがするんだけど。

――思い出せない?

 うん。

――そんなはずないよね。だってほら、ずっと隣に居るのに。

 え?

――ずっと隣に居るんだ。だから、笑っていられたんじゃない?


 大好きだよね。だからずっと一緒に居たいって思ったんだ。
 忘れたらいけないよ。あたたかいところがあるだろう?
 だから目を覚まして。ずっと待っていてくれるから。


 静かな声はそれだけ言って聞こえなくなった。
 あたたかいところってなんだろう。
 ぼんやりと思って、ああ、と涙が落ちた気がした。

(手が……)

 右手がとても、あたたかい。
 このあたたかさを、貴弘はとても良く知っている。
 ああ、そうか。

 これがないから、寒くて、暗くて、怖かったのか。

 唐突に理解したとたん、何もかもが明るくなかった。
 寒さも怖さも吹き飛んで、ただただほっとする。
 閉じていた目が開いて、その先は暗かったけれど、何も怖くなかった。


「おかえり。たか」


 泣きそうな目をしながら笑って、名前を呼んでくれる人が居るから。
 何も、怖くなかった。