――――――――――――――― 




 おかえり。
 その声は暗い部屋の中でもはっきりと聞こえた。
 差し込む月の光に照らされてうっすらと浮かぶ浩隆の今にも泣き出しそうな顔を見た瞬間に、笑みが浮かぶ。それと同時に、視界がぼやけた。
「……ただいま。おそくなって、ごめん」
 小さな声で告げた言葉に、浩隆は首を振って応えた。
 そして浩隆が覆いかぶさってくるのを、貴弘は泣き笑いをしたまま受け止める。
「こっちこそ、おそくて、ごめん」
 鼻をすする音がわずかに聞こえて、ああ、泣いたのかなと貴裕は思った。
 覆いかぶさる男の頭を撫でながら、そんなことないよと笑う。
「ちゃんと助けてくれたよ」
「……どこがだよ」
 俺なにもしてないよと、小さな声で顔を伏したままつぶやくから、ぽんぽんと軽く頭を叩きながら、物理的な事よりももっと大切なことがあると笑う。
「ずっと昔から、怖くてしょうがなかったんだ」
「……なにが?」
「ひとりが。……だけどさ、ヒロが居てくれるから」
 俺はずっと助けられてるんだ。
 それはついさっき、わかった事だったけれど。
 わかったから、とてもとても感謝している。
 今回だって、浩隆がいなければだめだっただろうと貴裕は思うのだ。
 だってあの時、本当に死んでしまおうと思った。
 浩隆がいなかったら体が生きていても、きっと心は死んでしまったと思う。
「俺さ」
 ぽろぽろと流れ落ちる涙は、少し前に自分が流したものとは正反対の意味を持っている。
 こぼれるそれはそのままに顔を上げてくれと願い、それを叶えてくれた浩隆の頬を撫でる。
 自分を見てくれている浩隆は、貴弘だけのものだ。
 それはきっと、勘違いなどではない。

「ヒロのこと」

 だから、精一杯、今感じている感謝と、歓喜と、ぜんぶを込めて。
 多分、本気では初めて言うだろう言葉を、素直に告げた。

「愛してるよ」

 失ってからでは遅くて、自分に何かあっても間に合わない。
 だから間に合わなくなる前に。
 そう思っての告白は、目の前の男の顔をくしゃくしゃに歪ませて、ぼたぼたと涙をあふれさせた。
 そうしてお互いがお互いの涙をぬぐいながら、唇を合わせる。
 その合間に、あいしてる、あいしてると何度も言い合った。
 指を絡めるようにして手を繋いで、そのまま再びベッドに倒れこむ。
 そのまま抱いて欲しいと告げれば、でも、と珍しく浩隆は戸惑ったけれど。
「なあ、気持ち悪い感触消して。たのむから」
 貴裕の体に残る、望んだものではない、仕事だと割り切ったものでもない男の感触など覚えていたくない。浩隆だけがいい。
 こいねがった瞬間に、口づけは深いものへと変わっていく。
 もうこれしかいらない。
 これだけがいい。
 そう願いながら、きつくきつく、貴弘は目の前の広い背中に腕を回す。





     *     *     *





 懸念事項はいくつもあったけれど、泣きそうな顔で貴裕が告げた言葉に、浩隆はまた泣きそうになりながらキスをした。
 脱がせた服のむこうには、いつもなめらかで綺麗な肌があった。そこにキスマークが残っている事もあったけれど、それは仕方がない。
 だが、その白い肌に残る暴力のための痣には、仕方がないとは言えない。
 遣る瀬無い怒りを覚えて歯ぎしりすると、どうした、と貴裕が視線を向けてくるから、どうにか怒りをやり過ごすしかなかった。
 何より、その手首の痣を見ると、痛ましいとしか思えない。
「痛かったろ……?」
「あの時はあんまり気になってなかった。っていうか、すごいなぁ。相当暴れたからな」
 まるで他人事のようにくすくす笑いながら、貴弘は自分の手首を眺める。
 その手首に口づけながら、ごめんな、と呟くと、笑った貴裕が謝らないでと言う。
「俺が浅はかだっただけだ。あの人の事甘く見てたし」
 まさかあんな事になるなんて思ってなかったし、ヒロは何も悪くないと言う貴裕は、なだめるように浩隆の短い髪を梳いた。
「大丈夫。こんなのどうってことない」
「なくねぇよ。お前あんなことされて、こんな痛そうなのに」
 なんでお前そんなに笑ってられるんだ。
 まるで自分の方が痛いかのような顔をしながら浩隆が言えば、だって、と貴裕は答える。
「過ぎた事だよ。そりゃ痛かったし、嫌だったけど。そこで立ち止まってたらもっと嫌じゃないか。ヒロが居るのに」
「……え?」
 思わぬ返しに、どういう意味だと目を瞠る。
 そんな浩隆をしあわせそうに見つめた貴裕は、汗に濡れた貴裕の前髪を払いながら続けた。
「好きな奴と一緒に居るんだから、幸せにならなくちゃもったいない」
 くすくすと笑うそれは、強がりでもなんでもなかった。
 ただ思った事を告げる。そんな声に、また浩隆の涙腺がゆるむ。
「なんだよ、泣き虫だな」
 そんなに泣き上戸だったっけ。
 問いながら頭を引き寄せて、目じりに口づけた後に涙を拭われる。
 優しい仕草に感極まって、そのままぼたぼたと涙を流しながらキスをすると、やっぱり貴裕は笑う。
 そのまま体中に触れて何をしても、貴弘はほんとうに幸せそうに笑っていた。
 慰撫するように青くなった痣の上に口づけ、赤くつけられた鬱血には、上書きするように吸い付く。
「ここ……ここ、して」
 手を添えた場所は、何かを待ち望むように体液をこぼして赤くなっている。
 そこにも感触が残っていると言われた瞬間に口を寄せて中に入れると、貴弘は背をのけぞらせて声を上げた。
「ああ、ああ……いい、それ」
 自分でも腰を振って動かし、そこ、そこ、と何度も貴裕はつぶやいた。
 髪をぐちゃぐちゃにしてくる手を取り自分のそこに触れさせて、動かしてと言えば諾々と従う。
 動きに合わせて頭を動かすと、もうだめ、と何度も頭を振った。
「ああ、ああだめ、も……だめ、だめ」
 貴裕の体液と、浩隆の唾液に濡れたそこは卑猥な音を立てていて、口から溢れたものは貴裕の脚の間を濡らして流れ落ちていく。
 それを指先に取りながら、馴染ませるように尻に指を這わせると、びくりと貴裕の体は震えた。
「あ、ああ……」
 もううっすら開きかけているそこに指を置くと、貴弘は目を閉じて声と息を吐き出したあとにごくりと唾を飲みこんだ。
 期待しかないその反応に、咥えていたそれから顔を離すと、小さく残念そうな声が聞こえた。
「もっとしたい?」
 本来は出口のそこを、入り口へと変えようとする動きは、最初はゆっくりとだ。
 ふちを撫でて、震えて、拓くようになるまで待つ。
 問いかけにこくこくと頷く貴裕の体は慣れているから、指を添えた時にはもう、期待に震えて僅かに拓こうとしていた。
「し、して……もう、すごい、やだ……ほんと」
 何を言いたいのか自分でもわかっていないのだろう。
 羞恥に顔を赤らめて、両手で隠しながら小さくねだってくる姿に、浩隆もごくりと生唾を飲みこむ。そして次に聞こえた言葉に、僅かに残っていた理性の糸が、ぶちりと切れる音がした。
「なんで、こんな……」
 ヒロだと、すごく気持ちいいんだ。
 ぼそぼそと、聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量でつぶやかれた言葉に、脳が焼き切れるかと思った。
「あっ……!」
 勢いで中にすべて指を押し込み、そのまま深く唇を奪う。
 舌と指とを同じタイミングで出し入れすると、貴弘がくぐもった悲鳴を上げて反射で抵抗するけれど、それを無視してぐちゃぐちゃになるまでかき回した。
 もっとも感じる部分をしつこくなでると何度も腰が跳ね上がり、逃げるように頭を振るからキスはあきらめると、その口からはまるで溶けていきそうな声が溢れた。
「あー……あっ、んん、ん……だ、め。だめ、だめ」
 もうだめ、いれて。
 指を入れている手首へと貴裕の手が伸びて、押さえつけてくる。
 荒い息の合間から、はやくと告げられて、わかったと頷くと再びキスをねだられた。
 首に腕を回し、唇を寄せてくる貴裕のそれに答えながら、何もしなくても硬くなったそれを押し付けると、んん、と貴裕の声が聞こえる。
「いい……?」
 いれちゃうよ。
 唇を触れ合わせたまま問いかけると、はやく、と貴裕は応えた。
 腰を抱いて、濡れた粘膜の中に沈みこむと、ああ、と歓喜のような声が耳に届く。
「ああ……あ、ひろ、ひろだ……」
 すごい、すごいと何度も貴裕はつぶやいた。
 ゆっくりと入り込む間にも、貴弘の体はびくびくと震えている。
 力の入った足先でシーツをかきまわしながら、腿で浩隆の体を挟み込む。
「す、げ……」
 男を呑みこんだ粘膜は、その瞬間からぞわりと動いて離すまいと締め付けてくる。
 かと思えば一瞬力が抜けたように広がって、また締まる。
「ああ、あ……!」
「んん……たか、たか、気持ちいい?」
「す、ご……すごい、すごい」
 腰を揺らしながら問いかけると、うん、うん、と返事をする。
 赤らんだ頬に汗で髪を張り付かせながら、我慢できないと浩隆の肩に歯を立てて、何度も何度も背中から腰までを爪が行き来する。
「あっあっ、や……そこ、それ」
「これ?」
「んっんっ、んん……!」
 手前の感じやすい部分と、最奥とを抜き差ししながらいじめると、涙を流して気持ちいいと貴裕は訴えた。
「も、っと……あ、だめ、それだめ、いっちゃ……う!」
「いいよ。好きなだけいって」
 何回でもいいから。
 泣きながらもうだめと告げる声に優しく答えて、キスをねだる唇を合わせる。
 これまでにないぐらいに優しく、いとしいと告げながら浩隆は貴裕を抱いた。
 終わりたくないと泣きながら言う貴裕に、大丈夫だからと何度も告げて、もう限界を訴える貴裕の性器に触れる。
 何度か擦りあげれば、悲鳴を上げながら貴裕は射精して、けれど体内はまだ足りないと訴えるように浩隆を啜る動きが止まらないから、そのまま腰の動きをやめる事はなかった。
「あっあっ、ああ……!」
 舌も、指先も、なにもかもを使って貴裕を悦ばせるべく、やれることはなんでもした。
 赤く腫れたように立ち上がる乳首は、舐めて触れて、爪を立てた瞬間に貴裕はまた射精して。
 そこから先はもう、どちらも覚えていられないぐらいに乱れて、ただ気持ちいいとだけ言い合った。
 どろどろに溶けて、お互いの事だけを考えて、泣いて、感じて。

 あいしてる。

 それだけを伝えるために、何度も何度も、その夜は体を繋げた。





     *     *     *





 その後の所長の説明で、浅都はもう貴裕の前に現れる事もなく、業界も去ったと知らされた。
 そう言えば貴裕が捕まっていたあの部屋で、浩隆が錯乱しかけたあの時、なにかおそろしい声が聞こえたような気がしなくもないのだがと告げると。
「あらやだ、幻聴でしょ?」
 にこにこ笑う所長が、痛いぐらいに肩を掴んできたので、浩隆は「イエス、サー」と答えるしかなかった。
「大丈夫よ。今後一切悪い事できないようにしてやったから」
 さすがにコック引っこ抜くのは勘弁してあげたけど。
 ハートが付きそうな、満面の笑みを浮かべて言う事ではないだろうと思うけれど、まあそのくらいやられてもいい気味だ。
「貴裕も、大丈夫みたいでよかったわ」
「ご迷惑おかけしました」
 ソファの対面に座る貴裕に向けて、本当に安心したと言う所長は、大丈夫ねと告げたあの時と同じ笑みを浮かべている。
 どこかで見たことがあると思って、その時はわからなかったけれど。
 貴裕を見るその表情に、ふと思い出した。
(ああ、そうか)
 あれは保護者の表情だ。何をきっかけにかはわからないけれど、唐突にそう理解した。
 父親なのか母親なのか、この人相手だといまいちどう当てはめたらいいのかわからないけれど、とにかくあれは、親の目だ。
 温かく見守ってくれる、大人の目。
「ほんと、後手後手で申し訳なかったわね」
「……浩隆にも同じこと言ったんですけど。謝らないでください」
「そう?」
「謝られるより、感謝したいので」
 にこ、と貴裕が笑った瞬間、所長はほんの少し目を丸くした。
 だがそれも一瞬で、すぐその口元には笑みが浮かんだ。
「そう。なら取り消すわ」
「はい」
 そんなやりとりを、ほんの少し浩隆は羨ましく思う。
 このふたりには親子のような情の繋がりがある。そこに浩隆が入り込む余地はないと、思ったのだ。
 それでもそんなふたりは、浩隆を大切に思ってくれていると知っている。
 だから浩隆は、ただ何も言わずにそこに居た。だがそんな心情に気づいたかのように貴弘の手が浩隆の手に添えられて、何も考えずに握り返した。
 ふたりの様子を見た所長は、何かほっとしたように息を吐く。
「……もう大丈夫ね?」
 恐らくその問いは、今回の事を言っているのではないだろう。
 何かを確認するように、まっすぐに見つめてくる視線を受け止めた貴裕は、ふわりと顔をほころばせて頷いた。
「はい。だから申し訳ないんですけど、辞めようと思って」
 それは事前に、浩隆に教えられていた事だった。

 所長が来る数時間前、まだ裸でベッドの中に丸まっている状態の時にふと、貴弘が言ったことだ。
「ヒロ。仕事、辞めてもいいかな?」
 ぽつりと呟かれた言葉の意味を一瞬、理解できなかった。
 だが何度かその言葉を脳内で再生させた後に、がばっと起き上がった浩隆は、一も二もなく頷いた。
 ヒロだけのものになりたい。
 小さな声で囁かれたそれに、喜ばないはずはない。
 そうしてまた、ちょっと歯止めが効かない状況になってしまったのはさておき。

「そう。それはよかったわ」
 辞職願いを止められる事はないだろうと思ったその通り、所長は笑って、貴裕の言葉を受け入れた。
「あともうひとつお願いがあるんですけど」
「なあに?」
 助けたいと願った『子供』が巣立つのは好ましいと。
 そんな表情をする大人に、貴弘はぎゅっと浩隆の手を握りしめながら告げる。
 その言葉に、所長はなによそれ、といつものように笑ったけれど。
 貴裕のお願いは、ふたつ返事で叶えられた。





     *     *     *





 そして数か月後、AV販売コーナーの一角に、それは並んだ。
 それは、続けていたシリーズものがいきなり途切れてしまうのはきっと困るだろうからと、貴裕がお願いしたことだ。
 ジャケットは、AVとしては多分、異色のものだっただろう。
 満面の笑みを浮かべる貴裕の隣には、背の高い男。
 背面しか映らないその彼と、しっかりと手を繋いで歩く姿を写したものだ。
『最後は、ヒロとのやつがいいなと思って』
 思いっきり、カメラを気にしないで、恋人になっている作品で終わらせたい。
 そんなお願いに、所長は『このリア充め』と文句を言って苦笑しながら、付き合ってくれた。
 ジャケットの後ろ姿は、もちろん浩隆だ。
 海辺でデートしてはしゃいで、食事をして、それで最後に、セックスをした。
 いつもいつも、カメラが邪魔だと思っていたけれど、最後だからと何も気にしないで、思いっきりきもちよくしてもらった。
 そんな貴裕を見せるのはやだなぁと、浩隆は渋っていたけれど。
「だって俺幸せになったんだから。自慢しないとね」
 まるで別人になったかのような花開く笑みを浮かべて言われてしまっては、反論のしようもなかったらしい。
 そして最後に、カメラに向かって貴裕はこう言った。

「ありがとうございました」

 その言葉が収録されているかどうかは、見ていないからわからない。
 それでもそれができただけで、貴弘は満足だった。
「みんなに触れ回れるような職業じゃないけど、ずっと俺を助けてくれてた事には違いないんだ」
「うん」
「だから最後にちゃんと、けじめつけたかった」
「うん、わかった」
「だからってヒロが残るのは別に止めないからな?」
 笑って言ったのに、浩隆は真面目な顔をしたままだ。
 そして。

「タカだけの俺になるって決めたから、俺もやめるよ?」

 微笑む彼の言葉に、貴弘は目を見開いた。
 何驚いてるの、と不思議そうにした浩隆が、ひょいと貴裕を抱き上げてまた笑う。
「もうずっといつだって俺のいちばんは貴裕なんだ。だから、驚かないで笑ってくれよ」
 そうしたら貴裕の言った通り、幸せになれる。
 そんな言葉に、ここ数か月ですっかりゆるくなった涙腺がまた涙をあふれさせた。
 あいしてるよと囁く声に、抱き着いて同じものを返す。

「なんでもないこと、いっぱいしよう?」
「うん」
「喧嘩も多分、するだろうなあ」
「うん」
「でもやっぱり、仲直りして笑おう」
「うん」
「そんでいっぱい、愛してるよ」
「うん、うん」
「うんじゃなくて」
「……うん。愛してる」

 涙を拭ってキスをして。
 溢れる気持ちを言葉にして、たくさんたくさん幸せになろう。




 君だけが俺の――……だから。




 いつまでも、笑っていられますように。





 END