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絶望的な気分は晴れる事がないまま、拳を握って30分の時が過ぎるのをひたすら待った。
車の運転席に座った温は、時折電話を受けている様子で、口元についているマイクを直している。
裏は取れただとか、勝手はさせるなとか、そんな言葉が聞こえていたけれど、意味がわからないし浩隆にはどうでもいい事だった。
何よりも大事なのは、貴裕が無事である事だ。それだけだ。
もうずっと、冷や汗と悪寒が止まらない。
(たのむから……)
この嫌な予感だけは外れてくれと思う。
だが経験がその考えを裏切る。
浩隆の、体調にまで現れる予感は、良くも悪くも、当たるのだ。
それでもなお、願わずにはいられない。
無事でいてくれ、と。
「浩隆」
そっと、握りしめていた拳に手が添えられた。そしてやんわりと、けれど有無を言わさぬ様子でほどかれる。
てのひらには爪の痕がついていて、はっと顔を上げて隣を見ると、所長が首を左右に振った。
「だめよ。難しいのは承知で言うけれど、冷静でいなさい」
「……っ、はい」
「いい? 何があってもあんたは見るのよ。良くても、悪くても」
否定は許さない。いや、そもそも考え付かせないような強い目で言われ、そうでなくても浩隆は頷いただろう。
「わかって、ます」
「……そうね。あんたはそう言う子ね」
いい子だわ。
そっとほほ笑み、所長が背中を撫でてくる。そのしぐさに張りつめていた息がふっと軽くなっていく。
赤くなった手のひらを眺め、そしてまた、握りしめ、額にぶつけた。
「たか……!」
小さな小さな声が、今すぐに貴弘に届けばいいのに。
* * *
使い物にならないんじゃないですか、と遠くで声がした。
だがその声は文字通り耳から耳へとすり抜けて、貴弘の頭まで届く事はない。
開いた目は瞬きひとつすることなく、ただ、涙が流れ落ちるだけだった。
「まずくないっすか? 俺こんなになるとか聞いてないですよ」
明らかに焦ったような声は、さっきまで貴裕をいいように扱っていた男だ。
だが途中で明らかに様子の変わった貴弘にうろたえ、今は何か恐ろしいものを見るような目で見ている。
「うるせぇな、別にウリモノになりゃいいだろ」
「いやでもこれはさすがに」
「んだよ、その程度で怖気づくのか?」
苛ついた声を発したのは浅都で、軽く舌打ちをしてあからさまに不機嫌な様子を見せるが、それでも男優の方は現状への恐怖が勝ったようだった。
「と、とにかく俺降りますから。あんたがやるか別の呼んで下さいよ」
もう帰ります。もめごとはごめんだ。
さっさと身支度を済ませた男はいそいで外へ出ていく。
それを再び舌打ちしながら見送った浅都は、めんどくせぇなと呟きながら携帯を取り出す。
いくつかの番号を漁ったのち、通話ボタンを押そうとして――……。
「うっ、うわああああ!!」
外へ出て行った男が発した声に、携帯を取り落した。
* * *
きっかり30分で、車は停車した。
ここだと案内されたのは、海沿いの貸倉庫だ。
「なるほど、まあ、無難なところね」
そんな感想を漏らしたのは所長だった。
そして浩隆は、今すぐにでも飛び込んでいきたい気持ちを抑えて次を待つ。
再びいい子ね、と所長は笑い、温が貸し倉庫のドアに近づいていく。
「人数は2人かそこららしいから、まあ大丈夫だろう。後から応援も来るけど」
どうする、と視線で問いかけてきた温に答えるのは、所長だ。
「待つ訳ないでしょ。とっ捕まえてひねりつぶしてやらなくちゃ気が済まないわ」
ぱし、と掌に拳をぶつけた後、ごきっと音がする。
間接を鳴らしたとは思えないその異様な音に浩隆は目を見開き、改めて思う。
(なんなんだ、この人たちは)
そう言えば仕事場の所長と言う情報しか持っていない事に、今更のように気づく。
けれどそんな疑問を気にし続けられるほど余裕のある状況でもない。
「……言うと思った」
小さくため息をついた温が、ドアの前で何かをする。
ぱん、と乾いた音がしたのだが、その正体はあまり知りたくないし、それよりも開いたドアの先の事の方が、浩隆には重要だった……のだけれど。
「物騒なもの持ってきちゃって」
「あった方が確実だろ」
「気づいたら塀の中でしたなんて嫌よ。やめてちょうだいね」
「安心しろ、その前に海の藻屑だから」
あんまりな会話が耳に入ってきた時は、聞かなかった事にした。
貸し倉庫の中は、がらんどうだった。
ただしそれは1階のみで、その片隅にある地下への階段に温が気づいて、こっちかとあっさり告げた。
そうしてその階段を下りたところで、声は聞こえてきた。
「もう帰ります。もめごとはごめんだ!」
知らない男の声の後、ばたんとドアの閉じる音。そして足音が聞こえて――
「うっ、うわああああ!!」
あっさりとその男は、所長に腕をひねりあげられた。
「あらやだ、なよっちいわね」
こんなんじゃ体力持たないわよー、などと言いながら、今度は男の首を締め上げる。
「ぐ……え……」
そして男は、多分何もわからずにあっさりと気絶していた。
(つ、つえぇ……)
なんだこの人。
本格的に疑問が湧いて出たけれど、気絶した男をあっさりと手放した所長は「行くわよ」と何もなかったかのように言う。
何もできず半ば茫然としながらその後につき従い、何かの映画のように警戒しながらドアを開けるのかと思ったのだけれど違った。
「はいはいお邪魔しますよーっと」
こんな状況には全く不似合の、明るい声を出しながら所長はドアを開けたのだ。
そして浩隆が何か言うよりも早く部屋に入った後、ガンッと音が聞こえてくる。
はっと我に返り後を追った浩隆が見たのは、あまりにもひどい光景だった。
「……たか!」
叫んだ視線の先、ベッドの上に貴裕は居た。
服はなく、両手は手錠で柵に止められ、白い肌には赤い痕が点々とある。
キスマークならまだよかった。だがそれだけではない、明らかに暴力を振るわれたと思しきそれに、かっと頭に血が上り、同時に青ざめた。
「た、か……!」
視界が曇るのはなぜだろう。
足元がふらつくのはどうしてだ。
距離にしたら数歩のはずなのに、なぜか貴裕までの距離は恐ろしく遠く感じた。
やっとの思いでたどり着いたそこに膝をつき、貴弘の顔に手を触れる。
「たか、たかひろ……なあ、たか……」
いつもならすぐに返ってくる声がない。視線も合わない。
ひどく恐ろしくて、体が震えた。
自分の後ろで何が起きているのか、所長と温が何をしたのかもわからないまま、ただひたすら貴裕の頬を撫で、流れ落ちている涙を拭う。
ぞっと、背筋を悪寒が走る。
何もなくなる気がした。
自分の周囲から、人も、壁も、床も空気も、何もかも。
冷たい、とただそれだけを思い、どこかに落ちて行くように足元の感覚がなくなる。
「たか、ひろ」
口から出た声は、本当に届いて欲しい人に届くのか。
わからずただただ怯え、恐怖が体を支配して、何もできなかった。
一番大事なものを失う恐怖に全身が固まってしまう。
どうしたらいいのかも考えられないまま、その状態がどれだけ続いたのかわからなかった。
時間にしてみれば数分、いや、数十秒程度の事だったのかもしれない。
それでもそれは無限に続くかと思えたし、頭がおかしくなりそうだった。
それほどに貴弘が、自分の中を占めていたのだと思い知る。
必要なのは自分のほうこそだった。彼がいなければ壊れてしまうのは、浩隆自身の方だ。
思い知りながら、絶望に足をとられ、落ちてしまいそうになった時。
「だめよ、
ちゃんと見なさい。そう言ったでしょう」
その声と、肩に置かれた重みに、意識は現実へと引き戻された。
はっと振り返る。そこには所長が居て、けれどすぐに、頭を叩かれた。
「なにやってるの。ここで腰抜かすような男に、貴弘を任せた覚えはないわよ」
まるで保護者かのような物言いに、反抗心は芽生えなかった。
実際自分が貴弘と関係を創り上げるよりも早く、この人は貴裕の中に食い込んでいたのだ。
何より、貴弘は所長の事を『何度感謝しても足りない』と何度も表現した。
そこにある何ものにも代えがたい念はよく知っている。嫉妬など覚えもしないぐらいに。
「いい? 貴裕は大丈夫。使われたのも大した薬じゃないわ」
だから大丈夫よ。
言い聞かせるように囁き、いたわるように所長は貴裕の体に自信の来ていたジャケットをかぶせる。
その間には温が手錠を外していて、解放された手がとさりと小さな音を立ててベッドの上に落ちていった。
「さっさと帰って、大事になさい。そうすればちゃんと、大丈夫だから」
確信を持った声で告げた所長は、まるで子供にするみたいに、さっきは叩いた浩隆の頭を撫でてくる。
そんな所長の言葉に、自分の涙を袖でぬぐった浩隆はこくりと、子供のように頷いた。
「貴裕」
名前を呼んで、動かない貴裕を抱き上げる。
耳に近づいた唇から、静かな息をしている事だけはわかってほっとした。
ぎゅう、と抱きしめた体は重いままで、未だに恐怖はぬぐえない。
それでも。
「たか、貴弘。迎えに来たよ」
おそくなってごめんな。
そう告げた言葉にほんの少し、貴弘の体が震えたように感じたから、まだ終わってなどいないのだと信じる事ができた。