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 所長に連絡をしてから20分ほどして、家のチャイムが鳴った。
 ドアを開けて立っていたのは、所長と、見知らぬ男だった。
 一見するとただのサラリーマンな所長とは対照的な、いかにもアブナイ連中をにおわせる雰囲気を纏った男だ。
 だが容姿だけで言うのであれば、感嘆、と言う言葉を使いたくなるようなものだ。
 美しい、と言う表現をしてもいいだろう。
 貴裕も綺麗だったが、この男はそれともまた種類が違う。
 中性的な貴裕のそれとは違い、この男は男のままの美しさとでも言えばいいのか。
(……ああ、あれだ)
 水墨画だ。そんな事を、浩隆は瞬時に考えた。
 細身だが、しっかりとした線がある。長い髪はまるで美しい筆を使って墨を刷いたような、日本人的な美しさだ。そんな表現をしたくなる。
「こんばんは。こっちは津嘉山温ね。便利屋だと思って。緊急事態だからこんな紹介で申し訳ないけど、とりあえず入れてちょうだい?」
「あ、ああ……どうぞ」
 所長の真剣な声と表情に、浩隆はぐっと息を呑む。
 こんな彼は見たことがなく、嫌な予感は背中を伝って全身に広がっていくのを、浩隆は無視した。
「とりあえず状況を説明するわ。温、よろしく」
 部屋にしつらえてあるソファに座ったのは所長だけ。
 ゆたか、と呼ばれた彼はその後ろに立ったまま、所長に向かってひとつ頷くと浩隆に視線をよこした。
「吾桑貴裕くんは、仕事終わりに浅都と接触した可能性がある」
 そして告げられた言葉を聞いた浩隆は、最悪の可能性に当たった事にきつく目を閉じ、そして再び開く。
 その様子を見た温は、ポケットからスマートフォンを取り出して静かに続ける。
「近くの監視カメラに、浅都らしき男と他数名が車に乗り込む姿が映っていたと報告があった。向った先は調査中」
「ダメ元でとりあえず聞くけど、あの子GPSとかは?」
 温の後に続いた問いかけに、浩隆は首を左右に振る。
「検索かけてみたけど、だめだった」
「まあ、そこまでバカじゃないわよね。アレも」
 深々とため息を吐いた所長だったけれど、その後ろに立つ温は何も動じた様子がない。
 どうしたらいいのかもわからない浩隆は、ただただ嫌な予感のする胸のあたりの服を、自身の手でぎゅうと握りしめながらうつむくしかできない。
 便利屋、などと所長は言ったが、温はなんとも異様な、一般人にはあり得ない――正直に言えばヤの付く何かのような雰囲気を醸し出している。そして落ち着いた表情のまま何やらスマートフォンを弄り続けていて、それが余計に浩隆の不安を煽った。
 時折何かメッセージを打つようなしぐさを何度か繰り返した後、唐突に彼のスマートフォンが着信を告げて、びくりと浩隆は震える。
 何が起きた。そう思いながら耳を澄ませていると、着信音が切れて温が通話に応じたようだった。
「はい」
 鈴を転がすような、と言う女性の声の表現があるけれど、この人は男版のそれみたいだ、と後に貴裕が表現するけれど、今の浩隆にはそんな事を気にしていられる余裕はない。
 何度か相槌を打った後、温は通話を切る。
 そして何度か地図を確認した後、ここから三十分ぐらいか、と呟いた。
「え……?」
 どういう意味だと顔を上げた浩隆に答えるように、ここ、と温は地図を示す。
「車の在り処がわかった。……正直なところ無事は保障できない」
 それでも行くのか。浩隆に告げる声は残酷だ。それでも。
「……当たり前だろうが」
 俺が、行かなくてどうする。
 ぐっと拳を握りしめて、浩隆は宣言する。

 ここで行かなければ、終わってしまう。

 今のふたりを創り上げたものを突き崩す、そんな事は許さない。
 ぎらりと、怒りを湛えた瞳を輝かせながら、浩隆は心の中で名を呼ぶ。
(貴裕)
 今いくから、待っていろと。





     *     *     *





 喉の奥が塞がれたように、苦しい。
 ぜいぜいとした呼吸は、快楽から来るものなどではなかった。
 体中がオーバーヒートしたように熱い。
 指先は何かに触れる度に震えて、何もかもが恐ろしかった。
 快楽を与えるための薬は、貴弘にとって恐怖そのものでしかない。
 普段押さえられている感覚を、百パーセントどころか、限界のないところまで引き上げられたようなそれが、快楽などと呼べるなんて思えない。
「……あ、ぐっ……ぅ!」
 己の体になにが起きているかなんてもうわからなかった。
 痛い、苦しい。そればかりが頭の中を支配している。
 涙と唾液と汗と、とにかく人の体から漏れ出るだろうものが、体中を濡らしているだろうことはわかる。そしてそれが醜いものであるとも。
 腹の奥を突き破るかのようなそれが、仕事としては慣れたものであるとわかっても、それが決して腹を突き破るものではないとわかっていても、今は恐怖でしかない。
「あ……ああ、う……ぐっ、ぁ……!」
 耳鳴りが頭の奥を支配していて、もう何も聞こえない。
 ぐちゃぐちゃと濡れた音を立てているだろう下肢のそれも、電子的な音を発しているだろうカメラの雑音も、衣擦れも、ベッドの軋みも。
 もう何もわからない。
(こわい……こわい……たす、けて)
 またこんな目に遭わなければならないのか。
 抜け出したはずなのに、なぜ。
 頭の中を、走馬灯のように昔の、悪い記憶だけが駆け巡る。
 死んでしまいたい。あまりの苦しさにそう考えて、ふと、何かがどうでもよくなった。


――……そうか、死ねば、楽か。


 苦しむのも、つらいのも、痛いのももういやだ。
 人に玩具のようにされるのはつらい。
 そんな事になるのなら、生きる事が苦痛にしかならないと言うのなら。


――……もう、いいか。


 そんな世界には未練も何もない。
 どうして今まで生きていたのか。それすらわからなくなって『何か』を手放そうと貴裕は目を閉じる。
 かく、とそれまで力の入っていた体が崩れ落ちる。
 開かれたままの目から一筋、涙がこぼれて――


 目が醒めたまま、貴弘の意識はふつりと、切れた。