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貴裕が帰ってこない。
その事をひどく不安に思ったのは、例の『浅都』の件があったからだった。
最初のメールから数か月の時間が過ぎていたけれど、浩隆の不安はぬぐえないままで、とにかく気をつけろと貴裕に念押ししていた。だから貴弘はここ最近、何時に帰ると宣言して出ていくし、遅くなる場合は携帯に連絡をしてくるのに、今日はそれがない。
「おかしい……」
こつこつと携帯で額を叩きながら、浩隆は時計を眺める。
今日の帰宅予定時間は午後7時。そこからさらに2時間が過ぎて、携帯は不通。
「たか……」
まだ2時間と言うべきなのか、もう2時間と言うべきなのか。
迷いながら、浩隆は携帯を握りしめる。
ごめんごめんと言いながら部屋に入ってくる貴裕を想像するけれど、さんざん心配だ不安だと浩隆が言ったおかげで、貴弘は連絡を忘れる事がない。だからそれはあり得ないとかぶりを振る。
付き合うようになってから知った事がひとつある。
それは彼が、非常にまずい人種から好かれやすいと言うことだ。
AV男優で顔が知れているとかそう言った理由ではなく、ただただ、貴弘は危ない人種を惹きつける。
そのおかげで、悪質なストーカー被害にまで遭った。
その時はなんとかなったけれど、その経験もあって、帰りが遅くなる時は必ず連絡するように言っていたし、それを貴裕が破った事もない。
まだ2時間。されど2時間。
この状態で、誰かに連絡を取るべきかどうか迷った。
連絡を取るのなら所長しかいないが、所長だって暇ではない。いい大人がたかが2時間程度の遅れで問い合わせると言うのも、どうなのか。いや、それでも。
「やっぱりおかしいだろ……」
呟いてしまえば、あとは勢いだけだ。
履歴から所長の部分で決定ボタンを押して、通話ボタンを押す。
ほどなくしてコール音が数回聞こえて、ぷつんと音がした。
『はいはい、どうしたの?』
聞きなれた声はいつもの所長。
その声だけで、貴裕の仕事はいつも通りに終わったのだと確信する。
過去のあれこれは所長も知っているし、浅都に関する件ももちろんだ。だからおかしい。
「おつかれさまです所長」
電話越し、聞こえた浩隆の声に緊張が走っている事もすぐに気づいたのだろう。
『どうしたの?』
声色こそ、それまでと同じものだった。けれどそのひとことには多くの意味が詰まっている。
「タカが、帰ってきません」
なんとか震えずに言えたのだが、不安も露わな浩隆の声に、一瞬の間がある。
『……そう、それで?』
「帰宅は7時って聞いてたんですけど、そちらは?」
『こっちはとっくに終了。……ツテ、当たってみるから少し待ってなさい』
平静そのものの声の向こうから別の声が聞こえてきた。だからなのかと、事務的な返答にも納得がいった。そのまま返事も待たずに切られたことにも怒りは沸かない。少し待てと言った通り、彼はすぐに動くはずだ。
「……気のせいであってくれよ。頼むから」
この、背筋を這うような悪寒が、単なる寒気であればいい。
電車が止まったとか、携帯の電池が切れてしまったとか。
ちゃんと帰ってきて、ごめんと謝ってくれるならそれでいいから。頼むから。
「無事でいろよ、たか」
祈るような気分で、ひたすら呪文のように浩隆は名前を呼び続ける。
ただただ、彼が無事であればいいと願っていた。
* * *
下手くそだなあと、毎度の事だけれどそう思う。
どうにも彼の周りには似たようなタイプばかりが集まるらしい。
彼、と言うのはもちろん浅都の事だ。
今回の相手は、浅都ではなく彼が連れてきた取り巻きらしい男だ。
顔が見えないからどんな人相をしているのかはわからないが、耳を塞ぎたくなるようなダミ声の主だ。もしかしたら素人かもしれないと思うのは、あまりの手際の悪さのおかげだ。
着ていたシャツは破かれて、ズボンと下着は無理やり脱がされた。
そこかしこに触れてくる手は、力が入りすぎて痛い。
「はは、いい体してんじゃん」
(そりゃどうも)
喉元に手を触れた男に言われたところで嬉しくもなんともない。
時折食い込む爪に眉を寄せるが、目隠しのおかげで彼らには見えないだろう。
「けどつまんねぇなあ。もうちょっとほら、声あげてみろよ」
「……っ!」
切れるかと思うほどに爪を立てられたのは、何の反応も見せていない乳首の上だ。
痛みのあまりに一瞬息を吐き出すと、見えない男からほんの僅かに歓喜のような気配がする。
(げ……)
まじかよ。
そんな感想が貴弘の脳裡によぎった。
(下手くそな上に悪い方のSか)
しかもこれは、苦しませ方を知らない男だと思った。
程度を知っているサドならいい。そうでない男を相手にして病院送りになった奴を貴裕は何人も知っている。加減を知らずに殴る蹴るの、プレイではない暴行を加えて警察沙汰になった奴もだ。
(……そうでない事を祈るしかないか)
頼むから入院だけは勘弁してくれ。
諦めと共に思っていると、つまらなさそうな声が聞こえてきた。
「なぁ、『タカくん』さぁ」
浅都だ。どうやら彼もこの場に居るらしい。
もしかしたら監督気取りで動いているのかもしれない。
「……」
「こんなんじゃぜーんぜん、ウリモノになってくれないんだよ。わかるよねぇ?」
つまんねぇんだよ、と言われてもどうしようもないし、するつもりもない。
立ち上がったような気配がして、こつこつと足音がする。
そして近づいてきた男は、貴弘の視界を塞いでいたものを、なぜか取り除く。
「……っ」
いきなり現れた蛍光灯の明かり。真っ白に染め上げられた視界に耐え切れず、貴裕は目をきつくつぶった。その表情に、何が面白いのか、貴裕の上に載っている男が笑う声がする。
「へぇ……やっぱりいい顔してんスね」
「伊達に顔で売れてる訳じゃねぇよ、こいつは。なぁ? タカくん?」
ぐっと顎を押さえられて上を向かされたあと、うっすらと目を開くとふたりの男の顔があった。ひとりは浅都で、もう一人のダミ声の持ち主は知らない顔だった。だがどちらも下卑た笑いを浮かべているのは同じで、それは昔よく目にしていた光景と同じだと思う。
道具を見るような、商品を見る目だ。
似たり寄ったりな表情をする二つの顔を眺めた後、どうしてか貴裕の口には笑みが浮かぶ。あまり良い意味では、ないけれど。
そして開いた口からは、浅都の言葉への返答が出る。
「……やるならさっさとやって、帰らせてくれませんかね」
返答、と言うには程遠い言葉だったけれど。
「ふーん」
浅都は笑い、その表情に貴裕は唾でもはいてやりたい気分になる。
なぜこんな男の言いなりにならねばならないのか。できる事ならこの場で暴れまわって骨の一本や二本折ってやりたいところだが、生憎できる様子はない。
だが考えていたことは行動に出てしまう。
ガチャリと鳴った手首の手錠に目を向けた男は、にたぁと気持ちの悪い笑いを浮かべて、言う。
「威勢がいいタカくんには、これでも上げようか」
すっと目の前に出されたのは、蛍光ピンクの液体の入った瓶だ。
それを見た瞬間、貴裕の背中に悪寒が走り、全身に鳥肌が立つ。
「これ、知ってるだろ?」
ビンの中身を振りながら言う男が、そのキャップを開ける。
やめろ、と言う声が出なかった。
全身からぶわっと汗が出る。それは、この男が恐ろしいからではない。
「AVやってんなら、媚薬ぐらい知ってんだろ?」
顔色を変えた貴裕の反応を楽しんでいるのか、浅都はゆっくりとそのビンを振って音を立てながら近づいてくる。
貴裕が繋がれたベッドに座り、べろりと唇を舐めた瞬間、吐き気に近いものが貴弘を襲ったけれど、浅都は気づいた様子もなかった。
(やめろ……)
全身を恐怖が襲うのには理由があった。
この手のものが使われた作品がひとつぐらいはあってもいいだろうに、貴弘が出るものにはそれが一本もない。
それは、どうやっても直せない、貴弘の体質に理由があるのだ。
媚薬だろうと風邪薬だろうと。貴裕は薬が『効きすぎる』のだ。
だから薬の使用は極力避けるようにしていたし、どうしようもない時は医者に処方してもらうごくごく弱いものしか飲まない。
知らない頃に、薬局でも売っているような薬を飲んで死にかけた貴裕は、だから薬が怖い。
どうしようもないぐらいに、反射で怯えが出る。
怯えた顔などだしたら、浅都がどんな反応をするのかわかっていても、だ。
「……へぇ、こーゆーのがダメってのは本当なのか」
にぃ、と面白そうに笑う浅都が、貴弘の顎を掴む。
ぐっと口を開かせようとするそれに必死に抵抗したけれど、喉を押さえつけられてはどうにもならなかった。
首をのけぞらせるようにされた口に、無理やりビンを押し付けられる。
流れ込んでくる液体を、どうにかして吐き出したいのに、浅都の力は貴裕には振りほどく事ができなかった。
もがきながら、どうやっても飲みこむしかできない体勢にされて、液体は貴裕の喉奥へと侵入してくる。
「……っ!」
無理やり飲まされたそれに、貴弘の視界は曇っていく。
ああ、泣いてしまった。他人事のように自分を遠くから観察しながら、抵抗していた貴裕の手は、するりと力を失いベッドに落ちた。
「さあ、楽しもうぜ? タカくんよ」
たすけて、と考える貴裕の耳に、そんな声が聞こえた。
けれどそれは耳から耳へと素通りして、貴弘の頭には届かない。
これから訪れるであろう絶望の時間に、貴弘はただ、たすけてと言う文字を頭の中で繰り返すだけだ。
誰にたすけてもらいたいのか。
多分それすら、わからなくなる。