――――――――――――――― 『きみだけが俺の』
自分の読みが甘かったのだ。
だからこんなことになった。その事を唇を噛みながら後悔してももう遅い。
まさかここまでするとは思っていなかった。だから安心していた。
平和ボケだ、と考えたのは、昔の自分だったらこんなことにはならなかっただろうと思ったからだ。
何もかもを警戒して生きていた。あの頃の自分だったら。
『大丈夫大丈夫』
そんな事を言って笑って手を振った。
不安そうに見送ってきた想い人の顔を思い出して、申し訳ないなあと思う。
吾桑貴裕の仕事は、俗にいうAV男優と言うやつだ。
だがそれは、一般的な男性向けのAVではなく、所謂ゲイ向けのそれで、彼の役割は受け入れる側。
事務所の所長のアレコレで、現在そちらの業界では五本の指の内に入るほどに売れっ子で、収入も通常のAV男優と比べると格段に上。
そんな貴弘に一通のメールが入ったのが数か月前。
所属事務所の元同僚で、何度か一緒に仕事もしたことのある『浅都』と言う男が、独立した後に仕事のメールを送りつけてきたのが事のはじまりだった。
浅都はもともと所長に対し反抗的で、それがきっかけで自分の事務所を設立したと言う話だが、それがまっとうな(AV事業がまっとうかどうかは別として)ものであるかどうかは甚だ怪しいものだ。
そんな彼からの仕事のメールは、きちんとした手順も踏まない上に慇懃無礼で、印象は最悪。もちろんきっぱりとお断りしたのだが、それ以降もメールは続いた。
「……」
携帯のフリップをばちんと閉じたのは、そのメールが再び届いたからだ。
文字だけを見れば、そこそこ礼儀正しいように見えるかもしれない。
だが一度読んでみれば、お願いではなく決めつけ、早くしろと言う命令だ。
「誰が、するかっ」
こちらにだってプライドはあるのだ。
あの男はどうにも組み敷いた人間を見下す癖があるようで気に食わないと思う。
勢い余って閉じた携帯を再び開き、勢いよくボタンを押して削除する。
何かあった時のために自身のPCへの転送は忘れないが、この携帯に残しておいては無駄な心配をさせてしまう相手が居るので、貴裕はメールが来た直後に削除するようにしていた。
そしてその心配をする相手が、がちゃりと部屋のドアを開いて現れた。
「はよー、タカ」
ふあああとあくびをしながら現れたのは、浅生浩隆だ。
同じ職場で働く同僚で、この部屋にいる理由は、彼が貴弘の私生活でも相棒だからだ。
「おはよ」
今度こそ本当に携帯を閉じてテーブルに置いて立ち上がる。
無視していれば諦めるだろう。そう思っていたのだが、貴裕がその考えを改める事になるのは、もう少し先で、そう遠くない未来だった。
* * *
ぐ、と喉からおかしな声が出た。
目隠しをされた視界は真っ暗で、ここがどこなのかもわからない。
腕からはがちゃがちゃと音がする。多分小道具の手錠か何かだろうと思うのは、わずかに冷たい金属の感覚があるからだ。
(……っ、俺の、バカ)
こんな状況になる事を許した自分に腹を立てながら、なんとか手錠から自分の手を離せないかと試みるけれど、がちがちと音を立てるだけで抜ける気配は微塵もない。
どうしてこんなことになったのかと考えて、この状況に気づく前の記憶を探った貴弘は、仕事帰りに何か衝撃に襲われた事を思い出した。
思い出せば首元にぢりりと痛みがあって、ああ、と思う。
(スタンガンとか、その辺か?)
ばちん、と音がしたのを覚えている。
そして首が熱いと思った瞬間に意識がブラックアウトして、気づけばこうなっていた。
拘束されているのは腕だけだからなんとかなるかとも思ったのだが、思いのほか手錠は手ごわい。と言うか、どうもサイズが通常よりも小さくなっているらしい。
手首をひねればひねるだけ手錠が腕に食い込んでいく。最後には、どうやったところで抜くのは無理だと悟ってやめた。
ふう、と息を吐き出しながら考える。こんなことをするのは誰かなんて、心あたりはひとつしかない。
(……しくじった。こんな行動力ある人だとは思ってなかった)
正直なところ、貴弘にとっての浅都と言う人は、言うだけの男だったのだ。
実力の伴わないナルシスト、とでも言えばいいか。そんなタイプの男で、言う事が大きいわりには行動が小さいと言う印象があった。
実際少し前まではそうだった。もしかしたらそれは、所長と言う抑止力が働いていたおかげだったのかもしれないが。
(後ろ盾でもあるのかな……)
これは明らかに拉致監禁だ。そんな事をできるような気概があるとも思えないのに、やってのけた。
虎の威を借るなんとやら。自分が大物になった気分でならこんなこともできる奴かもしれない。そう考えれば納得がいって、だがわかったところでひとつもいいことなどない。
(人数増えたら勝ち目がないじゃないか)
そこそこ筋肉がついているとはいえ、痩せ形に分類される貴裕だ。大の男数人がかりで襲われてしまってはひとたまりもないだろう。
「……くそ」
自分の呑気な脳みそに悪態をついたところでどうにかなるわけでもなし。
チッと舌打ちした貴裕は、その後大きく深呼吸をする。落ち着け、落ち着けと何度も頭の中で繰り返した後、思考を「どうやったら被害を少なくできるか」に切り替える。
(十中八九戻ってきたら撮影だ)
散々出ろ出ろと言ってきたのだから、それは間違いがない。
自身は一体何が受けているのか理解していないが、とにかく貴裕が出ているAVは売上が跳ね上がるらしい。新事務所を設立したらしいあの男は、無駄にプライドが高かったから、貴裕に狙いをつけた理由もその売上が理由だろう。
(あいつがやるのかな……嫌だな)
思わず目隠しをされている眉が寄ったのは、以前仕事を一緒にした時の相性が最悪だったからだ。優しさのかけらもない、自分に酔ったようなセックスは痛みの方が大きかったと記憶している。
(怪我だけしないよう祈るか……抵抗するか……)
一瞬考えたのだけれども、自分で脱出が不可能な以上できる限り自分の身を守って助けを待つしかないかと思う。
一体どれだけの時間が経っているのかはわからないが、貴裕が時間通りに帰らなければ、絶対に浩隆が動く。
これは自惚れと表現すべきなのかわからないけれど、浩隆は必至に貴弘を探すだろう。そして彼は絶対に見つけてくれると言う確信が貴弘にはあった。過去の事を考えてみてもそうだろう。
それにはどれだけの時間が必要か。
(……とにかく俺が、壊れなければいい)
この後起きるだろう出来事は極力考えないようにする。
大丈夫だ、必ず迎えにきてくれる。
ただそれだけを考える貴裕の耳に、ドアが開く音が聞こえてくる。
見えない視界の中、足音は複数。
(ひろたか)
絶対に、何があっても折れないし、壊れない。
唇を噛みながらそう決めて、息を吐き出す。
「久しぶり。そろそろ起きただろ?」
聞こえた声はざらざらと耳に不快感を残して消える。
知らないふりをしながら目隠しの奥で目を閉じて、周囲の感覚をシャットダウンする。
大丈夫、慣れた作業を思い出すだけだ。ほんの少し、昔に戻るだけ。
感覚を全部切り離して、心と体を別物にする事には慣れている。カメラはまだ回っていないけれど、回っていると思えばなんてことはない。
だから。
「どうも、お久しぶりですね」
かけられた声の主に対して、冷めた声で貴裕は返した。