―――――――――――――――あなたの顔を見られない。  2





 車の中では麻隆の顔を見ることができなかった。
 真っ赤になってしまった頬は未だ冷める事がなく、ひたすらに窓の外を眺めて過ごした。
 もしかしたらこのまま自分の家に行ってしまうのかもしれないとほんの少し不安に思いながらも、自分の知らない景色が流れていくばかりだったからほっとした。
(このまま帰ったら絶対気まずくなる……けど)
 結局どっちになっても気まずくなるのは必至な気がしてきた。
 心配事は心配すれば心配するほど酷くなってしまって、ついには顔が見られないほどになってしまった。
 食事中もろくに顔をあわせられなくて、藍霧とばっかり話し込んでいた。
 唯一顔を見る事ができたのは、冗談で藍霧が誘いをかけて断ったあの時だけで、その後からは一瞬見るだけでもおかしくなりそうだった。
 悠、と名前を呼んだ声が、今までとあまりにも違いすぎて―――いや、そう言えばあんな声を聞いた事がある。あの時は……。
(……っいやいやいや、そんな事ばっかり考えてるから顔見られなくなるんだって)
 このばか、と頭の中で考えながら、窓が冷たくて気持ちいいと押し付けていると、車の振動でごんとぶつけてしまった。
「……って!」
「悪い、大丈夫か?」
「だ、いじょ……ぶ」
 あいたたたと呟きながら、運転中の麻隆にむかってごめんなさいと答える。
 大丈夫ならいい、と少し笑ってまた運転に集中する麻隆の横顔をちらりと見て―――やっぱりだめだった。
(どどどどうしよう、本当に死にそう、ていうか、もういつ死んでもおかしくない気がするこれ)
 先日までは普通に顔を見られていたはずなのにこれは一体なんだろう。
 どうしたらいいのかわからなくてぐるぐると目を回しながら、額を押さえるふりで、悠は瞼を塞ぐ。
(車の中だけは勘弁してもらおう)
 その間にこの沸騰した頭の中をなんとかしよう。
 そう思って息を吐き出した悠は、麻隆の視線が一瞬自分に向いた事に気がつかなかった。



 久しぶりに入った部屋は、なんだか雰囲気が違っていた。
 以前と家具の配置やらなにやらは全く変わっていないように思えるのに、どうしてか違うもののような気がする。
「……?」
 なんだろうと思いながら部屋を見回して、そして気がつく。
 窓にかかっているカーテンが違うのだ。
 前に見た時、そこには白いカーテンがかかっていたのに、今は分厚い遮光カーテンに変わっている。
「どうした?」
 部屋を見回している悠に、今度は麻隆が首をかしげてくる。
 カーテンに目をむけながら、どうしてと呟くと麻隆は笑ったようだった。
「ああ、カーテンか。ガラスもUVガラスに変えてもらったんだ」
「……え?」
 問いかけの答えになっているとは思えない言葉に、悠は固まる。そしてついさっきまでは全然見ることのできなかった麻隆の顔へと、その視線は自然と向かう。
 そして悠に向いた麻隆の目と、合った。
「あとは、何をしたらいい?」
 目を細めて、柔らかく笑う麻隆の笑顔。
 つい最近まで見たことがなかったその表情に、息がつまるようなき駕する。
「なに……って?」
「何をすれば、この部屋は悠の場所になるんだろうと、ずっと考えてた」
「俺の……場所?」
 どういう意味だと首をかしげたら、その手がそっと頬に触れてきた。
 なんだろうと考えていた悠の頭の中は、たったそれだけで沸き立って何も考えられなくなる。焦って何か言おうとしたけれど言葉は出てこない。どうしようと視線をうろつかせながら考えていると、先に口を開いたのは麻隆だった。
「ここが、悠にとってあまり良い場所じゃないのは、わかっているんだけどな」
「……え?」
 なんでそんな事を言うんだと目を丸くして驚いた。
 何故『良い場所じゃない』なのかよくわからかった。悠にとってこの部屋は麻隆と一緒に居るための場所だったし、嫌な思いをした覚えなどひとつもなかったからだ。
 そしてまた思考があらぬ方向へと向かいかけて、思い至る。
(ああ、もしかして……)
 気にしいでヘタレと言われてしまった目の前の人は、その事を気にしているのだろうか。
 きっと『気にしている』のは悠も同じだけれど、多分それとは全く意味合いが違うのだろう。
 思い出して気にしている間、悠の顔は赤くなって、きっと麻隆の顔色は悪くなるのだろう。そう思った瞬間に、それまでの色々は吹き飛んで、頬にあてられた手に自分の手を重ねてすりよせる。
「良くない場所なんかじゃない。麻隆さんが居る場所だから、俺にとってはどこよりも居心地がよかった」
 思った事を口に出してみたら、それまでのたどたどしいような喋り方ではなくなっていた。
 さっき麻隆に言われた所為もあるのかもしれないけれど、簡単に言葉が出てきて、笑みすら浮かぶ。
「え……?」
「麻隆さん、わかってないみたいだから言うけど。俺全然嫌なんかじゃなかった」
「ゆ、う」
「そうじゃなかったら、ずっとあそこで待ってたりなんかしない」
 毎日毎日、律儀なくらいにあの場所に通って、歌っていた。
 それはいつもの習慣でもあったけれど、それ以上に悠は麻隆が来るのを望んでいたのだ。
「それに、俺だって男だから。嫌だったら抵抗するし、簡単にさせたりしないよ?」
 最終的には勝てなくても、嫌だったら無抵抗という事はまず有り得ない。病気のおかげで弱々しく見られがちではあるけれど、持久力がないだけで、力はあるのだ。
 だからあれは決して嫌々ではないし、ましてや強姦と言う言葉も当てはまらない。
「まあ……そうかも、しれないが」
 悠の言葉に麻隆は眉を顰めながら頷く。
 納得してないな、とその表情で気がついた悠はさらに言葉をつのらせる。
「麻隆さんが好きなんだ。好きすぎて、苦しくなるぐらい」
 顔を見るだけでも立てなくなりそうなのは、気付いてしまった気持ちが大きすぎて、パンクしそうになるからだ。
 ぎゅうぎゅうと締め付けられるような感覚は、麻隆の事を考えているときに現れる。
「昨日も、電話が来ただけで頭、おかしくなりそうで」
 一分にも満たないような電話だけでどうにかなってしまいそうだと思ったから、今日は死んでしまうかもしれないと思って、本当にそうなりかけた。
 そんな風になってしまうほど麻隆を好きだと言うのに、どうして麻隆がそんな考えに至るのかがわからない。
「い、今だって……顔見てるとおかしくなりそうで、ほんと、ダメで。だから絶対、良くないなんて、なかったんだ」
 こんな恥ずかしいとしか言えない心情を、まさか本人の前で吐き出す事になるなんて。
 だがそうしなければ麻隆の考えがどんどん悪い方向へ行ってしまいそうで、それだけはどうしても嫌だった。
 本人が悪いだなんて思っていないのに、それを麻隆に否定しないでほしかった。
「……」
 思っていた事を言い切った悠に対して、麻隆は何も反応しない。
 顔を見るのが恥ずかしくて伏せていた頭を、悠はおそるおそる上げてみる。
 麻隆の目は悠を凝視していて、その表情にはありありと驚きの色がある。ぽかん、と表現したくなるような表情に、こちらもつられてぽかんとすれば、シリアスな空気が一転して間抜けな空気に変わったように思えた。
「あの、麻隆……さん?」
 ぽかんとしたまま口だけを動かして名前を呼べば、ああもうと呟いた麻隆が頬から手を離して両手で顔を覆う。
「……あの?」
 一体どうしたんだと思っていれば、数歩後ろに下がってそのままぼすんとソファーに座り込んでしまう。
 何か気に障る事を言ってしまっただろうかと一瞬不安になったのだが、その後に聞こえたのは笑い声だった。
「……え?」
 あははは、と笑っている麻隆の肩が震えている。
 次第に息が苦しくなったのか、ほんの少し笑いが止まってまた再会を繰り返した。
「……はははは! はー、はぁ」
 最後の方はもう痙攣じみた動きになっていて、苦しいと言わんばかりの仕草で胸をなでおろした麻隆が、こちらを見る。
 そうして彼は、悠に向かって手を差し出した。
「おいで」
 幸せそうな表情で言われては逆らえない。
 その手を取ればぐいとひかれて、麻隆の隣に座らされる。
 そしてまた、その幸せそうな笑顔を向けられて悠の顔どころか、体全体が真っ赤に染まる勢いで体温が上昇する。
「う、わわわ……わぁー」
 頭を抱えてうずくまろうとしたら、それは阻止されてしまった。
 両腕を押さえつけられて、膝の上には麻隆の肘が乗せられて動きを止められてしまう。
 当然彼の上半身は悠の膝の上まで来ていて、そこから見上げるようにして目が合って、今度こそ心臓が喉から飛び出してくるんじゃないかと思って、悲鳴があがりかけた瞬間。
「……んんん!?」
 その悲鳴を飲み込むように口付けられた。
 下からと言うのは初めてで、いつもと立場が逆転しているかのように感じる。
 だからと言って悠が積極的に何かできるかといわれれば、不可能に近い。
 元々が麻隆とあんな関係になるまで、悠の経験値はないも同然だったのだ。麻隆のキスに答える術をやっと覚えたばかりの、そんな悠が何かを仕掛けられるほどになるまでには、まだまだ足りない。
「……んん、ん!」
 何度も角度を変えながら口腔を舌で探られ絡められ、たったそれだけで悠の思考は溶けていく。
 少なくとも今こうしてくれる麻隆は、悠の気持ちを正反対の方向に誤解せずにいてくれているようだ。
 いきなりこんな事をしなくても、口で言ってくれればいいのに。
 そう思いながら、けれどこれが自分たちにとって一番わかりやすい方法なのだろうなとも思う。
 言いたいことをどう伝えたらいいのかわからないから、それならこうして言葉でなく行動で伝えてくれた方が伝わりやすい気もする。
 麻隆は言葉をくれたから、少なくとも悠が麻隆の気持ちを疑う事は、よほどの事がない限りはないだろうから。
「う……ん、ん」
 キスに応えながら、そろそろと手を伸ばす。
 麻隆の髪にそっと指を差し込んで、両手で抱きしめるように抱え込んだ。
 膝を押さえつけていた肘は、片方がはずれて悠の頭に回される。
 器用に体の角度を変えた麻隆は、残った腕を悠の腰に回して抱きしめてから、キスを解く。
「……考えるなって言うのは、真理かもしれないな」
 唾液に濡れた悠の唇をその指で拭って、麻隆はそんなわけのわからない事を言う。
 ぼうっとしたまま首をかしげれば、彼はまた笑みをうかべた。
「どうも俺はネガティブな方向に考えが行くらしいから、考えるよりも先に何かしろと、怒られた」
「……誰に?」
「誰だと思う?」
「って言われても」
 悠と麻隆の共通の知り合いなど、アキラかさっき知り合った藍霧ぐらいしかいないではないか。
 しかもどちらもまだ付き合いが浅いのだからわかるわけがないと眉を寄せたら、眉間を指で押してほぐすようにしながら麻隆が続ける。
「アキラに言われた。伯父さんが考えてるほど世の中傾いちゃいないんだ、とな」
「……ああ、なんとなく想像つくかもしれない」
「あとは、頭で考えたってしょうがないんだからさっさと行動しちまえと、殴られた」
 昔散々スコアで殴ってやった仕返しだろうかと麻隆は笑う。
 安心しきって力がぬけたような表情はまだ見慣れておらず、やっぱり見ているとどきどきする。
「……俺、麻隆さんが好きだ」
「ああ」
 嬉しそうな声でうなずかれて、よかったと思う。だからこそ悠は続けた。
「だから、俺にとって良くないなんて、言わないで」
「悪かった」
「何もしなくても、麻隆さんが居てくれれば俺、なんでもいいよ。何もしなくていい」
 面倒くさいこの体を気にかけてくれなくてもいい。
 何もしなくたって、たった一言『いい』と頷いてくれるだけで、そこは悠の居場所になるのだから。
「……悠」
 なにもしなくていい、と呟いた悠に呼びかけて、麻隆は体を起こしてソファーに座りなおす。
 そうしてから改めて悠の手をとり、まるで教師のような面持ちで言った。
「無理はしないで欲しい。病気の事もできる事はする。……付き合うのであれば、しなくてはならない事だ。面倒だなどとは思わないから、しなくてはいけない事は全部言いなさい」
 顔を覗き込むようにして言われた言葉に反射で頷いてしまったのは、麻隆があまりにも真剣だったからだ。
「悠が体の事をあまり言われたくないのはわかっているつもりだ。だがそれは怠る理由にはならない。無茶はさせたくない。わかるな?」
「……は、い」
 初めて、この人がしっかりとした大人で、悠などよりもずっと長い間生きてきた人なのだと実感した。
 悠が気にしている事をしっかりと理解した上で、貶すでもなく、ただ真摯に悠のことを考えてくれていて、何故かとても泣きたくなった。
 そうして本当に涙が浮かんだから、麻隆は慌てた。
「……っ悪い、泣かせるつもりじゃ」
「あ、ちが……ごめんなさい。そういう意味じゃ、なくて」
 興味本位で眺めるのではなく、そんな風に言葉をかけてくれた人は少なかった。
 ましてやその言葉をくれたのが、大好きな人。
 流れ落ちる涙は、悲しみからくるものではない。
「あの、なんか俺嬉しくて、どうしてかな」
 苦しくて嬉しくてドキドキして泣きたくなる。
 好きな人が、悠を大切にしたいと言ってくれた。その言葉だけで十分だと思う。
 それなのに、麻隆はそれ以上の爆弾を投げてよこした。
「悠、歌いたいって言ったのは、本当か?」
 ごしごしと目を擦る悠の顔を上げさせながら、麻隆が問い掛けてくる。その意味がわからず困惑しながらもうなずけば、ほっとしたような息を麻隆が吐き出した。
 そして近くのテーブルから封筒を手に取って、悠に差し出してくる。
「……?」
 なんだ、と首をかしげれば開けろといわれた。
 既に封を切ってある封筒から出てきたのは、何やら色々と文章の書かれた紙。
 そしてその上には『一次審査合格』の文字。名前欄には間違いなく悠の名前。
「……は?」
 一体何に合格したのだ、と思って文章を追いかける悠に、麻隆の声がかかる。
「最終的に俺がプロデュースする奴を探すオーディション、の一次」
「……はぁ!?」
 なんだそれ、と呟いたその声には多分に呆れが含まれていた。
 自分が選ぶオーディションに勝手に悠を応募したという事か。
「……言っておくが俺は選考に関わってないからな」
 悠の考えを読み取ったのか、苦笑しながら麻隆がフォローしてきた。
 それでもどうなんだと悠が眉を寄せていると、麻隆は笑いながら言った。
「一次はプロフィール審査。二次からは歌。三次で10人まで減って、次が最終。最終で3人に絞って、あとは俺がふるいにかける」
「ふるいって?」
「実際に事務所に入れて、ついてこられない奴はアウトって事だ」
 一般公募のオーディションから上がってきた素人たちは、芸能界が自分の想像と違ったもので幻滅して脱落していく者も居る。
 実際に仕事をさせて、生き残ったものだけがデビューできるという仕組みらしい。
「俺は選考には加わらないから安心しろ。別に悠だけひいきしたりもしない」
「だ、けど……俺、昼間出かけられないし」
「そこは俺がきちんとしてやる。主治医は居るか?」
「あ、えと、昔から俺の事診てくれる先生なら、ひとり」
「じゃあ今度紹介する事。最低限のボイストレーニングはしてやる。だから最終まで残りなさい」
 そうすれば公に悠の事を育てられるから。
 そう言って麻隆は笑う。
 それはあんまりな方法ではないかと思ったのだが、もう選択の余地など残されていないらしい。
 最終まで残って麻隆の元へ行く。それがもう麻隆の中では決定事項のようだった。
「そんなぁ」
 そう呟いてから、悠はアキラの言葉を思い出す。
『自由奔放傲岸不遜自信満々天上天下唯我独尊。あとそれなのに肝心なところでヘタレ』
 今回はその前半部分が現れたと言う事か。
「嫌なら断ってもいい」
 なんて言うくせに、 有無を言わさぬ雰囲気を纏っているところがまたどうにも。
「…………嫌じゃ、ないです。でも最終まで行ける自信なんてありません」
 ぼそぼそと言うのが精一杯で、どきどきして顔が見られないなんて感覚はどこかに吹っ飛んでいた。
 こんなにぶっ飛んだ行動をする人だったのかとなんだか驚いているのか感心しているのかわからないような現状で、だがそれが嫌ではないから困った。
 そう言えば一番最初の時も状況は違えど、こんな感じではなかったか。
 俯いてぼそぼそ喋ったら、くいと指先で顎を押されて顔を上げられる。その先には麻隆の顔があって、その表情はまさしく王者と言えるような自信に満ちたものだった。
「残る。俺の目は絶対だ」
 間違いなど絶対にないと言い切るそれは、経験から来る自信なのだろう。そうでなければこの男はここにはいないはずだ。
「だから悠、俺を追いかけて来なさい。自分の手で、来るんだ」

 自分の力で。

 そう言われて、頷くしかできなかった。
 それだけの力があるのだと断言されて、嬉しくもあった。
 多分麻隆は、自信のない悠に理由をくれようとしているのだろう。
 だから、精一杯がんばってみようかと思えた。
「……がんばり、ます」
「それでいい」
 小さく告げた声に麻隆は満足そうに笑って、悠の頭を撫でる。
 そして愛しいと言うように額に口付けられて、その唇が瞼や頬、最後に唇に落ちて、もうどうしようもなくなる。
 そしてやっぱり、悠はまた麻隆の顔を見られなくなってしまった。











結局麻隆は脳みそで考えるより体が動く男。