体中に染みわたるような、声。
甘くて苦い、とても、美味しい。
「……永居さん」
突然かけられた声に驚いて振り返り、名前を呼ぶと、彼は小さく微笑んだ。
「ああよかった、やっぱり司狼くんだ」
両腕に大きな荷物を抱えてほほ笑む彼から出た自分の名に、ぞわりと背筋をなにかが走る。
なんだコレは。そう思いながら答えを見つけ出せずに茫然としていると、永居は大荷物を抱えている割に危なげなく近づいてくる。
「こんにちは」
にこっと笑った彼に、一瞬応えられなかった。
どうしたんだろう、と言う顔をしたから司狼ははっと正気付いた。
「こ、こんにちは」
しまったどもった、と思ってももう遅い。
ああどうしよう時間よ巻き戻れなんて思ったわけだけれど、目の前の大人はそんな事気にしなかったようだ。
「ごめんね、今日は営業午後からだから買い出しに行ってたんだ」
「あ、いや俺のほうこそすみません、時間外に来ちゃって」
ちゃんと確認してから来ればよかった。少し後悔しながら言えば、永居は大丈夫だと笑いながら司狼の横を通りぬけて、店のドアを開けた。
「どうせなら中入っていかないかな? ちょうどまかない作るところだったし」
「え、でも」
申し訳ないと言おうとしたら、永居はふふ、と笑いながらこて、と首をかしげて言う。
「ひとり飯はさみしいとおもわない?」
にこっと笑った顔になんだか逆らえなくて、ほぼ反射で司狼は「はい」と答えていた。
そう言えば、前に来た時はろくに店内を見る事もできてなかったのだと司狼は思った。
どうぞどうぞと通された店内は、思ったよりも狭い。
いや、これぐらいがちょうどいいのかもしれない。そう思ったのは、席に座った瞬間になぜかものすごく安心したからだ。
カウンターに5席、狭い通路を挟んだ窓側にテーブル席が4つほど。
その奥には下に降りる階段があるようだけれど、その先がなんなのかはわからない。
窓側のテーブル席に通され、向かい合って座る永居が出してきた食事は、みそ汁とサーモンのマリネと鶏肉のトマト煮。
ミスマッチな取り合わせを前にしながら、永居はほんの少し眉を下げて「みそ汁以外は全部昨日の残り物なんだ」と言う。
「ごめんね、今度司狼くんが来る時はちゃんとしたもの作っておくから」
「え、いやいやいや。俺がお邪魔しちゃってるのに」
ひとりぐらしの男にはこれでも十分豪華だと言えば、そうかなあと永居は言った。
あたたかいみそ汁の具は豆腐とわかめとねぎ。ご飯だけは炊きたてだよと笑う通り、つやつやしてきれいで、何よりちゃんと「ごはん」の匂いがした。
「……うまそう」
じゅるり、とよだれが出そうになりながら無意識に呟くと、永居はとても嬉しそうに笑って「どうぞ」と手を差し出した。
「い、いただきます」
もはや遠慮もどこへやらと、こらえきれなくなった司狼は両手を合わせた後箸をとる。
まずはとりあえず魅惑的な日本の朝ごはん代表のみそ汁をすすれば、なんだか昔懐かしい味がした。
「あー……染み渡る」
思わず感動のため息が出るぐらいに、一口で美味しさが体中に伝わるみたいだった。
高級料理屋みたいな特別感があるわけではないのだけれど、例えば、なんというか、温泉に入った時の感覚とでもいえばいいのか。とにかく「落ち着く」味がした。
(あー……なんだろこれ……ああ、そうだ)
ぱくぱくと、炊き立てのごはんを口に入れながら、何かとても久しぶりの感覚に当てはまる言葉を頭が探している。そしてふと思い至ったのは、とても簡単なひと言だ。
(しあわせ、って言うんだ)
こういうの。
そう思えたらなんだか急に目が熱くなって、そして。
なぜか、目の前の永居がぎょっと驚いた顔をした。
「……?」
その意味がわからずに首をかしげると、なぜか視界が曇っていく。
どうしたんだろうと思っていると、なぜか慌てた永居が「だいじょうぶ? どうかした?」と問いかけてきた。
なんだろう、と思った後、頬を伝うものに気が付いた。
「あれ……?」
なんだろう、とまた思う。
箸を持ったまま自分の頬に手を当てて、そして拭ったものが涙だと気が付くまでに数秒かかった。
(……あれ?)
数秒前に口から出た言葉が、脳裡でまた浮かび上がる。
なんで泣いてんの、俺。
そんな疑問が湧いて出たあとに、
(ああ、まただ)
そんな事を思った。
「だいじょうぶ?」
永居の手が伸びてきて、その手にあるハンカチで涙を拭われても、司狼は動けなかった。
ただされるがままになりながら、正面にある永居の顔を見る。
(この人の前に居ると)
なんか苦しい。
ぽたぽたと流れ落ちる涙を拭われながら、抗う事もせずそれだけを思った。
おいしいごはんと、それを作ってくれた永居。
ほんのちょっとの、しあわせ。
(なんだろ、これ……)
すっごく苦しくて、でも、なぜかうれしい。
これの意味は、なんだろう?