ぽろぽろと落ちる涙をぬぐえないまま、司狼が呆けていると「大丈夫?」ともう一度声がした。
 その声にはっと我に返り、そして正面にある心配そうな顔を見て、なぜか心臓が跳ね上がる。
(え? あれ?)
 どうしたよ、俺。
 そんな自分のツッコミも聞こえたけれど、永居の顔から目がはなせないまま、司狼は固まってしまった。
 そして何もできずにいると、またハンカチで涙を拭われて、そして目の前の顔が少し斜めになった。
「どうかしたのかな?」
 首をかしげ語りかけてくる優しい声に、何かが崩れ去っていくような気がした。
 それは悪い事ではなくて、むしろ良い事だ。
 今まで司狼が積み上げてきたバリケードが崩れ去って、その中にあるものが顔を出す。
「あ……ええと、えと」
 さみしくて、かなしくて、怯えて、丸くなっている――、ちいさな。
「ん?」
 ちいさな、ちいさな、司狼。
 ずっとずっと抱えていた、ココロの中にあったもの。
 守るように、閉じ込めるようにしていた壁のようなものが崩れて、そして怯える『司狼』に触れたのが、何だったのか。

「……なんか、うれしくて」

 何が嬉しいのか。
 それをもう、司狼はわかっている。
 目の前のひとと、ごはんを食べた。それがとても嬉しい。
 こんなに嬉しくて、こんなにしあわせなのはどれぐらいぶりの事だろうか。
「うれしい?」
 それはよかった。
 そんな風に微笑む永居の言葉で、さらに嬉しくなる。
 涙はいつの間にか止まっていて、司狼の口元は上がり、笑みになった。
「こんなふうに、誰かと飯食べたの久しぶりで。あと、久しぶりにおいしいって思って」
「そう」
 だからとても嬉しい。そう伝えると、同じように嬉しそうな顔を永居もしていた。
 そしてはっと、思い出す。
「……はい。だから、ええと」
 ごはんに夢中になって本来の目的を忘れていたと、足元に置いた鞄の中身を司狼は探った。
 いつも持ち歩いている鞄は、A4サイズの本が楽々と入る大き目のもので、目的の物はその底に沈んでいる。
 がさごそと探し出した後、包みが汚れていないか確認して、それを差し出した。
「これ、よかったら」
 縦長の小さな包みは、本当なら自分ができたらよかったのだけれど、できないので店員にラッピングしてもらった。
 英字新聞を模した包装紙に、自分で買ったシーリングスタンプのようなシール。
 緊張しながら差し出したそれを見て、永居は再び首をかしげる。
「……俺に?」
 うんうんとうなずいて答えると、永居は何を言う事もなく笑ってそれを手に取ってくれた。
 その事にほっとしていると「開けても?」と問われてもう一度こくこくと司狼はうなずく。
 何が入ってるのかな、とわくわくした顔をしている永居に、大したものじゃないと思うんですけどと告げながら反応を待つ。
 丁寧にはがされていくラッピング。永居の動作はとても丁寧で、ただの包み紙ですら大切に扱われていてなんだかむず痒い気分だ。
 そして現れた中身に、永居はほんの少し目を瞠った後、司狼を見る。
 現れたのは、蓋の部分に天の川に浮かぶ音符が描かれた万年筆。
「これ……」
 驚いたようなその表情に、慌てて司狼は付け足す。
「あ、えと、飲食店の人に菓子折りとかはどうなのかなって思って。でもなんかいいもの思いつかなくて、結局、そんな……感じに……なっちゃった、んです、けど」
 最後のほうはだんだん自信もなくなり尻すぼみになっていく声に、けれど永居は思いのほか喜んだようで「ほころぶような」とつけたくなる笑みを浮かべた。
 その表情にどきりとして、司狼の涙はぴたりと止まる。その代りに、顔が赤くなっていると自分でわかるぐらいに熱くなった。
「万年筆なんて、高かったでしょう?」
「え……? あ、いや。大学生のアルバイト代程度なので、たかが知れてて申し訳ないんですけど」
 なんかこういうの初めてでわからないし恥ずかしい。そんな事を言って顔が赤くなっている理由を誤魔化した。
(……ん? ごまか……?)
 一体何を誤魔化したんだ。
 一瞬そんな疑問が頭をよぎる。けれど続いた永居の声に、それは吹き飛んでしまった。
「恥ずかしくなんかない。ありがとう。嬉しいよ」
 大事にするね。そんな言葉と共に微笑まれて、心臓が止まるかと思った。
 どくんとか、そんな音を一回立てた後に息が止まる。本当に。
 びっくりして目を見開いていると「どうかした?」と問われて、返事をしようとしたら息が戻ってきた。
「え、えと……そんな喜ばれると思ってなくて、びっくり、しました」
 なんとかとぎれとぎれに応えると、当たり前じゃないか、と永居は言う。
「一生懸命選んでくれたものに喜ばない訳がないじゃないか。本当にありがとう。大事に使わせてもらいます」
 本当に大事そうに、万年筆に白い手が触れた。
 たったそれだけの動作に、司狼はまた心臓が大きな音を立てるのを知る。
 あまりに大きい音に、永居の耳にも届くんじゃないかと思った。そして同時に、火を吹いたように顔が熱くなって、何か病気にでもなったんじゃないかと思う。
 そうだ病気だ。そう思おうとして、できなかった。
 まあある意味病気でも間違いなかったのだろうけれど。


 その時にはっきりと自覚したそれは、紛れもなく。



 恋、と言うものだった訳であるのだからして。