永居が運転する車はとても静かだった。
 穏やかそうな見た目と違わぬ運転技術。そして車の中には一切BGMが流れない。
 普段から車内でオーディオ機器を使っていないのだろうなと思ったのは、彼がラジオにあるオーディオコンポに一切見向きもしなかったからだ。
 車で音楽を聴く癖がある人間は、車に乗るとすぐにつけっぱなしの音楽が流れるし、コンポに電源が入っていない場合はすぐに電源を入れる。
 どうやら永居はその癖を持っていないようで、けれどその静けさがその時の司狼にはとてもありがたかった。
 家の住所を告げると「結構近くだね」と永居は笑って、カーナビの電源も入れずに車を走らせる。
 そして司狼は、永居の言葉にあんぐりと口を開いてしまった。
 さんざん歩き回ったような気がしていたのに、蓋を開けてみれば近所(と言っても車で10分と少しかかったが)を歩き回っていただけだったらしい。
 一人で帰るなどと言おうとした自分に対し、道もわからないのによくそんな事が言えたなと思う。
 近所かどうかもわからないままさまよって、何がひとりで家に帰る、だ。
 少し前の自分に対してあほだと思いながら、ひたすら永居には頭が下がる思いだ。
 そしていつの間にやら車は止まっていて、「ついたよ」と言う言葉に慌てて司狼は車外に出た。
 貧乏学生の司狼には、防音室などと言う設備を備えたマンションの家賃は払えない。
 だから連れてきてもらったアパートは、どうやって見ても低家賃のボロアパート。
 背中にあるそれに帰るのが恥ずかしいだとか、そんな感情はないけれど、なぜか足は動いてくれなかった。
 なんでこんなに後ろ髪惹かれるのだろうかと思いつつ、どうしようもないから司狼は頭を下げる。
「ほんと何から何までありがとうございます」
「大した事はしてないけどなあ」
 顔を上げると永居は笑っていて、本当に軽い事のようにそう答えた。
 けれど司狼にとっては『大した事』だったのだ。
 大学に入る少し前から、司狼の精神はささくれ立っていて、大学に入って以降もそれはひどくなるばかり。
 そんな心を、彼はほんの少しの言葉と気遣いで、なだめるように穏やかにしてくれた。
 欲しがっていたものを永居はくれた。だから反射で、涙が出たのだと思う。
 すごい人だと思った。そして唐突に、足が動かない理由を悟る。
 自分は、この人とさよならをしたくないのだ。親にすがる子供みたいに。
 この年になってそれかと、頭の中で笑う自分が居た。
 けれどそれが何だと言う自分も居て、司狼はもう少しだけ会話を引き延ばすように首を左右に振って言う。
「それでも、やっぱりありがとうございます」
 この人はすごいなあ。
 そんな事を考えたらまた少し目が潤んできて、それを誤魔化すように司狼はまた軽く頭を下げる。
 そんな司狼の様子を見た永居は、そうだね、と片腕をハンドルにかけて笑った。
「それじゃあ今度またお店に遊びに来てくれたら、嬉しいかな?」
「あ、そんなんでいいなら、もちろん」
 そんなんで、と言いながら、ぱっと司狼の顔には笑みが浮かんだ。
 これでさよならではなくなるのだと思えば嬉しく、急に重かった足が軽くなったような気さえする。
「道わかるかな?」
 大丈夫? と首をかしげられて司狼は返事ができなかった。
「う」と小さく呻くと笑った永居が半透明の小さな何かを差し出してくる。
 そこには小さくBar&Liveの文字の下に、大きく「Swing」とロゴが入っている。
 小洒落たそれはあの店の名刺のようで、ロゴの下には住所と電話番号。そして営業時間の文字。
「お昼にくればわかりにくくはないと思うよ。駅の反対側にあるからね」
 その名刺を受け取る司狼の手を、なぜか永居はまじまじと見つめて、そのあと笑いながら続ける。
「手、大きいね」
「……え?」
 いきなり変わった話題についていけず、司狼は首をかしげた。
 そんな反応など気にしない様子で、むしろそれを楽しんでいるかのように永居はふふ、と笑って手を差し出してくる。
 司狼の表情に浮かんだクエスチョンマークに答えるように「握手」と永居が言い、慌てて司狼は右手を差し出す。
 それを掴んだ永居は、形を確かめるかのように何度か握り、
「うん。大きい」
 ふふ、となぜか嬉しそうに笑って頷いて、満足したように手を離してひらりとそれを振った。
「寒いから、もう戻るといいよ」
「あ……ええと、はい」
「今度はゆっくりお話しができるといいですね」
 待ってますよ、と社交辞令ではない雰囲気で彼は言った。
「はい」
 じゃあね、と永居が言うから、ドアを閉める。
 そしてそのまま車は発進するのかと思った。
 けれど助手席の窓が開いて、永居が口を開く。
「楽しみにしてます。帰ったらちゃんとあったかくして寝て下さい。お大事に」
 そしてまたひらひらと手を振って、今度こそ車は走り出した。
 その車が視界から去ってから、司狼は立ちすくんでいた事に気づく。
 ひゅう、と風が吹いて、司狼はぶるりと体を震わせて「さむさむ」と呟きながら家に入る。
 そしてその日は永居に言われた通り「あったかくして」眠りについた。
 体調はまだ悪いままだ。
 最悪の一日は、けれど最後の最後に司狼にプレゼントをくれたらしい。
 だから気分は悪くない。いい夢も見られそうだと、司狼は笑った。