昨日どうだった? と聞かれた司狼は「最悪」と一言答えた。
問いかけてきたのは、例の助っ人を頼んできた友人。
いかにも人のよさげな顔をした、およそ大学生とは思えないでっかい真っ黒の目を持つ、一応男。
本人も気にしているらしい、司狼とは頭ひとつの差の低身長。
もうこれは少年と表したほうがいいのではないだろうか。名前は、新屋。新屋望。
「最悪? あいつらそんな事言ってなかったけどなんかあったの? シロー」
「いや、これは俺の問題」
そう。単純に司狼の問題だったのだ。
音楽性の違いとでもいえばいいのか。
なんというか、楽しそうにしている彼らの後ろでキーボードを弾きながら、ちっとも楽しくなかった。それが問題だった。
そうして終わってさっさと帰ろうと思っていたらしこたまビールを飲まされて、酔っ払いと化して徘徊しただなどと。格好悪すぎて言いたくない。
「……んー」
昨日の事を思い出している司狼に、しかし新屋はかわいらしく顎に人差し指を当てながら首をかしげた。
「最悪って言うわりには、シロー楽しそうに見えるんだけど。間違い?」
こて、と首をかしげる新屋の顔は興味津々といった体で、嫌な予感がする、と司狼は顔を引きつらせる。
こうなった時の新屋はしつこい。
童顔で女顔のせいなのか、可愛いと呼ばれる仕草が似合うはずの新屋だが、司狼にとっては小うるさい存在でしかない。それでも彼と友人づきあいをしているのは、彼が素直で純粋だからだ。
そう。純粋だからこそ、興味を持ったことにはひたすらに首を突っ込みたがる。うざったいぐらいに。
だからその追求をかわすために、司狼は無視を決め込む事にした。
* * *
時は遡り、昨日の夜の事だ。
完全なる酔っ払いの司狼は、寝てていいよと言う言葉のとおり眠りに落ちていた。
どれぐらいだったのかはわからないが、起きた時にはもう店は閉店した様子で、助けてくれたあの人は私服になっていた。
「ああ、起きた。少し顔色がよくなったかな? 大丈夫?」
問われた言葉に、体を起き上がらせながら司狼は頷いた。
「あの、ありがとうございました」
「いえいえ。袖擦りあうも多生の縁と言いますから」
にこ、と笑う顔もなんだか作り物めいて見えるのだけれど、血が通っているとわかる温かさがあるから怖くはなかった。
ほんの少しの間見とれていた司狼は、はっと思い出して姿勢を正す。
「あ、あの助けてもらって名前も名乗らずすみません。俺、司狼雅満って言います」
ぴっと背筋を伸ばして言うと、は、と目の前の男は目を見開いた。そしてそのあとふっと微笑む。
「ああ、それはお互い様でした。俺はながいほづみです」
ごそごそと机を探った後「これ名刺です」と渡された小さな紙を両手で受け取ってまじまじと見つめると『永居八月朔日』と書かれている。
「……えーと、8月1日?」
「誕生日が8月1日だからって。穂が積まれる季節だからほづみ、って読むらしいね」
自分でも読めないんだけどねえあはは、なんて永居は笑った。
素直に『穂積』でいいのに、両親が凝り性だったらしくてなんて説明が続いている。
「えーと、永居さん」
「はい、なんでしょう」
「あの、すごく助かりました。もう自分で歩けそうなんで」
送ってあげられるという言葉が社交辞令の場合もあるけれど、なんとなく、この人は本気で言っていそうな気がしたから先回りで辞退しようと思ったのだが。
なぜかずずい、と永居は顔を近づけてきた。
「えっ……」
その後すんすんと小さく匂いを嗅いだあと、彼は言う。
「まだお酒臭いね。外は寒いし、危ないよ?」
「えーと、でも」
「また行き倒れたりしてたら寝覚め悪いし、気になって眠れなくなるから。素直に送らせてくれないかな?」
にっこりと笑った永居の、何か得体のしれない気迫に気圧されて、司狼は顎を引く。
なんか怖いぞこの人、と思う。それは多分、この有無を言わせない空気のせいだろう。
「う……お、願い、します」
「かしこまりました」
半ば強制的に頷けば、永居はそれまでの気迫を納めて、接客する時のように軽くお辞儀をしてから笑った。
「ところでこれ。作ったんだけど、飲んでくれないかな?」
すっと渡されたカップを反射的に手に取る。そこに注がれていたのは、こげ茶色の液体。
口を近づけると甘い香りがして、それがチョコレートだとわかった。
「……ココア?」
「残念。ホットチョコレートです。甘いもの苦手じゃなければ、どうぞ」
「はぁ……いただきます」
甘いものは特に好きと言うわけでもないが、キライでもない。
好意に甘えて口をつけると、想像していたよりもずっと飲みやすかった。
喉に絡む感じもなく、すっと溶けて落ちて行く。甘さは控えめで、ほんの少し、何かのスパイスのような味がした。
「二日酔いにはチョコレートがいいらしいから」
「……そんな話初めて聞きました」
「そうだねえ。俺も初めて知った」
「え」
「文明の利器でさっき調べたところだからね」
ほらこれ、とスマホを指し示しながら永居は言う。
そして今ここにあるもので簡単に作れるのがこれしかなかったのだとも。
そんな事しなくてよかったのに、とは言えない。
言ったらなんだか怖い事になりそうな気がしたし、何より助けてくれた人にそんな失礼な事は言えるはずがない。
ありがとうございます、と素直に礼を言って、ごくごくと司狼はホットチョコレートを飲み干した。
「ごちそうさまです」
「はいおそまつさまでした。それじゃ、行こうか」
送りますよ、と笑った永居が車のキーを回しながら、空いた手を司狼に差し出してくる。
素直にその手を取って立ち上がると、まだなんとなくふわふわした感覚があって、これは送ってもらって正解だったかもしれないと後から思った。