最悪だ、と司狼雅満はよれた足取りで歩いていた。
 うぷ、と吐き出される呼気が酒臭い事は、自分でもわかっている。
 目が回って気持ちが悪い。
 この現状を招いた自分が恨めしく、もうやめる、と呟きながら歩く足取りはふらふらしておぼつかない。

(あそこで頷くんじゃなかった……)

 おえ、と吐き気を堪えながらそんな事を思う。
 発端は、音楽に触れている事を、友人が知っていた事だ。
「シローはさ、キーボードも弾ける?」
 なんて問いかけにうっかり頷いたりしたからこんな事になったのだ。

 簡単に言えば、バンドの助っ人。
 そのバンドがそこそこに栄えていて、打ち上げに参加してしまったのが間違いだった。
 オレ様気質なリーダー兼ボーカルに出ろと言われてちょっとだけと出てみれば、体育会系の仕様で、しこたま飲まされた。
 お前には感謝してるだとかなんとか機嫌よさげに言いながら、ビールをたらふく。
(ビールは苦手なんだよ……あーちくしょう、腹いたい……気持ち悪い)
 昔から腹の膨れる炭酸系の飲み物は苦手なのだ。
 歩くのもおっくうになりながらぐらぐらしていると、急に吐き気に襲いかかられる。
「うえっ」
 ついでにめまいまでしてきて、ぐらりと頭が揺れる。
(やべ、倒れる……)
 体を支えきれずに膝が崩れ落ちる。
 そこまでははっきりと理解できた。
 そのあと。

「危ない!」

 なんて、なんだかすごくきれいな声が聞こえたような気がしたのだけれど。
 それが夢なのか現実なのか、判別できないまま司狼は意識を手放した。





     *     *     *





 目を開くと、蛍光灯のまぶしさに目を焼かれそうになって司狼は再び目を閉じた。
 ぎゅうぎゅうと閉じた瞼の裏が真っ赤に染まってくらくらしていると、司狼の耳に何か物音が届く。
「あ、起きたかな?」
 大丈夫? と問いかけてくる声が優しかった。
 溶けたチョコレートみたいだなと思った。甘そうでほろ苦い、そのまま飲めば喉に絡むような、そんな声だと思った。
 ようやく目が慣れて、うっすらと目を開けようとしたところで、顔の上に影がかかる。
 それが覗き込まれていたからだと知るのは、開いた目に顔が映ったからだ。
(うぁ、なんだこれ)
 一瞬でそう思ったのは、自分の目に映りこんだ男の顔が人形かと思うほどに整っていたからだ。
 真っ白な肌と髪の色で、多分日本人ではないのだろうと察しがつく。線が細い感じだったけれど、弱弱しい印象はなかった。
 黒縁の眼鏡の奥にある目の色がうっすら青いグレー。髪は、金髪とまではいかないけれど、綺麗な茶色。
 色は外人のそれだけれど、骨格は日本人ぽいからハーフかもしれない。そう考えたところで、目の前の顔が笑った。
「あ、やっぱり起きたね。大丈夫かな?」
 問いかけに、自分の状況を思い出す。
 酔っ払って、揚句の果てに。
「……うわっ!! えっ!? あっ!!」
「あ、そんな勢いよく起きたら……」
 止められるよりもはやく、がばっと起き上がった勢いで再び眩暈に襲われた。
「……うぉ」
「だから止めようとしたのに」
 大丈夫? と問われて、あんまり大丈夫じゃないと思った。
 だがこれもまた自業自得だ。
「水飲む? それともまだ横になるかな?」
「……水いただきます。えと、ひとつ質問いいですか」
「はいどうぞ」
「ここ、どこですか?」
 コップを受け取りながらの問いかけに、目の前の顔がきょとんとなる。そして軽く吹き出す寸前のような反応をした後、答えてくれた。
「ああ、そうでした。ここは君が倒れた時目の前にあったお店です」
 そう言えば、ぼんやり思い出す記憶の中に店の明かりが道に差していたような気がする。
 それでもって、看板が出ていたような。
「……えっ、じゃあすみません俺営業妨害」
「ああ、いやいや大丈夫。もう閉店する時間だったし、君も大変だったみたいだからね」
 倒れかけていたところを、どうやらこの人が受け止めてくれたらしい。
 頭を打ったりしなくてよかったと言って微笑む表情に、なぜかぶわっと胸が苦しくなり、目頭が熱くなった。
「え!? うわ、大丈夫? どうかした!?」
 慌てたのは目の前の男で、痛いところでもあるのかなと言われて初めて、自分が泣いている事に気づいた。
「あ、あれ……?」
「ああ、やっぱりどこか打ったかな? 大丈夫?」
「……あ、いやどこも痛くない、んですけど。あれ?」
 ぼろぼろとこぼれる涙の意味が自分でもわからず戸惑っている間に、温かい濡れタオルを渡されて押し付ける。
「お酒のせいかな? まだぐらぐらするなら寝ていいから」
「そこまで迷惑をかけるわけには……」
「今日はラスト俺しかいないし、いくら居ても大丈夫だから」
「でももう閉店って」
「だからだよ。閉店までいてくれたら送ってあげられるから」
 大丈夫だから寝てなさいと大人な口調で言われて、知らない人のはずなのに、司狼はなぜかほっとしてしまった。
 正直言えばまだまともに歩けるとは思えなかったし、気持ち悪さはいくぶんマシになったものの、消えた訳ではなかった。
「……ええと、じゃあ、すみません」
「こういう時は謝るよりお礼じゃないかな?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「どういたしまして。あと1時間ぐらいだから、本当に寝ていていいよ」
 それじゃあねと笑った男は、優雅な仕草でひらひらと手を振ってドアから出ていく。
 よく見れば腰にエプロンを巻いたウェイターの格好をしていて、ドアの向こうから漂ってきた美味しそうな食べ物の匂いに、ここは飲食店かと悟る。
「あ……名前」
 そう言えば名乗るのも訊くのも忘れていた。そう気づいた時にはもう彼の姿は扉の向こうで、追いかける訳にもいかずに司狼は再び横になる。
「……なんだっけ」
 一体何がどうしてこうなった。
 よくわからないまま、なぜか再び目頭が熱くなる。
 そして胸が苦しくなるのは酒のせいだと思いながら、司狼は今だけ、意味不明のこの感覚から逃げる事にした。

 頭も痛いし、起きたらまた考えよう。