――――――――――――――――――― 『いまひとたびの』




 手紙を書く手が霞んでよく見えなかった。
 ごしごしと瞼を擦ればほんの少しだけまともな字をかけるようになるが、またすぐに瞼が落ちてくる。
 何度かペンを持っている手が色を失うのを見た。
 そしてその手が一瞬透けて見えて、もう時間がないと感じる。
「……あと少し」
 あと一文。それを描けばまたスケッチブックに戻る。
 子供が書く拙い文字のようになってしまった手紙を、書きなおせるだけの時間はもうないだろう。

 スケッチブックの全てを絵で埋めたらタイムリミットになると気がついたのは、ついさっきだった。
 最後の絵を描き始めてから、頻繁に自分の体から色がなくなるようになったのだ。
 その頻度は、スケッチブックのページが進むごとに酷くなっていたのだと気がついて、晴天は慌てて手紙を書きはじめた。
(……ちゃんと待ってるつもりだったんだけどな)
 総輝が見せたいものがなんなのか気にならない訳がない。
 入ることを許されなかった総輝の自室にある『絵』が、多分そうなのだろうとは気付いていたけれど、盗み見するような真似はできない。
 見たいなあと思いながら、けれどそれは叶わないのだろうとも思う。
(……嘘になって、ごめん)
 何度も頭の中でごめんと謝りながら手紙を綴る。それから、自分が総輝の前から消えてしまっても、悲しまずに笑っていてほしいと。
(戻れば会える。絶対)
 そう信じているから、最後の一文はさよならとは書かなかった。
 最後の一言を書き終えて、晴天はペンを置き、スケッチブックを手に取る。
 途中まで書いてあるそれは、総輝の笑っている顔。
 最後の一枚はこれがいいと思った。総輝に渡すためのものだから、総輝を描こうと考えていた。
 その前もその前も、総輝の事を考えて描いたものばかりだったけれど、一番最後だけは、『自分が見ている総輝』を描きたかったのだ。
 これを見た総輝の顔を想像すると楽しくてしょうがない。
 いつの間にか眠気を忘れて、紙の上を色鉛筆が走っていた。


 今までで一番ここに居た時間が楽しいよと晴天は思う。
 だから悲しまないで欲しい。
 ちゃんとまた会えるから。




「……よし」
 描き上げた絵は、満足のいく出来だった。
 両手でスケッチブックを上に掲げて眺め、晴天は微笑む。
 そしてスケッチブックを閉じるとソファの上に置いて、その上にさっき書いた手紙を置く。
「あ」
 その手が色をなくしたまま戻らなくなったのをみて、いよいよかと覚悟を決める。
 時間は3時。あと1時間で総輝が帰ってくるのになぁと思いながら、でも彼が泣く顔を見て消えるよりはいいかと思う。
 立ち上がって、棚の上から写真立てをひとつ取った。
 それはここに来た最初の日、抱えて眠ってしまった総輝の写真だ。
 絵筆を持つ楽しそうな総輝。
 今度会ったら、これと同じように笑っている総輝の顔が見たい。
「……会いたいなあ」
 あと1時間、もってくれればいいのに。
 そうすれば総輝が帰ってくるのに。
 そう考えながら、晴天の瞼は落ちていく。
 色がなくなった体はその爪先からゆっくりと消えてゆき、一分もしないうちに晴天の体はそこから消えた。
 その手にあった写真立ては、支えを失ってソファに落ちる。
 晴天の重みがなくなって、ほんの少しだけ横にあったスケッチブックが動いた。
 残ったのはそれだけで、あとはもう、晴天の形跡は残らなかった。















 そして晴天は目を開いた。
 あんなに襲い掛かってきた眠気も今は消えて、頭はすっきりとしていた。
 周囲を見渡すと、そこには絵が連なる壁がある。
 それが、自分が総輝の元に行く前に居た橘総輝の個展の会場だと、すぐにわかった。
「……戻っ、た?」
 今は一体いつだろうと思うけれど、日付を確かめる術はなかった。
 自分の服装を確認して、それがここに来た時と同じものだと言う事に気がついて、晴天は首をかしげる。
「前と、同じ……?」
 総輝の家から消える前に着ていた服は、これとは別のものだったはずだ。
 床に膝をつくようにしている自分の隣には、スケッチブックがある。
 目を見開いてその中身を確認すると、その中身は殆ど白い。
(夢……?)
 あれはまさか夢だったのか。
 だったら、鞄の中にある財布には金が全部残っているはずだ。
 それを確認しようと手を伸ばして、鞄が振動していることに気がついた。
「っと」
 鞄の横にあるポケットから携帯を取り出して、フラップを開く。
 画面に現れている番号は知らないもので、一瞬無視しようかと思ったのだが、ずっとコールが続いているから通話ボタンを押す。
「もしもし?」
 誰だよこんな時に、と思いながら携帯を耳に当てる。
 そして。


















 橘総輝の個展は、小さいけれど一等地のホールを使用できる事になった。
 DMは総輝が描いた絵を絵葉書にして、駅の各所にポスターも貼ってもらえた。
 期待の新星だとか銘打たれるのは恥ずかしかったけれど、それでも念願かなっての個展は嬉しい。
 あれから18年。やっと18年。
 一度たりとも晴天の顔を忘れた事はなかったし、あのスケッチブックを手元から離す事もなかった。
 長い月日の中で、何もなかった訳ではないけれど、あの時の手紙と、スケッチブック。それから時折目にするようになった晴天の名前に助けられながら、ここまで来た。
 告白をされた事もあったけれど、全部『好きな人がいるから』と断ってきた。
 とても勇気が必要な事だと思う。
 その時に言う事ができたその勇気は、とてもまぶしくて羨ましいものだった。それは、あの時総輝にはできなかった事だったから。

 会場の中に飾った絵は入りから順番に、総輝が描き上げた順番に並んでいる。
 ただ、晴天が好きだと言っていた空を写し取った風景の絵だけは別の場所に飾ってある。
 奥に行くと広い部屋に出る。その中央に、その絵は飾っておいた。

 あの時、晴天が消えてしまったあの絵は、上からもう少しだけ手を加えて別の絵に仕上げた。その絵も飾ってある。
 それからもうひとつ、この個展のために描いた絵も、広い部屋の中央、晴天が好きだと言っていたあの絵の裏側に飾る事にした。
(来る……かな?)
 晴天がここに来たのは個展の初日だと話していたから、きっと今日来るのだろう。


 開場した展示場の裏手に戻り、小さなソファに座って総輝はひといきつく。
 今日はずっと、終わるまでここで待っていようと思う。
 記帳の名前に晴天の名前が書かれたら読んでもらうように言ってある。彼が来るまで、ずっとずっと待っていようと思う。

 18年前、晴天が自分の前に現れた時の事を思い出す。
 いきなり現れた彼は、嬉しそうに丘の景色を見てはしゃいでいた。
 そして総輝の名前を聞いて驚いて、その後色々話した。
 未来からやってきたと言う話を、最初はよくわからずに聞いて、だんだんとそれが本当なんだろうなと思うようになったのは、何の話をした時だっただろうか。
「……あ」
 そうだ、と思い出して総輝は慌ててあのスケッチブックを開いてページをめくる。
 一番最初のページには、大切に封筒に入れた手紙。そして小さなメモ。
 日に焼けて黄ばんでしまっているそのメモにあるのは、数字とローマ字の羅列。

 そして部屋のドアがノックされ、スタッフから伝えられた言葉に総輝は笑って、スーツのポケットに入っている携帯電話を取り出した。