――――――――――――――――――― 『あふこともがな』




『こんにちは』

 そう声が聞こえた。
 その声は携帯の向こうからと、あともうひとつ、自分の後ろから聞こえてくる。
「……っ」
 知っているものよりも、低くなっている声。
 それでも、わからないはずがなかった。


 その声は―――…。






 長い通路の先に晴天は居ると聞いた。
 客は他に誰もいないからいいだろうかと思いながら、総輝は携帯の通話ボタンを押す。
 番号はついさっき登録した。

 話した意味がわかったよと、昔の会話を思い出しながら、通話ボタンを押してコールの始まった携帯を耳に当てる。
 なかなか通じないのは、知らない番号からで戸惑っているからなのだろうか。
 かつかつと歩く音が響く。
 もしかしたら晴天は自分の事を知らないのかもしれない。そうも考えて、一瞬切ろうかどうか迷ったその時。

『もしもし?』

 機械越しに、晴天の声がした。

 18年ぶりのその声に、嬉しくて涙が溢れる。
 ぽたりと涙が零れ落ちるくせに笑いがこみ上げてきて、総輝は泣き笑いを浮かべながら言った。
「こんにちは」
 彼の背中が見えた。
 服装は一番最初に会った時のもので、その手には今自分が持っているのと同じスケッチブックがある。
 あの時の晴天のスケッチブックは総輝の手の中だ。
 だからここに居る晴天はもしかして―――
















「そう、き……?」





















 目を見開いて、自分の名前を呼んだ晴天が、ちゃんと自分を知っているのだと確信した。
 涙は今まで以上にぼろぼろと溢れて止まらなくなって、嗚咽交じりの声で、通話を切らないまま総輝は言う。
「やっぱり全然変わらないね、あの頃と」
 あのままの姿で居る晴天が、本当に年下なのだとやっと実感できた。
 総輝だけが年をとって、あの頃のままの晴天が今ここに居る。
 なんだか浦島太郎のようだと思って笑いながら、総輝はゆっくりと一歩一歩、足を進めた。
『……総輝は、大人になったね』
 晴天も通話を切らないまま答える。
 展示場に反響する声と、足音。機械を通して聞こえる声。
 晴天も立ち上がって、近づいてくる。
 目の前まで来て立ち止まり、一緒に携帯の通話を切る。
 そっと総輝の涙を拭う晴天の背は高く、総輝が大人になった今でも、見上げなければ視線が合わない。
「ごめん」
 何に謝っているのかなんてすぐにわかった。
 拭っても拭っても涙は止まる気配がない。
 だって会いたかった。ずっと会いたくて、会いたくてしょうがなくて、それでも我慢してずっと待っていた。
 総輝が帰ってくるまで。総輝が自分に会ってくれるまで。
「ずっと待ってたんだ」
「うん、ありがとう」
「携帯も、メールもわかるようになったよ」
「うん」
「絵も描いた。ちゃんと画家になったんだ」
「知ってる」
「晴天に、会いたくて……でも会えなくて」
「うん、ごめん」
「早く会えるようにって、がんばったんだ。色々勉強したし、働いて」
「うん」
「み、見せたい、もの、も、あって」
「うん、俺も見たかった」
 頷く晴天は、18年前と何も変わらない。
 だから総輝も昔に戻ったような感覚で、止まらない涙を流したまま、晴天に縋りつく。
「ずっと、会いたくて……会いたくて」
「……うん。ごめんなさい」
 晴天は、そんな総輝を受け止めて抱きしめてくれる。
 その胸に頬を押し付けて、濡れてしまっても何も言わない。
「会いたかった……っ!」
 何度も何度もそう告げて、その度に晴天はうんと頷いて、俺もと言ってくれた。





 泣いて泣いて、嗚咽が止まらないまま総輝は晴天の腕を引く。
「え?」
 驚き首をかしげた晴天をひっぱって、ぐずぐずと洟を啜りながら、今立っている裏手にひきずっていく。
 泣いて喋れない代わりに、そこに飾っている絵を総輝は指差して示した。
 そこにあるのはあの時晴天が消えてしまった絵と、そしてもう一枚。
「……え?」
 晴天にもらったスケッチブックにあった自分と、同じ構図を反転して描いた晴天の笑顔。
「……」
 晴天はしばらく呆然とした後、その絵と総輝を見比べて、さらに総輝がスケッチブックを持っている事に気がついて目を丸くする。
「え? どうして……」
「残ってたよ」
 ふたつあるのはどうしてかわからないけど、と笑いながら、ぐしぐしと涙を拭ってスケッチブックを開く。
 ちゃんと描いてあると笑ってみせれば、まぶしいものを見たように晴天が目を細めて、その後に満面の笑みを浮かべる。
「嬉しかった。ありがとう」
「どういたしまして」
「これが見せたかったもの?」
 問われて首を左右に振る。それから隣にある青空と向日葵の絵を指差した。
「これ?」
 問われて頷き、でも違うと言う。
「本当はここに晴天が居たんだ。でも晴天が消えたら、この中の晴天も消えてた」
 だから本当は、見せたかった絵はこれではない。
 言ってまた涙を拭う。後から後から零れ落ちる涙は未だ止まらず、そろそろ頬が痛くなってきた。
 しばらくその二枚の絵を眺めた後に総輝の顔を見た晴天が、鞄の中からハンカチを取り出して涙を拭ってくれる。
 それから笑ってこう言った。
「言いたい事があったんだ、総輝」
「俺も、ある」
 18年間、ずっとずっと大事にしまいこんで、忘れられずにいた言葉だ。
 あの時言ってしまったらよかったと後悔して、今度会ったら絶対に言おうと思っていた言葉。
「じゃあさ、せーので一緒に言おう」
 きっと一緒だよ、と晴天が悪戯っぽく笑う。
 体を屈めて、視線を同じ高さにして、うなずいた総輝に晴天は合図する。
「じゃ、言うよ」



 すう、と息を吸い込んで、準備する。
 せえの、と声がして、ふたり同時に微笑んだ。















『好きだ』


















 そう告げた声は重なって、まるでひとりの声のように聞こえた。
 聞こえたそれにまた涙は溢れて、それでも幸せで総輝は笑う。
 その顔を両手で包んで、晴天も笑っていた。


 絵を描こう。これからもたくさんたくさん。
 そしてたくさん見てもらって、たくさん見て、自分で誇れる人間になろう。





 スケッチブックを横に持っていけば、ちょうど向き合って笑うような絵になる。
 その絵の下には『晴れた空』とあった。





 18年間、ずっと待っていた間にあったことを、沢山沢山きいてもらおう。







END







おーわった!

2009/07/03
あとがき。