うそだ、と小さな声で呟いた後、総輝はその場に崩れ落ちた。
「……うそ、だ……だって、いるって、待ってるって」
言ったのに。
―――正座して待ってる。
朝はちゃんと居たんだ。だから。
そう考えて、総輝はよろりと立ち上がって二階への階段を駆け上がる。
もしかしたらアトリエにいるかもしれない。そう思って行ったのに、そこにも晴天の姿はなかった。
「……部屋」
もしかしたらもう総輝の部屋に入って、見つけてしまったのかも。
そうだ、きっとそうだよ。
ばたばたと音を立てて廊下を駆けて、自分の部屋に入る。けれどそこにも晴天の姿は見当たらない。あるのは昨日描き上げた絵だけ。
「……せいてん? どこ?」
開けたドアに縋りながら、総輝はずるずると崩れ落ちる。
どこに、いったの?
迷子の子供のような声でつぶやきなら、呆然と総輝は自分が描いた絵を眺めた。
ほんの数秒、その後に総輝の目が大きく見開かれる。
「……そだ」
うそだと呟く声は掠れていた。
目頭が熱くなり、視界が霞む。いつの間にかぼたぼたと涙がこぼれて、総輝の制服を濡らしていた。
その絵の中に、晴天の姿だけがない。
「うそだ……」
空も、向日葵も、描いたものはちゃんとあるのに、晴天の姿だけがなくなっていた。削れた訳ではない。晴天が居るべき場所には、描いた覚えのない向日葵があるだけだった。
「……っ……なんで」
そこに確かに描いたのに。昨日まではちゃんと晴天が居たのに。
まるで最初から誰もいなかったかのように、何もない。
自分で描いた絵のはずなのに、違うものになってしまっている。
「……せ、いて……晴天」
どうしてと呟きながら絵の中の晴天が立っていた場所に触れる。
まだ乾いていない絵の具が指先について、向日葵の黄色と空の青が混じった。
ぼたぼたと流れ落ちる涙で前が見えない。
―――いってらっしゃい。
そう言ってもらった。見送ってもらった。
晴天と一緒に居た数ヶ月の記憶は、絶対に間違いなどではないのに。
どうして自分が描いた、その証拠が消えてしまったのだろうか。
「……うそだって」
どうしたのと笑って声をかけてほしかった。
心配をしていたあの数日間の後のように、笑ってほしかった。
せっかく言おうと思ったのに、見せられると思ったのに。
「嘘だぁ……」
絶対に嘘だ。信じない。
零れ落ちる涙は止まらず、それを何度も拭いながら総輝は立ち上がる。
よろよろしながら歩いて、家の全部の部屋の中を探し回った。
寝室も、客間も、トイレも風呂も、全部。
それでもどこにも総輝は居なくて、昨日使ってまだ洗っていない洗濯物も、晴天のぶんだけが綺麗になくなっていた。
「……なんで?」
夢を見ていたのではないかと思うぐらいに、総輝が居た事を示すものが消えていた。
どこもかしこも探して回ったのに、晴天が存在していた証拠が何一つ見つからなくて、打ちのめされる気分になる。
そうして戻ってきたリビング。ここが最後の望みだと、ふらふらしながらカウンターキッチンの中に入る。やっぱり食器は総輝が使ったぶんしか残っていない。
もしかしたら本当に、晴天の存在は総輝が作り出した幻で、この数ヶ月の出来事は白昼夢だったのだろうか。そんな風に考え始めた時だ。
棚に置いてある写真立てが、またひとつ減っている事に総輝は気付く。
そして消えている写真立ては、先日晴天が手にして寝ていたものと同じだと気がついて、やっぱり晴天は居たのだと思う。
写真立てを探して周囲を見回し、ソファーの上に視線が釘付けになる。
そこにあったのは探していた写真立てと、いつも晴天が傍に置いていたスケッチブック。それから。
「あ……」
数枚の紙。
確かに晴天はそこに居たのだ。
幻などではなく、総輝の夢でもなく、確かにここに。
スケッチブックの上にあった紙には文字が敷き詰められていて、近づいて初めてそれが手紙だという事に気がつく。
晴天らしい、伸びやかで流れるような文字。
手紙の一番最初は、総輝の名前で始まっていた。
橘総輝様
今総輝がこれを読んでいるということは、
もう俺はこの家の中にはいないんだと思う。
本当に突然で、ごめん。
俺がここに居られるタイムリミットは、このスケッチブックを埋めた時みたいだから、この手紙を残そうと思いました。
本当は総輝と約束を守りたかったんだけど、でも無理みたいだ。
仕上げずに待っていようと思ったんだけど、描いていないと眠くてだめなんだ。
今寝たら、多分もう二度と会えなくなる気がするから、これを書いたら絵を描こうと思う。
もし仕上がる前に総輝が帰ってきたらこの手紙は必要なくなるから、そうだといいなと思いながら書いてる。
手紙なんて書く機会が全然なかったから、何を書いていいのか正直わからなくて、おかしなこと書いてたらごめん。
ええと、言いたい事が沢山ありすぎて何を書いたらいいのかわからないな。
そうそう、総輝に会えてすごく幸せです。過去形で書くのはいやなので、現在進行形で。今でも凄く幸せです。
キミは俺の憧れで、会ってからもそれは変わらなかった。
何でもできて、何でもさせてもらえて、何をしていいのかわからなかった時に『絵を描きたい』と思わせてくれたのは、橘総輝さん、貴方でした。
だからありがとう。本当にありがとう。
それから、戻るのか消えるのかよくわからないんだけど、スケッチブックがいっぱいになったら、その時は約束通り総輝にあげるよ。朝渡したいって言ったのはこれのことです。
「……っ」
ぽたりと手紙の上に涙が落ちた。
インクが滲んで慌てて拭うと、インクが伸びて文字が読めなくなってしまった。
慌てて涙が落ちない位置に手紙を持ち直して、総輝は二枚目を読み始めた。
一番最後に何を描くのかずっと考えてました。
何を描いたら総輝が笑ってくれるか、ずっとそれだけを考えて描いたんだ。だから、それを見た後は泣くよりも笑ってほしい。
本当はずっと前から、もうすぐ戻らなくちゃいけないんだって事には気付いてたんだ。ずっと言えなくてごめん。
言ったらきっと心配するだろうし、きっと笑って話なんてできなくなるだろうと思ったから言いませんでした。
総輝とは、最後まで笑って話がしたかったんだ。
泣いてる顔を見ておわかれは寂しすぎるから、だから笑っていてほしかった。
最後まで普通にしてたかったんだ。普通に話して、普通に笑って、普通に送り出して、そういうのがよかった。
そうそう。朝ごはん、おいしかったよ。
俺の家、和食派だったから、朝にトーストが出てくるのがなんだか新鮮だった。
それだけじゃなくて、総輝が作ってくれたもの全部おいしかった。
本当は俺も作ってあげたかったんだけど、できなくて残念だったな。
……いざ言いたい事を書こうとすると、うまくまとめられないもんだね。文章がうまくないから読みにくいと思うけど、そこは許してくれると嬉しいかな。
ええとそれから、そうそう。
俺がいなくなっても、落ち込まないで下さい。
多分俺は、俺がいないといけないところに戻るだけだから。
どうなるかはよくわからないけど、きっとそうだと思う。
だから、18年。
本当に長くて、気が遠くなりそうだと思うけれど、総輝が会いたいと思ってくれればきっとまた会えるから、悲しまないで、笑っていて下さい。
うん、と総輝は頷いた。
もう二度と会えない訳ではないはずだ。
少なくとも晴天はそう信じている。
会えると、もう一度会えると信じてくれている。
だからそれを信じている晴天を信じようと強く思った。
橘総輝さん。俺の憧れの人。
今度会えたら伝えたい事があるんだ。
だから、会える日を楽しみにしてる。
18年後、初めての個展を見に行きます。
絶対に俺は忘れてないから、総輝の事を覚えてるから。
だからまた会えたその時は、俺の話を聞いて下さい。
その時に、今日総輝が見せたいって言ったものも見せてもらえると嬉しいかな。
その時まで総輝が俺の事を忘れないでいてくれたら、俺から会いに行くよ。
新しいスケッチブックいっぱいに絵を描いて、今度はちゃんと直接渡すから。
だから忘れずに、待っていて下さい。
さよならを言うのは嫌なので、最後の言葉はこれにしようって決めてたんだ。
『総輝にまた会える日を、楽しみにしてる』
また会おう。会いに行くよ。
羽染晴天
最後の方の文字はまだ字を書きはじめたばかりの子供が書くような、拙い文字になっていた。
もしかしたら、手紙の中にあったように眠気と戦いながらこの手紙を書いていたのかもしれない。
「ばか、だよ……っ」
わかっていたなら、知っていたなら教えてくれればよかったのに。
そうすればもっと早く、昨日のうちにあの絵を見せていたのに。
笑って欲しいとただ一言、それを言ってくれれば泣いたりなどしなかったのに。ずっと傍に居て、最後まで笑って、最後まで―――……。
「な、んで、黙って行っちゃうんだよ……っ!」
総輝は叫んだ。
床に崩れ落ちて、ソファに縋りつくようにしながらこぼれ落ちる涙を拭う事はもうせず、嗚咽交じりの声で。
「待ってるって言ったのに! 絵、見せたかったのに!」
おもちゃを買ってもらえない駄々っ子のように泣き叫んだ。
その声は家中に響いて、けれど誰も答えてくれる人はいない。
最初から『いなくなってしまう人』だとわかっていたのに、手紙の文面にうなずいたのに、頭で納得したつもりでも、全然納得できていなかった。
うそつき、うそつきと何度も叫んで、手紙をぐしゃぐしゃにしてやろうと思ってできなかった。
「……っう」
これは晴天がここに居たという証拠だ。
この手紙とスケッチブック以外は、全部消えてしまった。
総輝が描いた絵ですら、晴天が居た証は消えてしまっている。
晴天が残したものを、ぐちゃぐちゃにできる訳がなかった。
「せいてん……」
行かないで、と何度も泣き喚いた。
帰ってきてと叫んだ。
だがそれで晴天が帰ってくることなどあるはずもなく、ただ総輝の声が家の中に響くだけだ。
晴天が確かにそこに居たという証拠を抱きしめて、ずっとずっと泣き続けて、力尽きて総輝は眠りに落ちる。
眠りに入る直前、夢の中に晴天が出てきて欲しいと思いながら。