――――――――――――――――――― 『現心』




 晴天が家にやってきてからの日々は、とても早く過ぎていった。
 あの日見た現象は、その後一緒に居る間は、目にする事はなかった。
 晴天も笑っていて、何の不安もなさそうに見えるから、気がついていないのかもしれない。
 本人が気付かず、近くに居る総輝にも見つからないぐらいの頻度なら、もしかしたら大丈夫かもしれない。そんな事を総輝は思った。
 けれど一秒一秒、過ぎてしまう時間を無駄にしたくなくて、学校にはちゃんと通ったけれど、それ以外の時間、総輝は殆ど彼と一緒に居た。
 別行動をしたのは、お互いに絵を描いている時だ。
 あの絵を描いている時だけ、総輝は晴天とは別の部屋に居る。
 描きたい絵があって、見られるのは恥ずかしいからと言えば晴天はあっさりと引いてくれた。
 何故か含みのある笑い方をされたけれど、それを追求すればこちらも言わなくてはならなくなりそうだったのでしょうがないから諦めた。

 カンバスの中の絵は、最後の仕上げにとりかかっている。
 青い青い絵の中に居る、彼。
 今できる精一杯で描いた。
 名前の通り、彼には綺麗な青空が似合うと思う。
 そして青空のような人だと思う。
 だから真っ青な、一番きれいだと思う空を描いた。
 それから、太陽に向かって背伸びをしているような向日葵。
 明るく笑う、彼が持っているのはスケッチブック。
「……もういいかな?」
 いい加減手を加えるのをやめないと、いつまで経っても終わりそうにない。
 ニスがけするまでではさすがに気が遠くなるから、表面が乾いたら見てもらおうと思う。
 もう一度全体を眺めて、総輝はうんと頷いた。
 殆ど初めてに近い人物画にしては上手くいったのではないかと思う。
 気持ちだけは、込めて描いた。
 多分これがこれまでに総輝が描いた絵の中の最高傑作だ。
 あと少し。そう思えば気が緩んで笑みが浮かぶ。
 今すぐに見てもらいたい気もする。でももう少しだけ我慢。
 あとちょっとだけと自分に言い聞かせながら、換気のために開けていた窓を閉めようと考えて窓に近づき、その前にひょいと顔を出して隣の部屋を見た。
 窓の外はもう真っ暗で、時計を見れば深夜0時を回っていた。
 隣の部屋からはまだ明かりが漏れていて、多分自分と同じように晴天も起きて絵を描いているのだろう。
 お腹がすいたから、何か作って晴天のところに持って行こうと思う。
 総輝も晴天も、気がつけば空腹も忘れて描き続けているから困ったものだ。





 さらさらと色鉛筆がスケッチブックを撫でるようにして動いている。
 ここ最近、晴天が絵を描く道具は専らこれだ。
 自分がいつどうなるかわからないから、時間がかかる道具は使えないと思った。
 絵の具を使えばどうしても乾く時間が必要になる。
 油絵を描こうと思えば、その製作時間は最低でも数日、長ければ数ヶ月。そんな余裕が自分にあるとは思えない。

 晴天の体調は、日に日に悪化していくばかりだった。
 それをひたすら隠して、晴天は笑っている。
 最近は何をしてもしなくても瞼が常に重い。
 夜と、総輝が学校に行っている間中眠って、それでなんとか保っていられるような状態だ。
 スケッチブックの絵は残すところ最後の一枚になった。
 これだけはなんとしてでも仕上げたい。
 それでも時折眠気が集中力に勝って、色鉛筆が手のなかから落ちていく。
 かたんと響く音に驚いて目を覚ましてまた描いて、落としてと何度か繰り返した。
 その間に何度かまた『あれ』が起きる事もあったけれど、気にしてもしょうがないからおかまいなしに描いた。
 いままでにこんな事は経験がないから、とても描きにくい。
 それでも、どんなに眠くても丁寧に描いた。
 そこにあるのは―――


 ふっとまた意識が途切れかけたその瞬間、こんこんとドアを叩く音が聞こえて目を覚ます。
「……っはい!」
 驚いてスケッチブックを閉じ、そのまま声を出したから、なんだかうわずってしまった。
 その後にひょっこり顔を出したのは総輝で、その手にはおにぎりの乗った皿と、ペットボトルが2本。
「あの、おなかすいてないかなって」
「え、ああ……そういえば」
 すいた気がする、と言葉で答えようとするよりも早く、ぐう、と腹が音を立てる。
 その音を聞いた総輝は軽く笑って、そうだと思ったんだと言いながらアトリエの中に入ってきた。
「なんにも入ってないけど」
「十分」
 皿の上に乗っているのは、大きめのおにぎり。
 きちんと三角になっているそれには、おなじく大きめののりがまいてある。
 この家にお邪魔してから、何度か総輝の料理を食べたけれどなかなかの腕だ。
 得意料理は揚げ物で、特に天ぷらはどこぞのスーパーで買ってくるものよりもずっとおいしかった。
 今日のおにぎりも、塩の加減が絶妙で美味い。
「あー、すきっ腹に染み渡る……」
「そんな大げさな」
「いやいや、感謝してます」
 結構大きめのおにぎりふたつをぺろりと平らげたところで、総輝が眠そうに目を擦った。
 眠いかと問えば素直に頷く。
 正直に言うと自分ももう限界に近かったので、もう遅いし寝ようと言う事になった。


 晴天がここに来てから、総輝が自室で寝る事はなかった。
 常に客間にふとんを二組敷いて、そこで話をしながら眠りにつく。
 学校で何があったとか、帰りに何を見たとか、そんな些細な話題でも楽しく、話は尽きない。
「……ねえ」
「んー?」
 今日はどちらもうとうとしながら、眠い目を擦って話をしていた。
 寝ぼけていたから、口を滑らせてしまったのだろう。
「手、繋いでいい、かな?」
 するりと出てきた言葉の意味を、総輝は理解できずにもぞもぞと手を伸ばす。
 晴天が驚いている気配にも気付けないまま、伸ばした手はすぐにつかまれた。
 その温かさに安心する。
 今日も晴天はここにいる。
「おやすみ」
 穏やかな声でそう言われて、同じように答えた。

 やっぱり明日にしようと思う。
 明日、学校から帰ってきたら晴天にあの絵を見せよう。
 そして言いたい事を言ってしまおう。



 時間はきっともう、残り少ないのだから。