総輝が戻ってくると、晴天はまた寝ていた。
柔らかいソファは、力を抜くと体が埋まっていく。本当に埋まるようにして晴天は目を閉じていて、静かな部屋で立ち止まれば、彼の寝息が耳に届いた。
「……せ」
晴天、と続くはずだった声は途中で止まる。
このまま寝かせておいたほうがいいだろうか、それとも―――と考えて、あの光景を思い出す。
またあんな風になっていたら起こそう。起こして、こっちを向いてもらおう。
そう思いながら恐る恐る近づいたソファの上では、静かに寝息を立てている『色のついた』晴天の姿があった。
(……)
よかった、と息を吐きだしながら胸を撫で下ろし、それならそのままそっとしておこうと考えて踵を返そうとしたのだけれど、くい、と袖のあたりにひっかかりを感じて振り返る。
視線を向ければ、眠ったままの晴天が服の袖を掴んでいて、総輝は驚いた。
このまま振りほどくことはできるけれど、それをしたら晴天が消えてしまいそうな気がしたから隣に座る。
座って、横で眠る晴天の顔を見て、まつげが長いなあと思う。それは最初の時にも思ったことだった。
綺麗だなあと思う。格好良いとも思うけれど、何より綺麗だなあと思う。
「……おれ」
小さな声で呟くそれは、無意識だった。
「おれ…晴天のこと」
その続きを口にしようとして、はっと我に帰って口を塞ぐ。
(……今、俺何言おうとした?)
晴天のこと、の後に続く言葉。
無意識に言おうとしたそれは、何だ。
「え……え……?」
どうしよう、と総輝は思う。
今の今まで整理のついていなかった気持ちが、言おうとした一言で片付いてしまう事に気がつけば、頭の中が別の意味で混乱を始める。
(だ、だだ、だって)
まさか自分が、だなんて考えもしていなかった。
(……すき? おれが?)
晴天を、好き?
考えれば考えるほど、顔が熱くなるのがわかる。
頭で考えるよりも早く、口が動いた。
今の今まで全くそんな事思ってもいなかったのに、どうして今更。そう考えて、だが今までの自分の行動や頭の中の事を考えてみて、自分で気がついていなかっただけなのだと気付く。
会いたい。話がしたい。
ただそれだけならば、まだ『友達』の域で済んだ。
けれどそれでは済まない重大な事があったのだ。
「描きたい」
人物を、誰かを描きたいと強く思ったのは、後にも先にも晴天だけだ。
なんとなく、人を描くのは嫌だった。
綺麗に描いてね、描く対象にそう期待されるのがとても重荷だった。
母の絵も、父の絵も描いたことがない。
人を描くのは、自分がその人をどう思っているのか、その全てを見られてしまうようで怖かった。大好きと表現したくても、もし違う目で見られてしまったらと思うだけで絵筆を持つ事ができなくなってしまうのだ。
だから景色ばかり描いてきた。
そんな総輝が、唯一描きたいと思った。
そう思ったのは、どうしてか。その答えはもう、考えるよりも早く、わかっていたのだ。
「……っ」
こんな時にそんな大事なことを気がついて、泣きたくなる。
晴天が好きだ。だけどこの気持ちを伝える訳にはいかないだろう。
だって彼は自分と同じ時間に居る人ではない。
総輝と同じ時間で生きている晴天は別に居るのだ。そしてその晴天は、自分を知らない。
(……黙って、ないと)
きっとこの事を言ったらやさしい晴天は帰りたいという気持ちを閉じ込めてしまうだろう。
だから黙っていないと。
そう思いながら、でももう少しだけと思って晴天を見て、ある事に気がつく。
「あ……」
晴天の手の中には小さな写真立てがあった。
大事そうに抱えられているそれは、この部屋に飾ってあったものと同じ。
ふといつも写真を飾っている棚を見れば、ひとつだけなくなっているものがある。それが何の写真なのか気がついた総輝は、今度こそ本当に、その瞳に涙を溜める。
「……っ」
ねえ。
自惚れてはいけない。そう思いながらも期待は止められなかった。
同じだと、思ってもいいですか。
俺と同じ事を、考えてくれていると思ってもいいですか。
ほんのちょっとだけ、喜んでもいいですか。
好きだと言っても、いいですか。
目を覚ました晴天は慌てた。
窓の外は真っ暗で、何の音もしないから多分深夜になっているのだろう。
やべ、と口にして飛び起きようとして、左肩のあたりが重たい事に気がつく。
「……?」
そして左手が温かい事に気がついて、首をかしげながら視線をめぐらせると、そこには総輝の頭があった。
すやすやと静かに眠る総輝。その手はしっかりと晴天の左手を握っていて、それが晴天の理解の範疇を超えていた。
「……え? は?」
なんで自分は手を握られているんだ。というかなんで総輝がここで寝ているんだ。
いやいやそんな事より、俺は一体どうしたらいいんだ。
がちがちに固まって何もできない自分というのは初めての経験だった。
まるで金縛りにあったかのように動けない。それは起こしてしまったら可哀想だと思う気持ちと、それ以上に今ここで総輝と目があったら何をいったらいいのかわからないからだった。
(これも夢か? いや、今までのが全部夢でまだ夢の中とか?)
そうだ、きっとそうに違いない。そうでなければここまで自分にとって都合の良い展開になる訳がない。
だってここは総輝の家だ。眠くなったのなら自分の布団の中で眠ればいい。写真を持ったまま寝ている男を気持ち悪いと思うのなら、起こしてたたき出してしまえばいい。
だがそのどちらも総輝はしなかった。これではまるで。
まるで―――……。
(総輝が俺のこと)
好き、みたいじゃないか。
(いやいやいや。無理だって)
こんな怪しさ大爆発の人間を好きになるだなんてそんなばかな。
総輝が自分の絵を気に入ってくれているのは知っているけれど、絵を気に入るのと、描いている人を好きになるのとは別物だと思う。
実際晴天がそうだった。
絵は好き。でも描いている人は好きではない。そんな事は何度もあった。晴天にとっての総輝は、それに当てはまる事はなかったけれど。
晴天にとっての総輝はむしろその逆で、知れば知るほど好きになった。
そして憧れだった『好き』は、恋愛と表現できる『好き』に変わっていたのだと思う。
(……それに)
いつ消えてしまうかもわからないのだ。
そんな男を好きになったりして、総輝が幸せになれるとは思えない。
晴天が無事元の時代に戻れたとして、その時代に居る総輝が自分を覚えているかどうかも怪しい。
そもそも晴天が居たあの世界は、本当にこの世界の『未来』なのだろうか。
考えれば考えるほど、不安材料しか見つからない。
何の保障もできない男が、総輝を幸せにできるかどうかなんて、答えは明白だ。
(でも)
ほんの少しだけなら。
そう考えようとして、晴天はきつく目を閉じる。
大きく息を吸って、吐き出して、もう一度開いた目で掌を見た。
その手がまた、色を失う。
(気付かれないように、しないと)
こんな姿を見せては総輝が心配してしまう。
彼には最後まで笑っていてもらいたいから、このことは隠し通さなければいけない。
これは戻る前兆だろうか。それとも消える前兆だろうか。
どちらにしろ、もうすぐ自分は総輝の前から消えなくてはならないのだろう。
(それなら、笑ってる顔がいいなぁ)
最後に見る表情は笑顔がいい。
だから隠し通さなくてはならない。
(あとどれぐらいかな)
まだ少しは時間が残っているだろうか。
やらなくてはならない事があるから、もう少しだけ待って欲しい。
総輝を起こさないよう慎重に体をずらして、持ってきていたスケッチブックに手を伸ばす。
残っているページはあと数枚。もう少しで、全部が埋まる。
「……丁寧に描くよ」
最後の一枚だけは、何を描くのか決めてある。
それを描き終えるまでは消えたくない。
その一枚に辿り着くことができるよう、晴天は一心不乱にその手を動かした。
今現在、もてる全部の力を注いで描こうと思う。
総輝に満足してもらえるように。
せめて、自分が消えても少しの間は覚えていてもらえるように。