二階の部屋ふたつの壁をぶち抜いてアトリエにしたそこには、何枚ものブルーシートをしきつめて、その上にイーゼルを置いてある。
周囲には父親が最近送ってくれたウィンザー&ニュートンと、どこにでも売っているような油絵の具にパレットや筆が丁寧においてある
部屋の隅には、今は使っていない水彩絵の具や、以前に書いた絵もある。
今描いている絵を暁に見られては困る。どこに隠そうかときょろきょろあたりを見回した後に、結局自室に持っていく事にした。しばらくは客室で寝ようと思う。
「……あと少し」
部屋に持ち込んだ絵を見て小さく呟く。
あと少しで出来上がる。あと少しで。
(……そしたら)
言いたい事があるのだ。
その時の事を考えれば笑みが浮かぶ。それと同時に怖くもなって、絵を置いて一階に戻る。
少し待ってて欲しいと、冷たい麦茶をテーブルに置いて総輝が上の階に駆け上がって数分。見渡したリビングは『総輝の家』という印象でなんとなくむず痒い。
ここで彼は育ったのだろう。生まれたときからなのか、それとも途中からなのかはわからないが、この家の中には総輝の空気が染み付いている。
自分の家もこうなのだろうかと思い、それよりも弟の空気の方が染み付いているのだろうなとなんとなく考える。あの弟は強烈だったから。
だがそこに自分がないという事はないのだろう。
少なくともあの家の料理の匂いは自分が作ったものだ。弟は全く料理ができなかったから。
棚の上に置いてある写真立て。何枚もあるそこには、小さな総輝が母に抱かれて笑っているものや、最近撮ったのだろう、自分が知っている高校生の総輝も居た。
入学式と書かれた看板の前で、母親と一緒に映っている。
多分これからも写真は増えていくのだろうそれに、ほんの少しだけ羨ましくなる。
自分の境遇に不満を持った事はないけれど、こんな風に家族揃って写真を撮る機会があればよかったなと思う。父も母も忙しく、それが誇りでもあったけれど、ささやかな一家団欒というものも経験してみたかった。
「……我がままだな」
小さな声で呟いて、ほんの少しだけなら触っても許されるだろうかと、まだ小さい総輝が絵筆を持って遊んでいる写真に手を伸ばす。
多分初めて筆を持ったときの写真なのだろう。
自分にもこんな時があったと思い出す。父の仕事道具のお古は自分の遊び道具だったから、多分同じぐらいの年の頃だろう。
本気で絵描きになろうと思ったのはもっとずっと後の事だが、付き合いは意外と長かったと思い出してなんだか嬉しくなった。
そうして写真を眺めていたら眠くなってきて瞼が落ちてくる。
(最近多いな……)
写真を戻さなくてはと思いながらも、手が動かない。
ソファに沈む体を感じながら、落ちていく瞼と格闘して、負けてしまう。
そうして見た最後の光景に、ああ、と思う。
――――色、が。
ない。
その手がまるで昔の映画のような色をしていた。
自分だけが白黒映画の中に放り込まれて、異色の存在になっている。
帰れるのか、それとも消えるのか。
――― もう少しだけ、待ってくれないかな。
そう思う。
あと少しで、いいから。
このスケッチブックが―――……。