――――――――――――――――――― 『大船の』




 目にした光景に、総輝は思わず声を上げそうになって口を塞いだ。
(なに、これ……)
 隣に座り、目を閉じている晴天。
 少し前までは何ともなかった彼の、『色』がなくなっていた。
 樹の陰が落ちているとかそんなものではない。
 まるでモノクロの写真を見ているかのように、彼から色がなくなっていた。
「……っ!」
 なんだこれはと息を呑む。
 手を伸ばして触れようとして、だが触れる直前にやめた。
 不用意に触ってしまったら、晴天が消えてしまうような気がしたのだ。
「……せ、いて……」
 お願いだから、と縋るような声が出た。
 今はやめて。俺の目の前からいなくならないで。
 縋るようなその声は掠れて小さく、きっと晴天の耳には届かなかっただろう。
 泣きそうになりながら小さく呼んで、ぐっと唇を噛み締める。
 どうしたらいいのかわからない。何をどうしたら、晴天がこの場所に『とどまって』くれるのか―――……。
(……っ!)
 そこまで考えて、急に体中が冷えた。
 自分の身勝手さに気がついて、血の気がひいていく。
(……晴天は、帰れた方が、いいんじゃないのか?)
 そう思った瞬間に手が震えて、頭の中は真っ白になる。
 自分がどうなるかもわからない場所に、晴天がずっと居たいと考えるとは思えない。
 いつか帰ってしまうと総輝も考えていたはずだ。
 それなのに総輝は、どうやって晴天を『帰らせない』かばかりを考えている。
(……俺)
 なんだよそれ、と呆然とした。
 泣きそうになりながら、うつむくしかできない。
(なんで、こんなそんな風に思うんだよ。帰れた方が、きっといいのに……)
 でも嫌だ。
 そんな事を考えてぐるぐるしているうちに、眠っている晴天に変化が訪れた。
「……ん」
 小さく呻いた晴天が身じろぎする。
 はっと気がついて顔を上げれば、晴天の顔には色が戻ってきていた。
 その体にも服にも、もう異常は見当たらない。
 一瞬自分の気のせいだったのかと考えたのだけれど
「……う」
 少し苦しそうに晴天が眉根を寄せた瞬間、ほんの一瞬だけまた色が消えて、気のせいなどではなかったと思い知らされた。
「……晴天」
 お願いだから起きて、と目に涙を浮かべながら名前を呼んだ。
 このままだなんて嫌だ。
 だってまだ出来上がっていない。渡してもいない。
「起きてよ、ねえ」
 色の戻った彼の服。その裾を掴んで呼びかけてみるけれど返事はない。
「まだ、話したいこといっぱいあるから……お願いだから」

 まだ行かないで。
 渡したいものがあるんだ。
 だから、まだ。

 そう思ってきつく裾を握り締めると、ゆっくりと晴天の瞼が開いた。






「……どうした!?」
 目を覚ますなり、涙目になっている総輝の顔があって晴天は驚いた。
 ぎょっとしながら半ば叫ぶように問い掛けると、ぶんぶんと風を斬る音が聞こえてきそうなぐらいの勢いで総輝は頭を振る。
「なんでもない」
 その声はかすれていて、ちっともなんでもないようには見えないのだが、多分それは聞かれたくない事なのだろう。
 いつの間にか晴天の服を掴んでいた総輝の手が震えていて、一体自分が寝ている間に何があったんだと思う。
 頑なになんでもないよと繰り返す総輝には、もう何を問いかけても答えてはくれないだろうと内心溜息をついてから、そっと裾を握り締める手に自分の手を添える。
「大丈夫だから」
 何が原因なのかもわからず、その言葉のどこに信憑性も安心もないとわかっていながらもそう告げて、晴天は笑った。
 その言葉の後、総輝は唇を震わせ、何度も何かを堪えるように噛み締めて、こくりと頷く。
 大丈夫、と口の中で呟いた後、その目にはもう涙は残っていなかった。
 気丈な表情を見せた総輝は、その後に口を開く。
 あのさ、と始まったその言葉に首をかしげて、総輝は耳を傾けた。






 思えば、最初からこの提案をしていればよかったのだ。
 そうすれば晴天はカプセルホテルの硬いベッドで眠らなくてよかったし、体調を悪くしたってすぐに気がつく事ができた。
 なんで今の今まで思いつかなかったのだろうと、考え付かなかった自分に対して「ばかばか」と心の中で叱り付けながら、総輝は言う。
「夏の間、行く所決め手ないよね?」
「ん? うん。そりゃさっきの今じゃあ決まらないな」
 首をかしげながら、それでも笑顔で答えてくれる晴天の表情が今は苦しい。その苦しさを紛らわせるように唾を飲み込んでから、総輝は続ける。
「じゃあ、俺のウチ、泊まりに来ない?」
「え……?」
「あの、俺のウチ今親いないから部屋余ってるし、アトリエ、あるし」
 何よりも『あんな状態』の晴天をひとりになどしておける訳がなかった。
 あれが『帰る』前兆なのか、それとも別の何かなのかはわからないけれど、良い事ではないのはわかる。
 その証拠に、彼はあの瞬間確かに苦しそうな表情を見せていたのだ。
「……いいの?」
 躊躇いがちに問われた声に、しっかりと頷く。
 晴天が遠慮をして悪いからと断っても、本気で嫌がっていなければ強引にでも彼を家に連れて帰ろうと総輝は考えていた。
 いつ目の前からいなくなってしまうかもわからないから、会える時間を少しでも長くしたいと思う。
 そして『出来上がったら』、渡したいものがあるのだ。
 我が侭でしかないとわかっているけれど、それまでは晴天にここに居て欲しいと思う。
 だから。

「……じゃあ、お邪魔しようかな」

 笑って頷いてくれた瞬間、総輝はまた泣きそうになりながら、必至に歯を食いしばって耐えた。
 無理のある表情のおかげで晴天には散々心配されたけれど、まだ時間はあると感じた総輝は、大丈夫と答えていた。


 いつかは帰る人だとわかっているけれど、もう少しだけ傍に居て欲しいと思う我が侭を、許して欲しい。