電話番号を教えて以来、総輝にはほんの少しだけ楽しみが増えた。
親が赴任中で殆ど一人暮らしのようなもので、ほんの少し寂しくなる時があるのだと話をしたら、それじゃあと提案された事があったからだ。
アトリエ代わりに用意してくれた部屋にはブルーシートがしかれていて、いくつもの種類の絵の具がまとめて部屋の端に置かれている。
中央にあるイーゼルには、キャンバスがたてかけられていて、そこには描きかけの青空の絵があった。
「……もうちょっとかな」
ぽつりと呟いた総輝の耳に、電話のベルの音が届く。
「あ」
とたん、総輝の顔はぱあっと笑顔が浮かんで廊下に飛び出していく。
毎日夜9時、総輝の家の電話が鳴るようになった。
それが、晴天との約束だ。
「はいっ、もしもし」
『こんばんは』
電話の向こうから聞こえてきたのは、晴天の声。
毎日の無事の報告と、それから他愛のない会話をする。
毎回五分程度のそれでも何故だかうきうきして、家族がいなくなり虚のような感覚がぬけなかった家の中が、とても温かく思えるようになった。
それからしばらくは何も起きる事なく、平和に過ぎていった。
その穏やかさの中に、小さな前兆がある事にどちらも気がつかず、ただゆっくりと時間は過ぎていった。
そして一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた。
晴天はまだここに居る。
季節はすっかり夏になり、あの丘に居るのも少し辛くなってきた頃、少しずつその異変は見えるようになってきた。
相変わらずふたりはあの場所で毎日のように顔をあわせている。
時折総輝が学校の都合で来られなかったり、晴天もたまに来られない日があったりしたけれど、互いに来られない日は心配をかけないように連絡をしあったりして、声を聞かない日は殆どなかった。
「さすがに暑いなぁ……」
「そろそろ限界かなぁ」
さわさわと風は吹いているけれど、その風も生ぬるいから慰めにもならんくなってきた。
春の日差しと言えたぽかぽかな陽気はいつしか夏のカンカンな日照りへと変わっていて、丘から街を見下ろせば陽炎が見える気がしている。
「総輝、夏の間はどうしてるんだ?」
「えと、父さんが家の中、アトリエに改築してくれたからそこで描いたり」
「お、いいお父さん」
「壁ぶち抜いて部屋広くしてくれただけなんだけど。……うん、すごく感謝してるんだ」
「羨ましいなぁ。ウチの親なんか自分たちの仕事ばっかりで子供兄弟どっちもほったらかしだし」
今現在もそれは実行中なのだと晴天は笑う。
それは多分総輝にとっての『未来』の事だ。
「兄弟、いるんだ?」
「うん。弟がひとり」
「弟さんも絵?」
「違う違う。あいつはこっち」
笑いながら首を振って、晴天は両手を上げて指を動かした。
それが楽器を弾くような動作で、総輝は首をかしげる。
「ピアノか何か?」
「正解。天才ピアニストだつってもてはやされてるよ。確か『今』ぐらいでナントカ賞とったとか騒がれてたな」
この『今』は、総輝にとっての『今』だ。
という事は晴天が10歳の時の弟という訳で。
「……あ、と……ちなみに何歳差?」
「ん? 2歳差。だから8歳の時か。どっかのコンクールに出て有名作曲家の難しい曲小生意気に弾いて賞とったって」
「は、はっさいで……」
「我が弟ながら大したもんだよ。あれはもう格が違うというか」
末恐ろしいね、と晴天はからから笑っている。
自分ならそんな弟が居たら、臆して卑屈になる気もするのだが、晴天はそんな事ないようだ。
それは家族だからなのだろうか。それとも晴天だからなのだろうか。
すごいなあと思っていると、晴天が知ってるかと問い掛けてくる。
「破格級の天才ってどっか頭のネジがとんでるんだよ」
「……とんで?」
どう言う意味だと首をかしげていると、まぁまぁと笑いながら晴天が続けた。その内容に総輝は思わず目を瞠って声を上げてしまう。
「そうそう。この間『こっち』の俺の家に行って弟と鉢合わせしたんだけど」
「えぇ!?」
なんだそれ、と叫びたくなった。
過去の自分の家に行くなんて事がよくもまあできたものだ。
何か起きるとか、色々考えたり不安になったりしなかったのだろうか。
「あ、ちゃんと『自分』が居ない日に行ったから心配ないよ。で、弟に会ったらさ、なんて言ったと思う?」
「……泥棒とか、言われなかった?」
「うん。言われるかなぁと俺も思ってたんだけどね」
違ったんだよ、と晴天は笑った。
「じゃ、なんて?」
「あいつさ、俺を見るなり『おかえり』って一言」
「……へ?」
「やっぱりそれが普通の反応だよな」
面白そうに笑いながら、うんうんと晴天は頷いた。
その間総輝の目は殆ど点になってしまっている。
(おかえりって……18年後のお兄さんにむかって?)
それはなんというか、どうなんだろう。
さすがに10歳から顔形や体格が変わらないなんて事はあるまい。
10歳と言えば、殆どはまだ声変わりもしていない時期ではないだろうか。18年も経って成長していれば、既に別人と言ってもいいような気がする。
それを一瞬で兄だと判断したと言うのか。
「その後『いつの間にそんなに老けたの』ってさ。天才とバカは紙一重ってこの事かって思った」
「えええ!?」
「な、ネジとんでるだろ?」
常人と感覚が全然違うんだよと、思い出したら止まらなくなってしまったのか、晴天はげらげらと笑った。
総輝はと言えば、すごいなぁと呆気にとられて、あんぐりとあいた口がふさがらない。
「まあ、そんな弟だったから、放置されても別に困ったりしなかったんだけどな」
思いっきり話がそれたなぁと、未だ笑いをひきずる声で晴天は言い、落ち着けるためか深呼吸をした。
何度か深呼吸を繰り返した後、まぶしそうに空を見上げて晴天は口を開く。
「俺はどうするかなぁ……」
ここに来られない間はどうしようかと、ほんの少し戸惑いを含んだ声だった。
それを聞いた総輝は、うまい案も浮かばずにただ黙っている事しかできない。
総輝の居場所はあるけれど、晴天にとっての正しい居場所は此処ではない。
もう何ヶ月も帰る方法がわからずここに留まっている総輝は、元の場所を恋しく思う事があるだろうか。
「ま、いいか後で考えれば」
その時はその時だ、と笑った総輝はゆっくりと目を閉じる。そして小さく欠伸をした。
「なーんか眠い……ちょっと寝ていいかな」
「あ、うん」
「1時間経ったら起こして。そしたら何か食べに行こう」
「うん」
総輝が頷いた後すぐに、晴天はすとんと眠りに落ちる。
最近はこんな風にいきなり眠る事が多くなった。
以前も眠い眠いと行ってこの場所に現れなくなった事もあったから、少し……いや、かなり心配なのだけれど、総輝はそれを口にしようとはしない。
(……嫌な奴だなぁ)
心配だと言ったら、今この現状が崩れて消えてしまいそうな気がして、それが嫌で言えずにいる。
(でももうちょっとだけ)
初めてできた、本当の意味で友達と呼べる人だ。
いつか帰ってしまう人だから、もう少しだけ楽しい時間が長く続いて欲しいと思うのはだめなことだろうか。
「あと、少しだけ」
小さな声で呟いて、横で眠る晴天を見た総輝は―――
「……っ!?」
見て、しまった。
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