次の日と、その次の日。晴天はあの丘に姿を現さなかった。
体調が悪いと言っていたから、風邪かもしれない。ホテルに泊まると言っていたけれど、結局どうしたのだろうか。
(それとも……)
それとも、あの人の居るべき場所に還ってしまったのだろうか。
そう考えた瞬間絶望に似たものを感じて、総輝はひとり、丘の上で膝を抱えて丸くなる。
快晴の空、彼と出会った時から一ヶ月以上が過ぎて、季節はすっかり春を過ぎた。
ぽかぽかと暖かい日差しは、けれど総輝の不安を溶かしてくれる事はなく、抱えた膝の上に顎をのせて、ただ前だけを見た。
ここから見える景色は、いつでも総輝を助けてくれた。何か不安な事があれば、ここへやってきて絵を描いた。
それなのに今は、ここから見える景色がちっとも綺麗に見えてくれない。
(晴天……)
真っ青な空は彼の名前と同じで、そして彼そっくりで嫌だ。
たった2日の事なのに、彼に会えず不安になっている自分を知りたくなくて、どうせなら雨が降ってくれればいいのにとも思った。
「……大丈夫、かな」
連絡先を、せめて彼が泊まっているという場所だけでも聞いておけばよかった。そうすれば、彼が無事かどうかも確かめる事ができたのに、自分の馬鹿さ加減に溜息が出てくる。
ここに来れば晴天に会えるのは、確かにそうかもしれないけれど、100パーセントの確立ではなかったのに。
「俺のばか……」
心配で、今日は大好きな絵が全く描けない。
スケッチブックは横にあるけれど、今日はずっとこうやってうずくまったまま、開いてすらいなかった。
(こんな事初めてだ……)
誰かを気にして絵が描けなくなるなんて事は今までになかった。
だから一番その事に怯えて、その原因が晴天である事にも総輝は怯えた。
「……もう来ないかな」
一番最初の、とても嬉しそうな目でこの場所を見て、そして自分の事も見てくれた人だ。
自分に会う事ができてはしゃいだのだと、そんな事を言われたのは初めてで、それが嬉しくないと言ったら嘘になる。
これまでにも褒めてくれた人はいたけれど、あんなにも全身全霊で訴えた人はいなかった。そして総輝も、彼の絵が好きになった。
そんな人が、いきなり何も言わずに消えてしまうなんて―――…。
「ショック、でかいよ」
それはあんまりだ、と膝頭に額を押し付けて、泣きそうだと鼻をすすっていたら、後ろから足音が聞こえた。
「何が、ショック?」
ここへやってきて、一番に聞こえた言葉の意味を知りたくて、晴天は問いかけていた。
はっと顔を上げた総輝は、晴天の顔を見るなり目を大きく見開いて、そのあと泣きそうに顔を歪ませる。
そうなる原因は心あたりがありすぎるから、晴天の口からはするりと「ごめん」と言う言葉が零れていた。
「心配かけちゃったな」
「……きてた」
「うん?」
「生きてた……」
今にも泣きそうな顔をしている総輝の隣に歩み寄って、腰掛ける。
「あはは、ごめん。久しぶりにベッドで寝たらそのままずっと寝ててさ」
それは本当で、一端ベッドに入ったら殆ど丸一日寝てしまったのだ。
そうして寝癖でぼさぼさになった自分を鏡で見ながら、そんなにカプセルホテルのベッドがいやだったのか自分はと苦笑してしまった。
そんなことが2日続いて、すっきりと目が覚めた今日、ここへやって来たという訳なのだが。
「連絡が取れないって事失念してました、すみません」
元いた場所でなら、携帯があるからいくらでも連絡の取りようがあった。だがここでは携帯がないという事を忘れていたからいけなかった。
せめて総輝の連絡先ぐらい聞いておけばよかったかもしれない。そうすればここまで彼を心配させる事もなかっただろうに。
「……あの、ちゃんとベッド、で」
「ん? ああ、うん。あんまり寝心地が良くて起きられなくなっちゃってね」
俺もトシかなーなどと笑っていたら、それを聞いていた総輝の目にぶわっと涙が浮かんだ。
「え」
それを見た瞬間、かちんと音が聞こえそうなぐらいに晴天は固まって、はっとした総輝は、自分が泣いている事に気がついた。
「え、あ……あれ?」
ぼたぼたと零れ落ちるそれは、ぬぐってもぬぐっても流れ出す。
どうして泣いているのか自分でも理解できず、総輝は「あれ、あれ」と呟きながら涙を拭い続けた。
「……そんなごしごしやったら目、腫れるよ」
擦り続ける総輝を見かねた晴天が、その腕を押さえて、代わりに自分の服の裾を、総輝の目尻に押し付けてくる。
「ハンカチとか持ってないから、これで勘弁して」
持ってくればよかったなと笑うと、総輝はふるふると首を振った。
しばらくそうしていると総輝の涙も止まって、晴天は袖を使っていた手を離したのだけれど、もう一方の、腕を掴んでいる手を離す事ができなかった。
「よかった……」
離せと言う事なく、総輝はただ小さな声で呟いた。
「ん?」
「……俺、心配してて、もうこなかったらどうしようかと、思って」
「うん、ごめん」
「もう来なくなるかもって考えたら、心臓、止まるかと思って」
怖かった、と呟く声がか細く、本当に心配させていたのだと知る。
それと同時に、総輝にとっての自分がそれだけの心配される存在になっている事が、嬉しかった。
不謹慎だとは思うけれど、どうやってもそれが嬉しくて、にやけそうになる口元を戒めるのに精一杯になる。
それでも目の前で丸く小さくなっている総輝を見れば哀れで、その原因が自分かと思うとまたにやけそうになって。そんなループから脱すべく、晴天は口を開く。
「あ、のさ!」
「は、はい!」
勢いまかせで告げた声は、思いのほか大きくなってしまい、それに驚いた総輝の声も、つられて大きくなる。
がばっと顔を上げた総輝と目が合って、なぜだか恥ずかしくなりながら、晴天は思いついた事を言う。
「あの、今度からダメになった時は連絡、するから」
「え? え?」
「だから、その、ええと……。電話番号、教えてくれない?」
聞いてもいいものかと戸惑いもあった。
だがそんな事よりも、また同じ轍を踏んで心配させるよりはマシだと思う。
断られたら断られたで別にかまわない。そうなったら、別の方法を探せばいいし、何より体調を崩さないように気をつけていればいいのだから。
「……あ、と、ええと」
「ああ、だめなら断っていいから」
「や、だめじゃない、です。えと、紙とか……」
「あ、言ってもらえばメモするから」
しどろもどろに言う総輝を制して、自分のスケッチブックと色鉛筆の黒を手に取る。
表紙の裏を開いて、総輝が口にする番号を一字一句聞き逃さないように、晴天はその数字を書き取っていった。