駆け上がった丘の、大きな樹。
総輝がお気に入りのあの場所に、あの人はいつも居る。
けれど最近、総輝がそこへ行ってもあの人がすぐに気付いてくれる事が少なくなった。
(あ……まただ)
息を切らせながら駆け上がった丘。そのいつもの場所に、彼は居た。
だがやはり総輝の足音に気付く様子もなく―――ぐっすりと、寝ているのだ。
「……寝てないのかな?」
さく、と足元の草を踏んで音を立てながら近づいても、晴天は起きる気配もない。
全くと言っていい程に動かないから、最初は死んでしまったのではないかと顔を真っ青にしたぐらいなのだが、息はしているしそのうち起きてくる。
起きれば具合が悪いという訳でもなく、本人は笑っているからそれ以上は何も言っていないのだが、そう言えば。
「……どこで寝泊りしてるのかな」
眠っている彼の横に座り、その横顔を眺めながらそんな事を呟く。
晴天の言葉を信じるのならば、彼は『未来の人』だ。
よく考えもしないままでいたけれど、そんな彼に帰れる家があるとは思えない。
それならばどこに―――…。
「……ん」
「あ」
風が吹いて樹が揺れて、零れ落ちた日の光がまぶしかったのか、身じろぎした晴天の眉が寄った。
起きるかなとそわそわしていたら、すぅっと晴天の目が開く。
薄く目を開いたまましばらく停止して空中を眺めた後、隣に居る総輝の気配に気がついたのか、きちんと目を開いて顔を向けてくる。
「……ああ、きてたのか」
「うん。おはようございます」
「あはは、もうすぐ夕方だけど」
「じゃあ、おそよう?」
「ははは」
ちょっと寝すぎたなあと呟きながら、晴天は上半身を起こして伸びをする。
その頭に葉っぱがついているのに気がついて手を伸ばせば、なに、と問いながらも晴天は動かずに居てくれた。
「葉っぱがついてる」
ちょっと待ってと言いながらぱたぱたと頭を払えば、緑の葉が晴天の膝の上に落ちていく。全部払って手を離せば、ありがとうと笑ってもらえた。
「最近ずっと寝てるけど……大丈夫?」
以前の彼は、ここに総輝が来る時必ず絵を描いていたのに、最近はずっと寝ている。何かの病気ではなくても、寝ていないのではないかと心配だ。
「あはは、カプセルホテルだと寝づらくってさあ」
「ずっと?」
晴天の言葉を聞いて、今度は総輝の眉がきつく寄る。
カプセルホテルに泊まった事はなくても、そこがどんな場所だかはテレビで見たことがある。あんなところで一ヶ月以上も寝泊りしていたのかと呆れ、そしてこれまで何も聞いていなかった自分に歯軋りした。
「ちゃんとしたベッドで寝ないと、体に悪いよ」
「…んん、そうしたいところなんだけど、働くアテがないからお金は温存しておかないと」
どこかを借りたくても身分証明書がないし、と言われて総輝は黙るしかない。
「まあ最終的に金がなくなったら似顔絵でも書こうかなと思ってるけど」
「……そっ、か」
「総輝は気にしなくていいよ。これは俺の問題だし」
「でも」
「気にかけてくれるのはすごく嬉しい。でも俺を気にするより、総輝さんは自分の事を考えて?」
ね。と笑う晴天が遠いと思う。
いつもと同じ笑い方をしているのに、とても遠かった。
総輝さん、と時々彼は自分の事をそう呼ぶ。普段は呼び捨てにするのに、なぜかふっと、思い出したようにそうなるのだ。
そしてそう言う瞬間、晴天が何を見ているのか、総輝にはわからなくなるのだ。
その目はしっかりと自分を写しているだろうか。
それとも―――…?
(……っ)
自分が何を考えたのか、わかりたくないと思う。
こんな瞬間にふとよぎる考えは晴天が『何を見ているのか』だ。
自分を見ているはずの目が遠くて、苦しくなる。
(だって俺……俺は……)
ぎゅっと噛み締めた唇がわなないた。
それを見つけた晴天は、ああ、と笑顔を見せる。
「気にするなって言っても、無理かな」
そうじゃない、と首を振ったけれど、多分違う意味に取られただろう。
そうじゃない。そうじゃない。
言いたくても声がでず、ただ震える唇を噛み締めることしかできなかった。
「気にしてほしくないから、黙ってたんだけど」
「……い、言ってくれた方がよかった、のに」
「だって気にするじゃないか」
「こんな風に体調悪くしてる方がよっぽど気になる」
「悪くって……単なる寝不足だよ」
「寝不足が続いたら、体調悪くなるよ」
頼むから、そう言う事を隠して無理をするのはやめて欲しいと切に思う。
無理をして出来た関係など、すぐに崩れてしまうから。
「ん。ごめん。じゃあ2、3日はどっか別のホテルに泊まる」
ちゃんとしたベッドで寝ます、と頭を下げられて、総輝は困った。
体の事は心配だけれど、今後のことを考えて節約しているものを、無理に使わせてしまうのもどうなんだろう。それに。
「2、3日…過ぎたら?」
その問いかけに答えはなかった。
ただ笑って頭を撫でられて、それが答えだと知る。
「……ごめん、なさい」
「なんで?」
「何もできなくて」
「そんな事ないと思うけど」
自分は子供で、何もする事ができない。それが悔しくて悔しくてたまらなかった。
大人だったら、何か力になれるかもしれないのに。
そう考えて、ちくりと何かが刺さったような違和感を覚えた。
(……俺)
さわさわと風にゆられて樹が音を立てている。
何も言えずに黙り込んでいると、ゆっくりと頭を撫でられて総輝は顔を上げた。
そこにある晴天の笑顔を見て、なんだかとても、言葉にはできないような感覚に陥る。苦しい、に近いような、そうでないような。
「総輝は、色々なものを俺にくれるから、何もできないなんて事はない」
「……でも」
「ここに来られてよかったと思ってるんだ。だからそれを、否定しないで」
それだけは、お願いだからと言われて何も言えなくなる。
何もできない自分が悔しかった。
大人だったら何かできるかもしれないと思った。
『総輝さん』と自分を呼ぶ彼がとても遠いと思った。
そして自分が、何を考えているのか知りたくなかった。
小さな棘が刺さった場所が、何かのきっかけで大きな傷口になるなんて、全然わかっていなかった。
いや、その時はまだ、棘が刺さった事すらわかっていなかったのかもしれない。
ただどうしてかとても苦しくて、泣いてしまいそうになるのを堪えるので精一杯だった。