おかしい、と思ったのはこの場所に来てから一週間近く経った頃の事だった。
「……?」
最初はほんの少しの違和感。
スケッチブックの上をさらさらと動いていた鉛筆が、ぴたりと止まって晴天はその手を凝視した。
何が、と言うほどのものでもない。ほんの少しの違和感。
だが首をかしげているうちに消えてしまって、気のせいかと思っているうちに忘れてしまった。
そうしてもうすぐ、一ヶ月が経とうとしている。
「ねぇねぇ、橘くん最近付き合い悪くない?」
「え…?」
後ろからの声と共に、ひょいと上から覗き込むようにしてきたのは、クラスメートの女子だった。確か名前は、香坂さん。下の名前は申し訳ないことに総輝は知らなかった。
「えって。最近あたしたちが誘っても来てくれないしー」
非常に珍しい事に、高校生にもなってこのクラスは非常に仲がよかった。くっついている男女も多い上に、よくみんなでつるんで遊びに出かけている。総輝も付き合った事がない訳ではないが、なんとなくみんなのテンションについていけず、滅多な事がない限りは殆ど参加していなかった、のだが。
「橘くん元々あんまり来ないけど、最近さらに来なくなっちゃったよねぇ?」
あたしたち、なんかした? と問い掛けてくる香坂は可愛らしく首をかしげた。今時の焼けた肌に茶髪だがテレビでよく見る『汚ギャル』というような印象は受けず、むしろ健康的で好ましい。
「最近ちょっと用事があって…」
嘘ではないから言い訳はすぐに出てきた。だがそれでも、なんとなく後ろめたいと思ってしまうのは、あんまりその遊びに馴染めないせいなのだろう。
(悪い人じゃないんだけどなぁ…)
これは完全に自分が悪い。
ゲームセンターにカラオケ、ファミレスで駄弁っておしまい。
そんな遊びも悪くはないのだと思うけれど、どうしても馴染めず、ただ話を聞いて笑っているだけの時間は酷く疲れるのだ。
「用事ってなに?」
「ええと…絵を、描いてて」
それを仕上げたくて、とぼそぼそ言えば、なぜか香坂は目をきらめかせて食いついてきた。
「え、なになに? 橘くんって絵描く人だったの?」
すごいねーと食いついきながら、総輝の前にやってきた香坂に教室の別の場所から声がする。
「ばっか香坂、橘美術部じゃんかよ」
「えーそんなクラスメートの部活なんて一々把握してないわよ!」
「ちょーっと前にナントカ賞とったとか教師が騒いでたじゃんかよ、みんな知ってんぞー」
「え、うっそあたし知らない」
「あーお前あン時休みだったかもー」
センセすっごいはしゃぎようだったんだぜーと笑う男子の声を聞きながら、そんな事もあったなぁと総輝はぼんやり思い出す。
つい3ヶ月ほど前に出展したコンクールで、金賞とはいかないまでも、名のついた賞をもらった事があった。
そのコンクールでは学生が賞をもらうことは珍しく、これは快挙だと教師たちが騒いで、朝礼で表彰式のまねごとまでされてしまったのだが、そんな事はもうとっくに忘れていた。
「へぇー橘くんそんなにスゴかったんだぁー」
「凄いとか、そういうのじゃないよ。ただ好きなだけなんだ」
「うん。そういうの凄いよね。じゃあしょうがないっか」
あたしもそんな風に夢中になれるものが欲しいなあと笑いながら香坂は席に戻っていく。
(…あれ? いいのかな)
結局自分は集まりに参加しなくてもよくなったのだろうかと頭の中で思いながら、結局そのままにされてしまったのだからそれでいいかと深追いせずに終わった。
絵を描いている。その言葉は間違いではない。
あの日、晴天に描いてもいいよと了承を得られてから、ずっと描いている絵がある。
それは晴天を描いているのとは別のもので、いつか出来上がったら彼に見てもらいたいと思っている絵だ。
(見せられるかな)
いつ帰ってしまうかもわからない晴天に、その絵を見せる事はできるだろうか。
(見せられると、いいんだけど…)
彼のために描いている絵だ。スケッチブックをくれると言ってくれた彼が、自分の絵を好きだと笑ってくれたから、お返しがしたくて描き始めた。
(今日も居るかな…?)
窓の外を眺めながら、そんな事を思う。
約束もせずに、毎日あの場所で会っている。それが当たり前で、だがいつそれがなくなってしまうかもわからないと思えば、背筋に悪寒が走る。怖くて、近づくといつも小走りに丘を駆け上がって、息を切らしながらそこに座っている晴天の背中を見て安心していた。
「あ、橘くーん、絵出来上がったらみせてねー!」
「え? あ、ああ、うんできたら、ね」
思い出したように話しかけられて、思わず頷いてしまったけれど、きっとあの絵は、あの人以外に見せる事はないだろうと思う。
別の絵なら見せるからごめんねと心の中で謝ったところで、教室の中に教師が現れた。
「……ふあぁ」
欠伸をしながら目を擦る。スケッチブックが眠気で霞んで見えて、おかしいなあと晴天は思った。
(昨日もちゃんと寝たのになぁ)
さすがに一泊2000円のカプセルホテルではちゃんと眠れないかと、肩に手を当てて溜息をつけば結構肩が凝っていた。
「でもなぁ…無茶してると金尽きるしなあ…」
たまにはちゃんとしたベッドで寝たいなあと思いながらも、いつどうなるかわからない財政では切り詰めておいたほうがいいだろうと思いながら、カプセルホテルを点々としている訳だ。
そんな生活をしていたからか、近頃は寝ても寝ても寝たりない。
「…一ヶ月も続けてりゃそうもなるか」
もういっそこれは怪しくてもいいからどこかの部屋を借りるべきかと思うのだが、何しろ伝手がないものだからどうしたものか。
「まぁ、もうちょっと考えるか」
一応まだ7桁の手持ちはある訳だしと呟きながら、ぺらりとめくったページには、未完成の絵がある。
色鉛筆で描かれたそれは全体的に青く、一部に温かい光のようなものが描かれている。青い色は春の空のような柔らかさだ。
「あと、もうちょっと…」
あと少しイメージしているものには足りない。
何が足りないのか、考えている最中にも瞼は落ちてきて、そのままぱたりと手が地面に落ちた。
すう、と寝息を立て始めた晴天の手が、日差しに照らされて一瞬、色を失ったのを見た者はいなかった。