――――――――――――――――――― 『くれなゐの』




 横にやってきても、眠る晴天は起きる気配がなかった。
 すやすやと規則正しい寝息を立てている晴天を、総輝は思わずじっと眺めてしまった。
(睫毛…ながい)
 最初にも思った事だったが、ひとつひとつのパーツだけを見ていると、どこか晴天は女性的のようにも見える。骨格は男そのものなのだけれど、睫毛の長さだとか、肌のきめ細かさだとか。
(…きれい)
 それはとてもその賛辞が似合うものだと思う。
「描きたい…なあ」
 右手がうずうずする。
 描きたくて描きたくてしょうがなくて、自分の意思など無視して今にも手が動き出してしまいそうだ。
 いや、それこそが総輝の本心なのだから、意思を無視すると言うよりも、欲望に忠実にと言った方が正しいのかもしれない。
 だがそれでも、本人の了解を得ずにする事はできなくて、どこか歯がゆいような感覚を味わいながら、総輝は寝ている晴天の横に腰を下ろした。
 眠る晴天の横には、今さっき描き上げたばかりなのだろう絵があって、それを見てどきりとする。
 とても温かい絵だ。
 彼の絵は抽象画だから『何を描いたのか』はわからない。
 春の木漏れ日を余すところなく詰め込んだような、やわらかい温かさを感じさせる何かがある。青い色がこんなに暖かく感じたのは、初めてかもしれない。
「やっぱり…すごいなぁ」
 使っている色数は少ないのに、多彩に見える。
 やわらかい光を纏ったように見えるその絵を、彼は何を思いながら描いたのだろうか。
 こんな絵を描く人が、一体どんな人なのかとても興味がある。
 何を考えて、何を想って、その指先で筆を取り、色を選び描いていくのか。
「―――…なにが、すごいの?」
「…あ、起こしちゃった? ごめんなさい」
「いや、うとうとしてただけだから」
 煩くて起きた訳じゃないから安心して、と笑いながら晴天は伸びをするようにして起き上がる。
 ふう、と息を吐き出した彼は、絵の描かれたスケッチブックに指先を触れさせて乾いたかどうかを確認したあとにぱたりと閉じる。
「あ、そうだ。こんにちは」
「あ…はいこんにちは」
 まだ言ってなかった、と笑いながら言われて反射で総輝は頭を下げた。
「…今日は、遅いね」
 手首の腕時計に目を向けた総輝が、視線はそのままの状態で目を細めて笑う。時刻は4時。いつもより1時間ほど遅かった。
「あ、学校の行事があって、その準備で」
「へぇ…何の?」
「学芸展。ウチ芸大付属だから、3ヶ月に1回あるんだ。…俺は普通科だけど」
「へぇ、おもしろそ」
 いいなぁ、と笑った晴天の手が恐らく無意識だろう、スケッチブックに伸びる。さらりとその表紙をなぞって、ふっと笑った顔はどこか何かを懐かしんでいるようだった。
「…あ、の」
「ん?」
「ええと…あーと…その」
 話しかけたはいいものの、何も話題がなくて困った。
 しばらく目をうろつかせた後、閃いてあの、と総輝は続けた。
「未来って、どんな風、ですか?」
「…え?」
「あ、いやえっとあの、なんかどんな風になってるのか、全然想像がつかなくて」
 自分が画家になっている場所。
 未来の自分は、一体どんなものを見て、何を描いているのだろう。そして晴天が居たその場所は、どんな世界だったのか。
 想像がつくようでつかず、興味は尽きない。
「…ああ、うーん」
 どんな風といわれてもなあと苦笑した晴天は、元居た場所の事を思い出すように目を閉じた。
 そうして腕を組んで、しばらく思い出すように首をかしげた後、「あ」と声を上げる。
「そうだな、この頃に比べると随分便利になった」
 ほらこれ、とズボンのポケットから取り出して見せられたのは、小さな機械。折りたたみ式らしいそれがなんなのか、総輝にはわからなかった。
 あけてごらん、と言われて折りたたまれたそれを開いてみる。
 開けたそれには数字のボタンが0から9まで。それから*と#。他にもボタンがいくつかついていたけれど、総輝にはまるで意味がわからなかった。
 電卓? とも思ったけれど、なんだか違う気がする。電卓ならあるはずの「+」だとか「−」だとかがない。
「携帯電話」
「…携帯…電話?」
 手に持っているそれを指し示して晴天に言われ、鸚鵡返しにつぶやけば、そう、と声が返ってくる。
 そうして、親指と小指を立てた晴天が電話をするような仕草でその手を耳に押し当てて、言う。
「これ持ってて電波が通じれば、どこででも電話ができます」
 笑って言われて、総輝は手に持っている小さな機械をまじまじと見つめた。持って歩ける電話。それは凄い。
 ポケベルというものがあって、持っている友達もいるけれど、総輝はそれすら持っていない。
 どこに居ても連絡が取れるというのは凄い。待ち合わせで時間になって誰も来なくても心配せずに済むということだ。
「…すごいなあ」
「携帯電話とか、あとネットとか、色々便利になったかなあ」
 ネット? と総輝が首をかしげると、あと数年したらわかるよと言われた。そう言われても興味があって、じっと見続けていたらどう説明したらいいのかわからないと困ったように笑われたからやめた。
「…想像つかない」
「そうだなあ。俺も未来の想像なんてつかないよ」
 自分の居る場所から、その先の事なんて見当もつかない。そう笑った晴天は、どこか遠くを見るような目で空を見上げる。
 青い空が橙に染まりかけている。その先に、彼は何を見ているのだろうか。
「ああ、そうだ」
「えっ?」
 空を見上げる晴天の顔に総輝が見惚れていたところに、いきなり視線を合わせられてびっくりした。どきりとして思わず目を見開いたところに、どうしたのと笑われたけれど答えられず、だが気にした風もなく晴天は胸ポケットから取り出したメモに何かを書きはじめた。
「はいこれ。あげます」
「…え?」
 笑って渡されたメモには、11桁の番号と、ローマ字が書いてあった。
 ハイフンの入った番号は、電話番号のように見える。だがその下に書かれたローマ字の意味がわからずに首をかしげると、くすくすと笑われた。
「上はこの携帯電話の番号で、下がメールアドレス」
「…メールアドレス?」
「そう。そのうちわかるから、とっておいて」
「…?」
「きっと今かけてもこの電話には繋がらないから、とっておいて。最初に携帯買ってから、ずっと変えてない。…ええと、あと5年したら、かな」
 多分それぐらいに一台目を買うから、と晴天は笑っている。
「そうしたら、俺に繋がるようになるよ」
「…でも、電話繋がっても知らない人…じゃない?」
 結局繋がるのは『その時』の晴天だ。今ここに居る晴天ではない。
 複雑な思いでそう告げれば、ああそうだねと晴天は笑った。
「それじゃあ18年後。総輝と会った『俺』に、繋がるから。覚えてたら、18年」
 とん、と自分の胸のあたりを指で示したあとに、「持っていて下さい」と、晴天は小さな紙を総輝の掌にのせて、握らせる。
 その動作に、一抹の不安を覚えて総輝は晴天を見た。
 それでは、いつかどこかへ行ってしまうと言われているようで。
「…お、れ」
 小さく呟いて、何を言おうとしてるんだと総輝は思う。
 何も考えていないまま呟いて、気がついた。
 晴天がここから、この場所から消えてしまうことがあるなんて、それまで考えてもいなかったと。
 いきなり目の前に現れて、それでもすんなりこの場所に馴染んでしまった晴天。その姿が消えてしまうことなどないと、何故かそう思い込んでいた。
「…ん?」
 固まってしまった総輝に、晴天は首をかしげてくる。
 どうしたの、と問われても動けなかった。
「…あの」
 あの、と繰り返すばかりで答えが出てこない。
 どうしよう、どうしよう。
 スケッチブックをいっぱいにして、くれると約束してくれた晴天。
 考えてみれば、彼はこの場所の人間ではないのだ。
 どうやって来たかもわからず、戻る方法もわからないと言っていた。
 だったら、その逆もありうるのではないだろうか。
 いつ戻ってしまうかもわからない。そう。
「…総輝?」
 どうしたの、と再度問われてはっとする。
 きつく握り締められた拳の中で、小さなメモは握りつぶされぐしゃぐしゃになってしまっていた。
(…や…だ)
 嫌だ、とはっきりと思う。
 この人がいなくなってしまうのは嫌だ。
 こんなに、こんなに――――…。


―――――…こんなに?


 こんなに、って何。
 反射で思い浮かんだ言葉の後、それに続く言葉が見つからずに総輝は混乱する。
 泣いてしまいそうで、だがそれもできずに混乱して、どうしたのと問い掛けてくる優しい声にこたえることができない。
 様子のおかしい総輝に、晴天は何も言わなかった。
 何かを言おうとして口を開いては閉じる総輝を見て、言葉が見つかるまで待ってくれているのだと知って、苦しくなる。
 何か言わなくては。
 総輝を心配させてしまうのが嫌で、目の前のこの人がいなくなってしまうのが嫌で、出てこない言葉の代わりに、メモを持っていない手で晴天の服の端を、小さく握り締める。
「総輝…?」
「…っ…おれ、俺…」
 困ったような顔ですら、綺麗だと思った。
 触れて、確かめて、閉じ込めてしまいたいと思う。
 自分の世界の中で、描いて閉じ込めてしまえたら。
「あの、あの…」
「落ち着いて。考えなくていいから、言いたいこと、言ってごらん」
 混乱した総輝の背中をゆっくりと撫でて、晴天はそんな事を言う。
 優しい声で、何でも許してあげるからと言うようなそんな優しい声で言われたら、言うまいとしていた事まで言ってしまう。
 この人はいつか目の前から消えてしまうだろう。
 確信のような言葉が頭の中を渦巻いて、でも今だけはやめてくれと心の中で叫びながら、ぎゅうと晴天の服を握り締めて、総輝は言った。
「絵が、描きたい…っ」
 本当に、心の底からそう思うと、叫ぶように告げた。
 晴天の絵が描きたい。


 こんなに衝動的に、抑えられないほどに思ったのは初めてだった。