予想通りというか、その場所に晴天は座っていた。
遠くから見つけた彼は、持っていたスケッチブックの絵を日に翳し、満足そうに微笑んでいる。
「花のよう」なとつけてもおかしくない笑みは、男であれ女であれ、性別の分け隔てなく衝撃を与えるものだろうと思う。
だってこんなに総輝は衝撃を受けた。
描きたいとか、そんな衝動だけでは足りない。全部、そう全部―――何もかも丸ごとひっくるめて、全部見てみたい、描いてみたい、知りたいとそう考えてしまうぐらいには衝撃だった。
自分が綺麗なものに弱いのはもうとっくのとうに自覚済みであったのだけれど、ここまで衝動的なものを感じた事はなかった。
(…ああ、綺麗だ)
すごく綺麗で、描きたい。
この人だけではなく、彼が、羽染晴天が居る全ての場所を、自分の記憶の中だけでなく写し取って残しておきたいとそう心から思う。
そんな事を考えながら踏み出した一歩。
その足と地面に生えた草が立てた音に、彼は振り返った。
「こんにちは」
晴天は笑ってそう告げる。
好きな人に会えるのが嬉しい。
そんな気持ちは知らなかった。もしかしたら知っていたのかもしれないけれど、そうとわかっていなければ意味がない。
好きなのだと自覚してしまえば、もうそれまでとは同じでいられない。
顔を見れば笑みがこぼれ、見ていなくても考えるだけで心まで満たされたような気分になる。
それが昔からあこがれ続けた人なら、尚更だ。
「こんにちは」
同じように総輝も笑顔で答えてくれて、嬉しかった。
自分に流れる時間と同じ場所に居る『橘総輝』はどんな風に笑うだろうか、そんなことも考えて―――戻った時に見られたらいいなあとただそう思う。
「何、描いてるの?」
近くまで来て問われ、隣に座れと言う意味でちょいちょいと手招きながら、その通りに大人しく座る総輝につい今さっき出来上がったばかりの絵を手渡す。
これが俺の絵です、と、なんとなく自分の絵を見せるのが誇らしくてつい笑顔になってしまう。
手慰みで描いたものでも何でも、描いたものは晴天の『全て』だ。
過程やその絵に篭める時間などが違っていても、晴天の絵に対する気持ちは変らない。
だから、総輝に見てもらいたかった。これが自分ですと、これが『羽染晴天』と言う人間ですと、それを知ってもらいたかった。
そしてその真摯な想いは、きちんと総輝に受け止められたと思う。
「うわあ…」
感嘆したような声。そんな総輝の声がうれしくてたまらない。
今はまだ、画家になる事を目指している総輝。
晴天の知っている『画家の総輝』とは違うけれど、その中にあるものは同じだ。同じ人だ。
絵を見ながら、総輝はひとりごとのようにぽつりと『綺麗』とつぶやいた。その感想が、ただ偉そうに言葉を羅列するだけの大人たちよりもよほど、嬉しい。
「よかったら、どうぞ」
目を輝かせている総輝に、何を考えるよりも早く言葉が出た。
笑っていってみせれば驚いたように総輝が振り返る。
「本当に…!?」
「いいよ。…そこまで喜ばれるとなんかこそばゆくて恥ずかしいけど」
「だ、だって…綺麗だし」
「あはは、ありがとう。嬉しいです」
「あ…あ、でも」
「ん?」
もらえるのはとても嬉しいのだけれど、スケッチブックから切り離してしまうのがもったいないと総輝は言った。
「ん? じゃあこれごとどうぞ」
「え!? そう言うわけじゃ…!」
別にかまわないと笑って、丸々一冊どうぞと笑ってみせれば、総輝は慌てて首を左右に振ってみせる。
まだ半分以上白いページが残るそれ。
あげるからそこに絵を描いてと晴天は告げたのだけれど。
「そ、それはダメ!」
思いっきり即答されて、しかもそれが否定だったものだから晴天はがくりとうなだれた。
同じスケッチブックの中、たとえページが違っても、同じそれの中に自分と総輝の絵が存在しているのはどれだけ嬉しいか―――そう思っていたのに。
「…だめか」
「え? あ、え? お、俺何か悪い事…言った?」
「ん? いや、俺が勝手に期待して勝手に落ち込んでるだけ。スケッチブック、いらないの?」
「…えと、ほ、ほしい…です」
「でも残りのページには描かないの?」
白いページのままではスケッチブックが可哀想だ。そう告げれば、そうじゃなくてと総輝は言った。
「あの…こんな事訊くの、どうかとも思うんだけど」
「んん?」
「あの、晴天…は、いつまで…ここに、来ます…か?」
「いつまで…って」
晴天のスケッチブックを抱えたまま、とても言いづらそうに、たどたどしく総輝は言った。
いつまでここに来るか。いつまでって…ええと。
ここに来る事ができなくなるとすれば多分、自分がもといた場所に戻った時だろう。
だがここに来る事になった原因がわからない以上、帰る術もさっぱり検討がつかない訳で。
「…まあ、元のトコに帰る方法もわからないんで。総輝が許す限りは、ずっと?」
かな、と腕を組んで唸りつつそう告げた晴天の言葉に、ぱあっと総輝の表情が一気に明るくなる。そうして、そんな表情に一瞬晴天が見惚れていると、彼は笑顔でスケッチブックを返してきた。
「…え?」
そんな総輝の行動の意味がわからず、晴天は首をかしげる。だが総輝の笑顔は崩れないまま、彼はとても興奮したように、言った。
「あ、あの、あの! もし嫌じゃなかったらで、いいから」
「はい?」
「スケッチブック。いっぱいになったら、下さい!」
晴天の絵で、いっぱいにして、ページの全部を埋めてから、下さい。
まるで勢いあまった告白のような口ぶりで、半ば叫びつつのお願いだった。
ついでにスケッチブックを差し出したまま総輝が頭を下げたものだから、台詞を変えればまるっきりどこかの某集団お見合いバラエティー番組の一幕のようだ。
「あー…ええとー」
状況がよくわからずに口ごもると、総輝が顔を上げて不安そうな視線をよこした。
なんとなくそれが捨てられた子犬のような目で、正視してはいけないような気もしたが、ここで視線をそらせれば総輝がさらに悲しそうな顔をする事はわかりきっているから、それもできない。
「えと、スケッチブック全部に、絵描けばいいの?」
そうすれば受け取ってもらえるのかと確認すれば、こくこくと総輝がすごい勢いで首を縦に振ってみせる。
欲しい、と体全体で表現しているような空気に晴天は多少たじろぎつつも、心の中の半分以上は狂喜乱舞していた。
「なんでも、いい?」
どんな絵でも、何を使って描いてもいいのかと問えば、これまた同じく総輝は首を縦に振って答えた。
その後「ええと」と呟いた晴天は、数秒の間の後に、差し出された自分のスケッチブックを受け取ってみせる。
とたん捨てられた子犬のような目をしていた総輝がまた笑顔に戻って、うわあと思った。
(…なんだコレ!)
正直言って、予想外すぎる。
いや嬉しい。とてつもなく嬉しい。嬉しすぎる。
何せ憧れで、(恋心を自覚したのはついさっきだけれど)大好きな総輝だ。
その彼が、自分の絵を、それも一枚ではなくスケッチブックいっぱいの絵を欲しがってくれている。
(何のサプライズだこれ…もうすぐ死ぬとかそういうフラグじゃないよな…?)
総輝の笑顔のためなら死んでもいいかもしれないとさえ思うけれど、できれば生きてこの笑顔を見ていたいと思うから、そうではないことだけを祈った。
そうしてスケッチブックを受け取り、顔を上げてと促すと、はっとしたような表情で総輝は慌てて手を振った。
「あ、あの、わがまま言ってごめんなさい。ダメだったら言ってもらえれば、諦めるから! 大丈夫だから!」
無理強いをしたとでも思っているのか、総輝は「無理ならいいから」と何度も言う。そんなに必死にならなくてもほしいならいくらでもあげるのに―――そう思いながら、晴天は「はい」と答えてみせた。
「いいよ。いっぱいにしたら、あげる」
笑ったその声に、総輝が嬉しそうな表情をすることがただただ嬉しかった。
好きだなあと思う。彼が好きだ。
ただそれだけで幸せだなんて思うのは初めてで―――だがそれも悪くない。
この想いは叶わないと、この場所で叶えてはいけない想いだとわかっていても、それでもただ、幸せだと思えた。
その時の晴天の顔は、家族にも友人にも誰にも見せた事のないような満面の笑みを浮かべていただろう。