綺麗、という言葉は彼のためにあるんだろうな、と思う。
それは外見の美醜の問題だけではなく、その全てをひっくるめての意味で。
名前の通り晴れ渡る青空のような人だと思う。
自分の知らない、もっと先の時間からやってきた人。
とても信じられないような話だったけれど、見せられ語られた証拠と、嘘を言っているのではないと思える表情のせいで、信じざるを得なくなってしまった。
「…描きたい、なぁ」
その一言を口に出して告げて、慌てて両手で口を塞ぐ。
学校の教室の中、何と言う事もない普通の生徒として学校に通ってはいるものの、総輝はどこか自分が他の生徒たちと違うのだという事は自覚していた。
絵に関して、総輝は異様なほどに固執している。
自分で『描く』事に対しても、他の誰かが創り上げたものを見る事に対しても。
そして一度『描きたい』と思ったものに対して、自分でもぞっとするほどの欲求を覚える事がある。
描きたい、描きたい、描きたい。
そればかりが頭を占めてしまうから考えないように努めていたのに、あっさりとそれは口をついて出てしまった。
羽染晴天。青空のような人。
総輝は空が好きだ。そして目の前に現れた、綺麗な空に、よく似た雰囲気を持つ人。
最初はぼんやりとだったその欲求がたった2日で色濃くなり、そして無意識に口をついて出るほどになっている。
人物を描きたいと思った事はなかった。
風景の一部として、描いたことはあるものの、きちんと『誰か』を対象とした絵を描きたいと思った事はこれが初めてで、総輝は戸惑っていた。
(…なんで、だろ)
その問いが、何にむけてなのかすらわからない。
どうして自分なのか、どうして彼なのか、なんでここに来たのか、なんで、なんで。
普段頭を使わないおかげか、そんな事をひたすら考えていたら頭が痛くなってきて、総輝は机の上にごつんと額をぶつけながら突っ伏した。
「……いたい」
何でだろう。何で、あの人はここに来たのだろう。
総輝の問いかけは、晴天の中にもあった。
何でここに来たのだろう。
戸惑いの大きさで言うのなら、晴天の方が大きかったかもしれない。
今のところ金はあるが、このまま続けば当然なくなる。
道端で似顔絵を描いてもいいが、その収入はたかが知れている。
ゆくゆくの事を考えてみると、居場所がない。
アルバイトをしようにも、履歴書が書けない。嘘を書こうにも、金を振り込む口座がない。住所不定以前に、戸籍も取れない。
こういった場合どうしたらいいのか、晴天には全く想像がつかなかった。
だが。
「…まぁ、どうにも戻れないって事はないだろ、多分」
晴天はふっきってしまえば結構な楽天家であったから、その言葉で不安も吹き飛ばした。
幸いにも一ヶ月ぐらいなら暮らしていけそうな金は持っている。
そんな大金を持っていたのは、『橘総輝』の個展で展示品の販売も行っていると知っていたからだ。
まだまだ駆け出しで若造だが、そこそこ名の知れた晴天にはそれなりの収入があった。
ずっと昔から好きで、それこそ自分の原点である人の絵を―――一枚でもいいから欲しくて、しょうがなかったから。
「…それがこうなるとは、まさか思わねえっつの」
浮き足立って訪れたその個展から、まさか気がつけばこんな時間まで飛び越えた場所にやってくるだなどと誰が想像できようか。
そんな事を考えつつ街中をさ迷い歩き、ふと立ち寄った文具店で、どこにでも売っている、小学生が写生大会で使うような絵具やらの画材一色を買い込んで、結局自分も絵からは離れられないのだなと笑った。
飲み物と少量の食料、それから買い込んだ画材のビニール袋を提げつつ、晴天の足はあの丘に向いていた。
訪れた時間はちょうど正午を回ったところで、当然学生である総輝の姿はない。
大きな樹の前に腰を下ろして、数分ぼうっとしながら風景を眺めて、そしてふと、絵筆を手に取る。
買ってきたミネラルウォーターの水をバケツに入れて、開いたスケッチブックに下書きも何もせずに絵筆を走らせる。
晴天が得意としているのは主に抽象画で、何も考えずに絵筆を真っ白の画面に入れるのが晴天は好きだ。
総輝の絵はそれとは対照的な、風景画が多い。
同じ道を辿らなかったのは、向いていないとわかっているからと、大好きな人の世界を真似るよりも、自分の世界をしっかりと持っていたいと思ったからだ。
もしもその本人に会える事があるなら、恥じる事なく真っ直ぐ向かい合えるようにと。
(…まさかこんな形になるとは思ってなかったけど)
パレットに流し込んだのは青。
一番最初に見た総輝の絵。あの空のように青い絵が描ければいいと思ったから、晴天はよく青を使う。
一面の白の中に青を流し込んで、その濃淡だけで紙の上に世界を描く。
それからまた色を重ねて、重ねて。
好きなように好きなだけ。
「さーいーたー、さーいーたー」
調子っぱずれな鼻歌を歌いながら、ぺたぺたと下のあたりに色をつける。赤、白、黄色、そんな歌詞の通りに色を落として、出来上がるその絵。
はっきりと輪郭がある絵ではなく、晴天の得意とする抽象画であるから、見るものによっては全く別のものに見えるだろう。
「ん、まあまあかな」
出来上がったものを空に掲げ日の光を浴びせながら晴天は笑う。
即席にしてはなかなか。
そんな風に笑った彼に降り注ぐ日差しは、ここに来た時よりもだいぶ西に傾いていて、時計を見ればすでにここに来た時から3時間以上、もうすぐ4時間の時間が経過しようとしていた。
「んん、もうそんな時間か」
道理で肩が凝ったわけだと、体を伸ばしていたら足音が聞こえてきた。
その足音に、自然と晴天の顔には笑みが浮かぶ。
そうして振り返った先には、望んだ通りの姿が見える。
焦るのはもう少し後にしてもいいだろうか。
もう元の世界に戻れずに餓死してもいいから、ほんの少し、今だけはこの幸せを噛み締めてもいいだろうか。
――――俺は、この人が、本当に。
はっきりと、晴天はやってきたその人物への気持ちを自覚する。
憧れだけでは足りない、その気持ちの意味を。
だからもう少しだけ、ここに居る事を許して欲しいと思う。
そうすればきっと、このままこの場所で朽ちて果てたとしても後悔はない。
ああ、この人が好きだ。
自分の一生、その全ての中で一番輝いて見えるのは彼なのだと、そうはっきりわかった。
天才天才と謳われている弟でも、自分でもなく、晴天の中で一番大事なのは橘総輝という名の、この画家なのだと。