――――――――――――――――――― 『夢のかよひぢ』




 ところで、羽染晴天は宿無し状態だった。
 何しろここには居場所がない。いや、ない訳ではないけれどそれは今28歳の自分の居場所ではないのだ。
 どうにも原因がよくわからないが、晴天がやってきたこの場所は18年前らしい。
 コンビニで新聞を買って日付も確かめたから間違いない。
 ここは18年前の故郷だ。
「…なんでこうなったんだ?」
 ここに来る前の状況を思い出しても、漫画やドラマのようなタイムスリップをしてしまうような原因は全く以てなかったと言える。
 何をしていたかと言えば、ただぼっと絵を眺めていただけだ。
(ああ、そういや確か会いたいって思ったんだっけ)
 ああ、会いたいなあ。なんて思っていて。
(けどそれだけでタイムスリップとか…どれだけ奇跡なんだ)
 ただ絵を見て、会いたいと思っただけだ。
 そうして目が覚めたら知らない―――いや、知ってはいたけれど、まさか来れるなんて思わなかった場所に来ていて、そして。
(本当に会えるなんてなあ)
 高校生だった頃に初めて見た絵。それを描いた人に会ってみたかった。
「…まさか自分より年下の本人と会うなんて思わなかったけどなあ」
 本来ならば年上の人に、年上扱いされるのは複雑なものだ。
 見た目はもちろん本に載っていた写真のそれよりも若かったけれど、橘総輝という人は、晴天にとって憧れそのものだった。
 会えたのはとても嬉しい。だが、自分はきっとこの場所に居ていいものではないとも思う。だからとても複雑だった。
「…さてと、とりあえず行きますか」
 とりあえずの問題は今日の宿と着替えである。
 だがその問題もとりあえず色々と考えてみた結果、どうにかなるだろうと検討をつけた。


 羽染の家は広い。
 親族はみな芸術家であり、父も母もその例外ではなかった。
 父は世界に名を馳せる画家で、母はバイオリン奏者。どちらも忙しそうに世界中を飛び回っていて、晴天とその弟である暁はほぼ二人暮しと言ってもいい。
 そして晴天も駆け出しの画家で、弟は天才ピアニストと謳われている。
 もう何年も前から、家の鍵は変わっていない。自分が持っている鍵をそうっと差し込めば、やはりかちゃんと鍵は開いた。
「…自分の家に入るのに泥棒気分ってのはどうなんだろうな」
 今日が火曜なら自分は外に出かけている日だから鉢合わせはすまいと考えて、家に来たはいいものの、なんとなく気まずくて縮こまってしまう。
 あんまりいい気分じゃないなと思いながらドアを開けた先、そこに立っていた人物の姿を見て晴天は固まった。
「…あ、おかえり」
 立っていたのは、8歳の弟だった。
 静かな弟は帰ってきた兄がやたら大きくなっている事にも気づかないのか、平然としている。
「た、だいま」
「いつの間にそんな老けたの?」
「…はぁ?」
「今日火曜だよね? 忘れ物でもした?」
「ああ…まぁ、そんなところだけど」
 あっさり老けたのかなんて問いかけながら、どう考えても体格も声もなにもかも違う男を、それでも兄だと一瞬で認めてくれた弟に、なんだか力が抜けてしまった。
 泥棒みたいだなんて心配していた自分がバカみたいだ。
「…あのな、暁」
「ん?」
 あっさりと自分を救ってくれた、自分にとっては懐かしい姿の暁を見て、ふと何かを言ってやりたい気分になった。
 晴天にとっての『今』の、この時代の弟の18年後の姿の弟は、少し前まであまり笑う事がなかった。
 いなくなってしまった人がいるとそれだけを告げて、親と同じように世界中日本中を飛び回り、探して探して、今はとても幸せそうに笑っている。
「お前、なんか好きな奴とか、居る?」
「…いないけど、なんで?」
「ん。まあ別にたいしたことじゃないんだけどな。もし大切な奴ができたら、絶対諦めるなよ」
 そうすればお前は笑えるようになるよと頭を撫でて、晴天は家の中に上がりこんで、自分のではなく父の部屋に向かった。
「あーあー、やっぱ片付けてねえか」
 ろくに片付けもしていない父の部屋は、スケッチブックで溢れていて、その中にはぐちゃぐちゃにされた紙もある。
 ろくろく片付けもされない部屋の中に踏み入って、目指したのはクローゼット。さすがに10歳の自分と28歳の自分では体格差がありすぎるから自分の服を持っていっても問題解決にはならない。
「じゃあま、拝借していきますか」
 がさがさとクローゼットの中を探って、適当に2、3枚服を選んで鞄に詰める。まあこれだけあればコインランドリーで洗って回していけるだろうと踏んで、部屋を後にした。
「出かけるのか?」
「ん? ああ、まあね」
 家を出ようとして、再度暁に声をかけられた。
 なんという事はない問いかけに、だが晴天は曖昧な表情で、困ったような笑みを浮かべる事しかできない。
「帰ってくんの?」
「ん? ああ、明日になればちゃんとしたのが帰ってくるよ」
「…ふうん。じゃ、ばいばい」
 何を理解しているのかいまいちよくわからない弟は、そんな意味深な返事をして手を振ってくる。
「じゃあな」
 それに同じ仕草でぱたぱたと手を振って、晴天は外に出た。
 金は一応持っているからあとはどうにかなるだろう。
 路銀に困ったら、道端で似顔絵でも描けばいいさと楽天的に考えた晴天の頭の中は、既に明日へと飛んでいた。





 授業が終わってホームルームも終わり、逸る気持ちを抱えながら総輝はあの丘にやってきた。
 駆け上がれば当然息が上がる。肩を上下させながら、口の中に溜まった唾を飲み込んで丘の天辺までたどり着くと、そこには晴天の姿があった。
 足音が聞こえていないのか、晴天は俯いて何かをしている。
 ゆっくりと近づいていくと、スケッチブックが広がっているのがわかった。
 何を描いているのかなと遠目から覗いてみれば、そこには一面の青がある。色鉛筆で塗りたくられたその青がひどく綺麗で、総輝はごくりと喉を鳴らす。
「ん? ああ、こんにちは」
 かさ、と雑草を踏みつけた足音が近くなって、晴天はやっと気がついたようだった。振り向いて向けられた笑顔がまぶしくて、総輝は反射的にかきたいな、と思った。
「こ、こんにちは」
 ぺこりとお辞儀してみせると、何故か晴天は驚いたような感動したような声を出す。
「うわ、制服だ」
「え? あ、学校からすぐ来たから」
 総輝が着ているのはなんてことない空色のブレザーだ。ズボンはよくある灰色で、胸のところには校章が縫い付けられている。
「へえ…うん、いいね」
「いいって」
 それはどういう意味なんだと思ったけれど、こっちに来て座ろうと誘われる言葉に、問いかけは途切れてしまった。
「…? 見る?」
 ちらちらと横目で窺っていた視線に気がついたのか、先ほどまで熱心に書き込んでいたスケッチブックを手渡される。欲求に負けて手にしたスケッチブックには、とても一本の色鉛筆から生み出されたとは思えないほど美しい空があって、ほう、と溜息がこぼれ出た。
「総輝、空が好きなのかな?」
 一番最初の絵も空だよねと問われて、なんで知ってるんだろうと疑問に思いながらもそれは問えず、ただ頷くことしかできない。
「広くて青くて綺麗で。あと、ずっと繋がってるから」
「繋がってる?」
「空には遮るものがないでしょう? 海の水はどこかで途切れている場所があるけど、空はずっと繋がってるから」
 だから好きなんだと笑って、総輝は描きかけの絵の表面をさらりと指でなぞった。
「きれいだなあ」
「…そう? 総輝が書いたやつの方が、綺麗だと思うけどなあ」
「自分で描いたのは…よくわからない」
 綺麗だと褒められて、嬉しくて嬉しくて描き続けてきた。でも、それが他人にとって綺麗かどうかとなると、よくわからない。
「綺麗だと思いましたよ、少なくとも俺はね」
「え…?」
「説明するって、いっただろ? 変だと思ったこと、全部聞いていいよ」
 おかしいと思ったことはないかと問われて、ずっと思っていた疑問があふれ出した。
 何を聞かれても答えるから、お好きにどうぞと笑ったその顔が綺麗に思えて、また思う。
(きれいだなあ…描きたいな…)
 ふっとよぎった言葉は、しかし「ん?」と首をかしげた仕草と声に阻まれる。そうして言われた言葉を思い出して、総輝は問いかけていた。
「あ、の…俺の事、知ってる?」
 それまでの疑問を総括すると、そういう事になる。
 そうして問いかけた声に、晴天はどきりとするほどに綺麗な笑みを浮かべた。
「はい。知ってます」
 返ってきたのは肯定の言葉。ああやっぱりという言葉と、どうしてという言葉が同時に浮かんだ。
 だがそれを問いかけるよりも早く、晴天が口を開く。
「これからする話。多分きっと、誰にも信じてもらえない話だと思うけど、聞く?」
「…それが、何か関係あるなら」
「うん。じゃあ話そうか。まず俺は、28歳です」
「はい」
「で、今。ここに居る俺は28歳だけど、本当は10歳じゃなくちゃいけない」
「…?」
 何で年齢の話をされるんだろうと思っていたら、初っ端から理解できなくなってきた。
 どう言う意味だと首をかしげていると、彼が服のポケットをごそごそと探して見せてくれたのは免許証。
 確かにそこには、自分よりも6年後の、今ここに居るのであれば10歳でなくてはならない生年月日が記されていて総輝は目を瞠った。
「…え?」
 なんだこれ、と驚いた声を上げれば、実は俺もおどろきましたと同意してくる声が聞こえる。
「まあつまり、要約すればタイムスリップしてきたみたいで」
「…え?」
「こんな話誰も信じちゃくれないと思うんだけど、まあ本当なんですよ」
 確かに、こんな免許証を見せられたからには信じない訳にはいかないような気もする。大体こんなおかしな免許証を偽造したってなんの得にもならないじゃないか。
「じゃあ…未来、のひと?」
「まあ、そうなるかなあ。なんでこうなったのかはわからないけど」
 困ったもんだねと笑う晴天の顔は、ちっとも困っているようには見えない。現状を楽しんでいるような雰囲気さえあって、よほど楽観的な人なのだろうなあと総輝は思う。
 総輝がそんな状況に置かれたら、きっと途方に暮れて笑ってなどいられない。どうしようどうしようとそればかりで。
「で、でも…なんで俺のこと…?」
「うん? ええと。総輝は自分の未来を想像した事ってある?」
「…え?」
「想像じゃなくて、夢でもいいよ」
 何になりたいとか、そういうの。と言われて思いついた事はひとつだ。
「えと…絵を、描いていられればいいなって」
「はい、正解」
 ふっと笑った晴天の声に、何が正解なんだと首をかしげた。
 漠然と抱いている自分の夢。声に出してみるとなんだかひどく恥ずかしいような気さえする。
「『橘総輝』を初めて知ったのは、16の頃でした。小さな展覧会の、隅に一枚、絵があって」
 何故かその絵ばかりが気になって、気がつけば何時間も、それこそ閉館の時間になるまで眺め続けていた。それが総輝の絵で、以降彼は、総輝の絵ばかり眺めて生きていたのだとそう語る。
「初めて見たのは、街が鏡みたいで、空を映し出したような絵。次に見たのは、大きな木の下で、誰かが寝てるやつ。次は―――」
 いつ何の絵を見たのか、晴天はにこにこと語ってくる。その殆どに覚えがって、総輝は一気に茹で上がったように顔を赤くしながら、口をぱくぱくと、餌をねだる魚のように開閉させた。
「だから、橘総輝さんは俺の憧れだったんだ」
 本当に嬉しそうに、晴天は語る。
 一番最初に驚いたのも、この丘からの景色を見てはしゃいでいたのも、全部が全部、総輝の絵に関わる事だったからだと言われて、恥ずかしい以上のものを感じて総輝は真っ赤になる。
 茹ダコのような顔色になっているだろう自覚はあって、ひどく熱い体温で死んでしまうのではないかと思ったほどだ。
「ここに来る前にも、初めて開かれた個展の会場に居て…だからかな 、総輝に会えたのは」
「なに、それ」
「会いたいなあって思ってたらここに居た。神様ってやつを信じてみたくなったよ」
 すごく嬉しい、と言ってくる晴天に向けて、どんな表情をしたらいいのかわからない。ただとてつもなく恥ずかしくて、いたたまれない。両手で顔を塞いで、しゃがんで縮こまってしまいたい気分で、だがそれもできずにただただ総輝は固まるだけだ。
「俺の話は信用しなくてもいいけど」
「え、あ…し、信じる、よ!」
「そう? それは嬉しいな。で、俺帰れるかどうかよくわからないので」
 もしよければ、もう少し会ってもらえませんか。あなたともう少しだけ話がしたいです。
 彼の名と同じく、晴れ渡る空のような笑顔を浮かべた晴天の顔に、総輝は一瞬見惚れた。綺麗だなあ、描きたいなあ。
「…お返事は?」
「あ、ええ、はい。だいじょうぶ、です」
 と言うよりも自分こそが話をしたいと思った。
 未来から来たとかそんな事よりも、きれいできれいでとにかく―――見ていたいと思った。
「じゃあ俺ここに居るから、時間が空いたときに来て下さい」
「…え、でも」
「ここの景色気に入ったから、俺も描きたいなあと思って。ああ、だめならやめるから」
「そんなことない、けど」
「そう? じゃあ、時間が空いたら、ここで」
 約束、と小指を差し出されて同じ指を返す。
 嬉しそうに子供のような約束を交わして、あとは2人で絵を描いた。
 色鉛筆しか持っていないという晴天は、それでも美しい絵を描いていて、ただただ呆気にとられた。
 そんな絵を描く人が、自分にあこがれているなんて、実感がわかないままただ、綺麗だなあという言葉が頭の中を支配する。