目 次 | ||||
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顕彰編(称うべし、この栄光の名) | ||||
第1回 | (いな・はんざえもん・ただのぶ) 伊奈 半左衛門 忠順 | 生年不詳 〜1712年4月4日 | 日本・武蔵国出身 | Wikipedia |
第2回 | (りょうげん) 良源 | 912年 〜985年1月31日 | 日本・近江国出身 | Wikipedia |
断罪編(刻むべし、この罪人の名) | ||||
第1回 | (おおだち・しげお) 大達 茂雄 | 1892年1月5日 〜1955年9月25日 | 日本・島根出身 | Wikipedia |
顕彰編(称うべし、この栄光の名) | |||||
第1回 | (いな・はんざえもん・ただのぶ) 伊奈 半左衛門 忠順 | 生年不詳 〜1712年4月4日 | 日本・武蔵国出身 | Wikipedia | 書籍等 |
関東地方の幕府直轄領の民政を司る『関東郡代』の五代目(実質七代目、このあたりはwiki参照)。関東郡代の職は伊奈家が代々世襲しており、忠順もこの重職を兄から引き継ぐ。世襲といっても単なるコネではなく、この時代、民政・治水といった技術的熟練が必要とされる仕事の技術はこういった形でしか引き継ぐことができなかったのである。 代々、治水に大きな功のあった伊奈家の者として、1698(元禄11)年には、深川に当時最大規模の木造橋である永代橋を架橋する。 1707(宝永4)年、富士山が噴火し、小田原藩領酒匂川流域が火山灰で埋没すると、幕府はこの一帯を幕領に切り替え、酒匂川の砂除川浚奉行として伊奈忠順を派遣する。 酒匂川の砂除は(勘定奉行の荻原重秀が、復興資金として諸藩から集めた資金を幕政に流用したり、懐に入れたり、頭越しに下請けの民間業者を選んだりして足を引っ張るので)必ずしも成功とは言いがたかったが、一方で、旗本クラスとしては稀なことに、被災地をその足で丹念に巡検し、農民と直に接してその苦境を確かめ、少ないながらも困窮した農民に米を配給し、砂除けの実績に対して手当てを出し、火山灰で農地を失い酒匂川の工事現場に人夫として出稼ぎに来た遠方駿河の農民に対して労賃を増額する(いわば交通手当て支給)などの丹精な復興行政を行う。 1712(正徳2)年、在職のまま(おそらく40歳ほどで)死去。富士山噴火とその後の苦闘を書いた新田次郎の『怒る富士』では、幕府の米蔵を開いた咎により切腹したとされている。これを事実とする確たる史料はない。しかし、伝承はある。行政官としての使命につとめ、志半ばで斃れた伊奈忠順を讃える伝説として相応しいものであろう。 明治になると、足柄・御厨地方では遺徳を忍び伊奈神社を建立、大正時代には従五位下に叙せられる。 農民に対しても誠実に対応してきた良吏というべき人物である ――『富士山宝永大爆発』より | |||||
第2回 | (りょうげん) 良源 | 912年 〜985年1月31日 | 日本・近江国出身 | Wikipedia | 書籍等 『王都妖奇譚 5』 |
10世紀、平安京、オカルト、とくれば、誰もが安倍晴明を連想するだろう。しかし、晴明や賀茂保憲のいた平安末期は特殊な時代で、奈良時代から江戸時代にいたるまで、日本のオカルトの主役は(修験者などを含む)仏法僧であった。 晴明の時代、“そっち系”で名の知られた僧としては、浄蔵・良源の二人の名を挙げることができる。浄蔵は夢枕獏・岡野玲子の『陰陽師』(小説版・漫画版とも)で、良源が岩崎陽子の『王都妖奇譚』で、晴明とも共演を果たしている。 『王都』における良源は、長い眉を持ち、鬼の面をかぶった異相の人物として描かれている。なぜかといえば…原因は、コレである。鬼の姿に長い眉、元三大師降魔札。病魔を打ち滅ぼすために自ら鬼と化し、弟子にその絵姿を書かせたものだそうな。他にも、イケメンで宮中の女官が騒ぐので鬼になって参内した(いいのかよ)、観音菩薩の化身なので33体に分身するといった、徳の高い坊様とかいう次元を超えた伝説を残している。 こーゆー伝説が残った理由として、私はこの人が「外回りの現場担当」から、天台宗最高位の天台座主まで登り詰めたことに注目している。さほど高くない身分と、わりと傍流の法脈(師、理仙は良源の得度前に入滅)から、加持祈祷を行ったり、奈良の教団相手に論争(*1)をしたりという功績を朝廷(というか藤原氏)に認められ、966年、第18代天台座主に任命された。就任早々、叡山で火災が発生するが、新座主良源は混乱を収拾し、親しい藤原氏から献金を集め、迅速な復興に成功した(*2)。僧兵が神輿をかついで強訴(というか脅迫)をする悪習を正し、宮中と密接に結びついて堂門の拡張につとめるなど、その功績から比叡山中興の祖と呼ばれる。座主の地位についてからも、横川の僧房で天台教学の充実に尽力。弟子に『往生要集』を記した源信(恵心僧都)など。鎌倉新仏教の開祖5人(一遍をのぞく)は比叡山で学びその恩恵を受けている。 永観3年睦月の3日(見出しの日付はユリウス暦)、遷化。朝廷からは慈慧の諡号を受ける。大師号は実は僭称らしい。命日から元三大師と呼ばれ、お札や木像が作られた。関東でいえば深大寺や佐野厄除け大師などは、仏陀や菩薩よりも元三大師良源個人を信仰する寺と言った方が近い(大師を通じて仏と近づくというアプローチが悪いとは言わないが)。 また、御御籤の祖とも言われる。彼の名を冠した『元三大師百籤』(ホントに良源が作ったとは思えぬが)は、五言絶句をもって判別の助けとし、恐ろしいことに凶が3割も入っている。 *1 天台宗は、選ばれたものだけが仏になれるという奈良の旧仏教に対して、悉皆成仏――誰でも仏になれるという立場を取っていた。 *2 ちなみに比叡山と並び称される高野山は、994年夏、例の落雷炎上事件の後、復興できず荒れ寺と化す。 | |||||
断罪編(刻むべし、この罪人の名) | |||||
第1回 | (おおだち・しげお) 大達 茂雄 | 1892年1月5日 〜1955年9月25日 | 日本・島根出身 | Wikipedia | 書籍等 |
童話『かわいそうなぞう』のある意味主役。 内務官僚で、1943年7月、東京都が設置されると初代東京都長官に就任(戦前の地方自治体首長は内務省主導の任命制だった)。肉食動物・大型動物の殺害命令を出す。仙台動物園への疎開措置の準備も為されていたにも関わらず、それを蹴飛ばして殺害命令を出したのは、軍ではなく、元内務官僚・東京都長官大達茂雄一個人の独断である(1)。なお、京都動物園では、殺処分は取られておらず、大阪でも上野に較べると範囲は少なく設定されている(2)。 その後、小磯内閣に内務大臣として入閣。 終戦後は公職追放されるが、地元島根県から参議院議員に当選。元内務官僚・内部大臣の分際で、第五次吉田茂内閣に、よりにもよって文部大臣として就任。文部省内には、内務省―宗教右翼―ヤクザ系のゴロツキ右翼に連なる一派が存在するらしいのだが、その原点に近いところにいるのがコイツである。 文部大臣時代には「戦争裁判は野蛮人のすることだと思う。食人種の部落の喧嘩で勝った方が首祭りをするようなものだ」などと発言したそうである(3)が、もしも大日本帝国が戦争に勝っていたならば、内務官僚として共産党員などの虐殺を指揮した時と同じように嬉々として「首祭り」に興じていたことは間違いない。 何でも悪いことは軍隊のせいにして、己の口を拭い、戦後も羽根を伸ばしてぬくぬくと生き延びようとした風潮のなせる業だろう ――『もう一つの上野動物園史』より |
更新履歴
2007,01/16 断罪編第1回 大達茂雄
2007,01/17 顕彰編第1回 伊奈忠順
2007,01/25 顕彰編第2回 良源
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