明治時代の人々について
明治の人間たちを、山田風太郎は化物と呼んだ。幕末維新と近代化の波を乗り越えてきた明治人は人物・功罪・善悪ともに馬鹿でかく、偉人とかいう通り一遍の解釈では上っ面を撫でたことにすらならない。
このなんとも捉えきれない化物どもの思想や立ち位置を大雑把にでも理解するために、彼らを『伝統系』『イギリス系』『フランス系』『ドイツ系』の4つに大きく分類するという方法を提案したいと思う。
『アメリカ系』という区分は存在しない。アメリカの社会は“イギリス的な文化”と“フランス的な理念”が掛け合わさってできたものだから、アメリカの影響を受けた人は、大多数を占めるイギリス系の功利主義者と、比較的少数のフランス系の原則論者に二分することができる。
各区分の特徴と代表的な人物を挙げるとだいたいこんな感じになる。
・伝統系(保守主義)
日本の伝統を重んじ、社会の欧化は必要最低限に抑えるべきだという人々。
「国粋系」と「儒教系」に分けることも可能だろうが、日本の思想・文化から大陸の影響を引っぺがそうという本居宣長や平田篤胤など国学者の努力にも関わらず「国粋系」の思想から儒教の影響は抜きがたいのでここでは一緒くたにしておく。
天皇を中心とした儒教的序列社会という500年も前に時代遅れが証明されてる(建武の新政)思想を振り回す元田永孚のような正真正銘の反動主義者もいるが、民力休養を唱えて軍備拡張に反対し足尾銅山鉱毒事件を堂々糾弾した谷干城のような立派な農本主義者もいるので一概には侮れない。
・イギリス系(功利主義)
経済活動を重視し、民間主導で近代化を行うべきだという人々。
福澤諭吉、大隈重信と、教育に力を入れる例が多い。対外政策は当然軍備ではなく外交重視となり、大隈のほか、井上馨、渋沢栄一のように、経済のみならず外交にも力を注いだ例が多く見られる。
政治思想としては比較的穏健な者が多く、大正以降、多くは官に擦り寄り独立精神を失う。
・フランス系(普遍性重視)
法や人権などの普遍的なモノを近代化の基盤とするべきだという人々。
「原理原則」を重視し、政府の恣意的な政治を否定する。
法を重視する法治主義者として江藤新平・井上毅。人権と民意を重視する民主主義者として中江兆民をあげることができる。
キリスト教を根拠に平等主義と平和主義を貫いた内村鑑三は、先に述べた「米国産原則論者」の典型だろう。
そのラディカルな傾向ゆえに変化を嫌う日本人に受けいられず、また正反対の思想のドイツ系が支配することになった大日本帝国では、その影響力は小さかった。
・ドイツ系(中央集権)
強力な指導力を持った政府による合理的な政策が近代化に不可欠だという人々。
代表的な人物としては伊藤博文、山縣有朋など。模範はプロイセン、政策としては富国強兵。特に思想というほどのもののない人々(歴代首相で言えば黒田清隆や桂太郎あたり)も概ねこの路線に引きずられることが多く、明治政府は結局のところドイツ系の精神で運営されたといえるだろう。
幕末明治の人物は、この4つの分類とその組み合わせで、大雑把な志向はつかめる。
たとえば坂本龍馬は、経済重視である一方で、政治思想としてはかなりラディカルな民主主義者。
森有礼なら、本来的には米英系の合理主義者で、民間経済の発展のために商法講習塾(のち一橋大学)なども作っているが、普通教育の迅速な普及のために(手段として)国家主義に傾いたと見ればいい。
軍事思想においても、国粋・米英・仏・独の4分割の考え方はわかりやすい。
陣地防御か機動作戦か、白兵突撃か火力集中か、という二択を二つ重ねて4分割してみると、フランス式陸戦ドクトリンは『陣地防御+白兵攻撃』、ドイツ式陸戦ドクトリンは『機動作戦+火力集中』、イギリスの陸戦ドクトリンは『陣地防御+火力集中』となる。
日本陸軍は、半端にフランス系を学んでからドイツ系に移ったので、『機動作戦+白兵攻撃』と最低最悪のおぞましいドクトリンを掲げることになってしまった。これに大和魂とかいう根拠のない精神主義を組み合わせると、バンザイ・アタックの出来上がり。
フランス式陸戦ドクトリンというと軽んじられがちだけど、熊本城の谷干城(土佐はフランス系の巣窟です)、黒溝台の秋山好古(フランス留学経験あり)は、明らかに陣地防御の勝利(黒溝台は火力集中もがんばっていたが)。このあたりをきちんと経験として吸収していれば、ブルドーザーってなんですか? なんてこともなかっただろうに。
投入できるリソースと時間の限られていた明治において、『ドイツ系』の中央集権政策はまずまず妥当であった。しかし、(明治日本に倣って開発独裁という手法をとった多くの国々がそうであるように)日露戦争以降の「発展の配当を国民に還元するべき段階」になって迷走を始める。
政府は中央集権・富国強兵以外の価値観を持たなかったし、それ以外の価値観を持つ人間を理解しなかったから。1910年の伊藤、1912年の明治帝の死去により、中央集権を、独立維持と近代化の手段として採用した人間は山縣以外死に絶え、中央集権・富国強兵は、『一時的な手段』から『当然の常識』に変わる。さらに1922年の山縣の死以後、軍は政治や外交に無制限に介入を行うようになる。
何が足りなかったのか、どうすれば避けられたのか。
答えは簡単。国粋系・ドイツ系の国家主義者の勢力が強すぎ、それに対置するべき勢力が弱すぎたこと。
フランス系は排斥され、イギリス系でガッツのある奴は襲われ(例:浜口雄幸、犬養毅、牧野伸顕)、残りはヘタレて膝を屈するかむしろ積極的に軍部・官僚に国を売りつけた。
1928年6月4日から1945年8月15日までの17年間のはた迷惑な迷走とその終焉は、普遍的な理念を徹底して排斥してきた国の当然の末路。戦後においても(イギリス系の)吉野作造がマンセーされる一方で、(フランス系の)中江兆民などは明らかに軽んじられている。
理念の回復……というフレーズが浮かんだが、実際のところそれは正しくない。
日本に、個人や小集団の範囲を超えた理念なんてものがあった試しがないからだ。
中江兆民はこう言っておる。「我日本古より今に至る迄哲学無し」
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