虚構史学研究所

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2007

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EuropaUniversalisII AGCEEP
ポーランド・リプレイ

ゲーム設定本文目次
シナリオGrandCanpain(1419-1819)序文神の遊戯場
プレイヤー国ポーランド1419-1492煉瓦のポーランド
難易度普通1492-1548黄金の世紀
AI攻撃性普通
目標プロイセン・オーストリアの滅亡
禁止事項イベントファイルの先読み
開戦理由のない宣戦布告
リトアニアへの敵対行動
EU2バージョン1.09
AGCEEPバージョン1.51 Base Version

序文:神の遊戯場

 ポーランドは不幸な国である。
 現在ではカトリックの国として知られるポーランドだが、そもそもこの国には正教徒やユダヤ人と共存していく宗教的多様性があった。また、貴族や都市に自由を認め(結果として農奴の扱いは過酷となったが)、王の恣意的な国家運営を認めなかった。それら自由を尊ぶ気風が、王権の確立の失敗に繋がり、中央集権国家有利のこの時代、ポーランドの衰退と滅亡を招いたのだから、遅れた国というよりも、むしろ“早すぎた”不幸な国ということができるだろう。
 中欧と東欧の境界あたり、だだっ広い北ヨーロッパ平野に位置するこの国は、常に侵略者の通り道となってきた。中世末から近世、果ては近代にいたるまで、縄張りを広げ鮮血にその顎を濡らすことを喜びとする狂犬民族ドイツ人と、暖かな土地を求めて人里に下りてくる羆民族ロシア人は、ポーランドの国土に対して野心を隠すことなく、18世紀には、この狂犬と羆の野合により、地図から消えてなくなることとなる。

 このAARでは、そんな不幸な歴史を辿ったポーランドに、その悲劇的運命を回避させることを目標とする。
 具体的には、まず生存。次いで流浪の身から拾ってもらった飼い主の手を噛むどころか骨も残さず食らい殺したプロイセン(ドイツ騎士団及びブランデンブルグ)と、オスマン・トルコの脅威と共に戦った友邦から浅ましくも領土を掠め取りやがったオーストリアの滅亡。ロシアに対しては、ポーランドの振る舞いもよき隣人のものとは言いかねたので、スモレンスクの向こう側に留まっていてくれる限りは敢えて事を構えたりはしないでおこうと思う(生産力3とか4とかの、しかも正教の土地を相手にしてられるか! というのが本音である)
 難易度普通、侵略性普通。AGCEEPは弱腰推奨だそうだが、こっちから宣戦・侵略でBBR上がるのがイヤなのと、ドイツロシア犯罪的民族性…ええと、ドイツロシアの領土拡張欲を再現するため。
 イベントファイルの先読みは禁止で、AGCEEPらしいゲーム的に理不尽なイベントが起きるたびにあれこれブーたれるのも楽しみのうちにしようと思う。

1419-1492:煉瓦のポーランド

-1419 ゲーム開始まで
 統一国家としてのポーランド(そんなものがあるとすれば)のかたちを作ったのは、大王と称されるカジミェシュ3世(Kazimierz III,在位:1333-1370)である。
 対外的には、ドイツ騎士団やボヘミアなど周辺諸国との外交につとめる一方で、政戦両面から東方ウクライナに進出することに成功し、国内政策においては、王の名の下に国法を布告して貴族の権力濫用を抑止、各地で迫害されていたユダヤ人を保護し、首府クラクフに大学を設立するなど、ポーランド王国の体制を一手に作り上げることに成功した。
 大王の甥でポーランド王国を受け継いだハンガリー王ラヨシュ1世(Lajos/Ludwik I,在位:1370-1382、ハンガリー王としては1342-1382)は、一時ヴェネツィアからダルマティアを奪う(AGCEEP開始時点でヴェネツィアが奪回戦を行っている)などハンガリー王としての活動に重きを置き、ポーランド王として特に何かをすることはなかった。
 ラヨシュには息子がなく、二人の娘がそれぞれハンガリーポーランドを継ぐ。ポーランドを受け継いだ女王ヤドヴィガ(Jadwiga,在位1374-1399)は、リトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語化してヤギェウォ)と結婚し、ヤギェウォヴワディスラフ2世(Władysław II Jagiełło,在位:1384-1434、リトアニア大公としては1377-1381,1382-1401)として即位した。
 ヤギェウォリトアニアヴィタウタスに預ける(ヤギェウォと大公の父を争ったケストゥティスの子…太っ腹である)と、ともに、既にキリスト教の布教者というより単なる略奪集団と化していたドイツ騎士団を討伐(1410年、タンネンベルクの戦い)、しかしハンガリーなど周囲の介入によりダンツィヒなど失われた領土の回復には失敗し、1419年のゲーム開始に至る。

1419-1426 騎士団討伐
 さて。ゲーム開始時点の状況を見てみる。(画像)
 ポーランドの領土は5州(ガリツィアのみ正教州)、加えてマゾヴィア・モルダヴィアを属国とし、マゾヴィアリトアニアと同盟を結んでいる。同盟主がリトアニアってどういうことよ。
 内政は内陸国だから当然だが陸軍重視で、とりあえず野戦の士気にだけは困ることはなさそうである。おそらくこれからイベントでどんどん貴族中心・地方分権・保守主義・農奴制の方に傾いていくのだろうが。
 貿易レベル・インフラともに0。周囲のドイツ人諸国家がいきなり徴税所を立ててる横でインフラ整備から始めなければ腹立たしい限りだが、大王の遺産か、英主ヤギェウォの治世の成果か、500デュカートのまとまった金を持っているのはありがたい。

 以上のような状況を踏まえて、当面の方針を考えよう。
 まず、属国モルダヴィアは切り捨てることにする。正教国で友好度が-2では、友好度を保つための金がかさんで仕方がない。オーストリアと戦ってくれるかもしれないトルコと事を構えたくないし。
 ダンツィヒを係争地としているドイツ騎士団は4州(ポズナニ西方のキュストリンもドイツ騎士団領)を保有しており、さらに3州とCoTを有するリヴォニア騎士団を属国としている。騎士団領はすべて要塞度2である。友好度はなぜか高い。
 最初の標的は騎士団なわけだが、初期の兵25000を生かしていきなり攻めるべきだろうか。しばし考えた後、とりあえず徴税所の整備を待つことにした。建設中にちょっかいをかけられて金50を無為に失うのが惜しい。

 1419年、リトアニア、ボヘミアと婚姻を結ぶ。リトアニアからは婚姻を結んだ直後、属国になれと言われる。ヴィタウタス、冗談が過ぎるぞ。8月にはフス戦争が発生するが介入する意思はない。
 1420年、能力と幸運に恵まれなかった神聖ローマ皇帝(ハンガリー・ボヘミア王)ジギスムンドとフス派を支援しないという条約を結ぶ。主敵はドイツハンガリーではないし、フス派に義理立てする意味もないので。タンネンベルク後のような介入はこれで防げるな、よし、という脳内設定。
 1421年、無駄に高い友好度を侮辱で下げてから開戦。軍を3分割して、キュストリン・ダンツィヒ・プロシアへ。歴史イベントで、領主裁判権の徹底を求める貴族の要求があったが、全面的に認めると農奴制が上がるので一部を制限する。反乱軍を一蹴して進撃開始。
 プロシアを包囲するとリトアニアが大軍を率いて押し寄せてきたので、消耗を避けてメーメルへ。
 1422年5月、占領していたキュストリンがいきなりブランデンブルグ領に。占領下の土地を売る? それを買う? ふざけるな! ブランデンブルグに宣戦布告したいと思うが、開戦理由がない。AGCEEPは不思議ワールドである。
 1423年には、ドイツ騎士団領を全て占領する。とはいえ、首府プロシアのみはリトアニアに取られたので、ダンツィヒとメーメル両方という要求は受け入れられない。より多くの勝利ポイントを得るため、リヴォニア騎士団領へ侵攻を行う。たびたびダンツィヒやるから講和しろという使者が来るが蹴っ飛ばす。無駄と知りつつ両方遣せという要求を行う。
 リヴォニア騎士団の首府クルラントは既にリトアニアに押さえられていて、こちらの到着も待たず陥落する。要塞レベル2・港湾の補給・厳冬・同盟二国の援軍テロに苦しみながら、1425年までかけて残り2都市を攻略した。
 あとは同盟主リトアニア次第である。なにやらプスコフと揉めたりでいろいろ忙しかったらしく、義弟ウィスタウスの裁定は1426年にもつれ込んだ。リヴォニア騎士団の2州(リヴラントとエストラント)とダンツィヒをポーランド領とし、ドイツ騎士団リトアニアの属国となるというものだった。前世紀以来の係争地であるダンツィヒを回復したことで、イベントによりダンツィヒの文化はポーランドに変化(というか復旧)した。
 リヴラントの貿易センターを確保したことで、ポーランドの収入は大きく増大した。とはいえ、この貿易センター、あまり寿命は長くなさそうなので、大きな期待は禁物である。
 なお、この戦争中に、ポンメルンと婚姻を結び、マゾヴィアリトアニアから通行許可を得ている。

1427-1446 小休止
 1427年の年始の時点で、BBRは3.8まで増大していた。やみくもに戦争を行うことはポーランドの望みではないので、しばらくは大人しくしておくことにする。ダンツィヒでは船が3隻同時建造できるので、リヴランド・エストラントと合わせて海軍を建造する。ガレー船12隻、次に騎士団と戦う時の海上封鎖用だ。しかしながら、リトアニアドイツ騎士団を同盟に参加させたので、実用の機会があるかは分からない。皇帝ジギスムンドのハンガリーと婚姻を結び、南を安定させる。
 1429年、ルーツクの会見、聞いたことのないような歴史イベントだが、要するにリトアニア大公ヴィタウタスに王冠を与えるか否か、という話らしい。たとえポーランド王の王冠を与えてでもヴィタウタスを王にする、というのがポーランド王ヤゲローの立場で、敢えて押し切ると、ポーランド貴族の反対によって、安定度が下がり反乱リスク+5が48ヶ月。
 ポーランドリトアニアは不可分。盟友ヴィタウタスを王に! 上等だ、貴族ども、受けて立とう!

 といっても、安定度はすぐに回復したし、反乱はイベントによるモノ1つだけだった。30年末にはリトアニア大公ヴィタウタスが死去、以降リトアニアポーランドへの従属を強めていく…はずである。気がつけばハンガリーがトルコにほぼ全土を侵されている。31年、トランシルヴァニアとバナトを割譲して講和。被害が少なくてよかったね。今回はオーストリアが主敵のひとつなので、トルコの伸張は大歓迎である。
 34年、ヤゲローが死に、ブラディスワフ3世(Władysław III)が後を継いだ。36年、リトアニアを中心とする同盟が期限を満了、即刻、ポーランドを盟主として再編する。
 37年、ガリシアの改宗に成功。これで全領土がカトリックになる。
 同年、ハンガリー王にしてローマ皇帝ジギスムントが死んだ。ジギスムントの娘婿で、ハプスブルグ家のアルブレヒト(Albrecht)が、ハンガリーと、フス戦争が片付いたばかりのボヘミアの王冠を手に入れる。ボヘミアはオーストリアの属国となり、ポーランドから婚姻していた姫は突っ返される。しかし宣戦布告とかはできないらしい。数年後、気がついたらボヘミアの属国は解除されていた。
 アルブレヒトも39年には死に、ポーランド王ヴワディスワフ3世フニャディ・ヤノーシュなどハンガリー貴族により、ハンガリー王に推挙される。といっても友好度が上がるだけで併合も属国化もできない。一方、ジキスムントの娘でアルブレヒトの妻エリザベートは妊娠中の身でハンガリーの王冠を持ち逃げし、生まれた子供ラディスラウスが正当な王だと主張する。ハンガリー西部で反乱発生、全てフニャディに粉砕される。
 ポーランド王ヴワディスワフ3世ハンガリー王ウラースロー(Ulászló)になってしまい、ポーランドの君主は摂政Zbigniew Olesnicki。って、誰だよ。無能じゃないから別にいいけど。
 この頃、ポーランドはたらたらとモスクワに友好の使者を送っていた。

 1443年、ハンガリー王ウラースローはトルコに対する十字軍を決行。オーストリア・ボヘミアとともに対トルコ戦を開始。ところがこの戦争は史実同様連戦連敗、ボスニアの独立から同盟は瓦解しウラースローも死んでハンガリーの君主は全能力最低の無政府状態になる。ルテニアをアルバニアに(!)、クロアティア・マロス・ブジャク(モルダヴィアから奪っていた)をトルコに奪われ、あわれハンガリーは弱小国家へ。ごめんね、ヘボい国王送っちゃってごめんね。その後、ハンガリーの君主は陸軍司令官(摂政)にかわるが、これもなんか能力赤いし。
 せっかく友好度が高いのだから、同盟瓦解の時に誘っておけば属国化できたな、と思っても後の祭りである。

1447-1492 カジミェシュ4世の時代
 ハンガリーを食い滅ぼしたろくでもない国王の時代が終わり、大王の名を受け継ぐカジミェシュ4世(Kazimierz IV 在位:1447-1492)の時代がやってきた。
 国庫には500デュカート、BBRは0。そろそろ戦争の季節だということで、ブランデンブルグとその同盟者ボヘミアに、「警告」をかけて網を張っていると、リトアニアが都合よく戦争を運んできてくれた。ま、リトアニア大公も同じカジミェシュ4世なんですが。
 まずは、ゲーム開始早々、ポーランドの属国の立場を拒絶したはいいものの、ハンガリーに殴られ、一州限りの属国にされていたモルダヴィア。リトアニア軍にあっという間に征服され併合された。
 モルダヴィアを併合した翌月、リトアニアはクリミアに宣戦布告する。あんな遊牧民のパオしかないとこ取っても仕方ないし適当に和平しちゃおうと思いつつ、宣戦布告に付き合う。
 すると、それで隙ができたと思ったのか、モスクワの同盟国で属国のトヴェーリがケンカを売ってきた。
 モスクワとの友好度を上げていたところだが、宣戦布告の相手はあくまでトヴェーリなので、下がる安定度はロシアとの婚姻破棄の-1だけである。
 リトアニアがクリミアに手に入ったばかりのモルダヴィアを奪われるものの、とにかくクリミア戦が終わったので東部戦線に集中。冬季損耗に耐えながら、一歩一歩占領地を拡大すること3年間。リトアニアトヴェーリを併合し、ポーランドはインゲルマンラント(後にペトログラードが立つあたり)を奪い、ロシア人をバルト海から締め出すことに成功した。(画像)
 1452年1月、貴族の地方集会を認めるかという選択イベントがある。この集会が王権を弱め、周辺諸国に付け入る隙を与えることになるのだが、リヴラントの貿易センターがダンツィヒに移転するとかいう付帯効果がここは従っておけという感じを漂わせているので従っておく。
 1458年、マゾヴィアを併合。下がったリトアニアとの友好度を回復するために、予算をかなり手荒く吐き出す。

 1461年。リトアニアモスクワとの友好関係を回復し、東方を安定させたところで、貴族どもが独自にブランデンブルグと通じていることが発覚した。
 ブランデンブルグの同盟者は、同盟主ハノーヴァー・メクレンブルグ・バイエルンのドイツ諸邦と、ノルウェー。一方こちらは、ポーランドリトアニアに加えて、南ドイツのプファルツが同盟に加わっている。
 開戦と同時に、(本来ならとっくにポーランド領になっているはずの)キュストリンを包囲、ブランデンブルグの首都ベルリンは、通行権を得たボヘミア領シレジアから侵攻することで攻略できた。バルト海の制海権を握りダンツィヒに上陸してくるノルウェー軍と、川向こうのマグデブルグにこもるブランデンブルグ軍(+少数のハノーヴァー軍)には難儀したが、溜め込んでいた予算と人的資源を惜しみなく投入して攻略に成功した。包囲レベル1を持つピョートル・ドゥニン将軍(Piotr Dunin 1415-1484)は迅速な都市攻略に大きく貢献した。
 全土を占領したブランデンブルグは属国化し、敢えて隣接するキュストリンではなく、奥地のマグデブルグを強奪した。後の外交併合のために生産力の大きい土地を奪っておくのと、ドイツへのさらなる進出のためだ。同盟主ハノーヴァーも占領の後属国化。メクレンブルグは川向こうに40000の大軍を揃えて立てこもり、バイエルンは遠く、ましてやノルウェーは海の向こうなので、2ヶ国の属国化で手仕舞いとした。

 1471年、ボヘミア王がお亡くなりになった。ボヘミアがハンガリーのマーチャーシュに圧迫されているので、後継者にはガジミェシュ4世の子ヴラジスラフをご指名だという。
 えーと…ハンガリーはボヘミアを圧迫するどころか、東半分をロストしているのですが。ボヘミアとの友好度は200、同盟組んでアルバニアとかと戦っている最中。AGCEEPは不思議ワールド。

 72年、かねてよりオランダの低地地帯に進出していたイングランドが、メクレンブルクを併合した。領土を増やすチャンスかと思ったが、既にイングランドは、『対ブレーメン・サヴォイア(メクレンブルクもこの同盟の一員だった)』、『対フランス・プロヴァンス・アラゴン・ヴュルテンベルク』、『対デンマーク・スウェーデン』という3つの戦争を行っていて、戦果を勝ち取る余地がないのでやめておく。
 代わりに、というべきか、リトアニアがクリミアに宣戦布告し、モルドヴァの奪取に成功した。より拡大することも可能だったろうが、戦争の長期化を望まないポーランドが同盟主の権利で停戦に持ち込んだ。
 74年6月、ブランデンブルグが対イングランド宣戦布告…といっても、この時点で大陸のイングランド領は既に他国の占領下にあり、土地獲得の余地が無い。
 対英戦の開始を好機と見てか、同年7月には、モスクワリトアニアに宣戦を布告。主にリトアニア領内での野戦で戦果ポイントを獲得し、貿易センターを持つノヴゴロドを支配下に収めた。
 77年、属国ハノーヴァーを外交併合。
 80年にはリトアニアの対クリミア開戦に伴い、戦線は一つでも二つでも一緒だと、ブレーメン併合に対する抗議という口実でイングランドに宣戦布告するが、ブランデンブルグ王アルブレヒトポーランドが包囲した州をむしりとっていくので、賠償金のみで講和した。
 84年にはそのブランデンブルグを外交併合。キュストリンの文化がポーランドになる。
 88年、ブレーメンにおける独立運動の失敗(再併合)に乗じて、イングランドに宣戦布告。ハノーヴァー・メクレンブルクを奪う。
 92年、カジミェシュ4世が崩御した。ブランデンブルクを滅ぼし北ドイツへの進出を果たしたのが大きな功績だった。同じ頃、オーストリアはティロル・スティリアを併合し、着実に領地を広げていた。

1501- 黄金の世紀

1501-1506 凡庸なお兄ちゃんズ
 カジミェシュ4世の三男ヤン(Jan、在位:1492-1501)の治世は、イベントで下がる安定度を回復させ、BBRの低下を待つだけで終わった。
 1501年ヤンの後を襲った四男アレクサンデル(Aleksander、在位:1501-1506)は、他愛もない国境紛争から、ボヘミアに対して宣戦布告。ボヘミアの同盟国は、ハンガリーオーストリア・ロードス騎士団・モレア(まだ残っていたのか……)
 そう、今回の目標はボヘミアではなくオーストリア
 オーストリアを倒すという崇高な目的のためには、ボヘミア王にしてハンガリー王ヴワディスラフが、カジミェシュ4世の長男で、アレクサンデルの兄であることなど些細な問題である。
 こちらは既にオーストリア対策を意識して同盟にヴェネツィアを加えている。あとはいつものリトアニアだ。
 国境線近くの兵力を蹴散らし、徴兵を妨害していい気分になっていると、視界の向こう側から、万単位の大軍がわらわらと湧き出してくる。あとは都市を取ったり取られたり。オーストリア軍にブランデンブルグを奪われたり、こちらがシレジアやエルツを押さえたり。消耗戦は4年に及び、ヴェネツィアは戦争から脱落する。戦果ポイントで勝っているのだから、せめてシレジアぐらいは――とずるずる戦争を続けていると、1505年、北ドイツ諸邦が戦争をしかけてきた。その構成国は、ヘッセン・ザクセン・ポンメルン・ケルン
 +12の戦果ポイントを無駄にして、なぜか盟主のハンガリーから小銭貰って停戦すると、ポーランド軍は北ドイツの領土を防衛に向かう。しかし、数で等しく、騎兵で大きく上回るはずポーランド軍が、実にたやすく打ち砕かれる。
 こちらの陸軍レベルは6(すぐに7になった)で槍を装備、あっちは9で銃を装備! 射撃戦フェイズでは一方的に撃たれるし! 都市も突撃2回で半年持たずに攻略されるし!
 ちなみに1506年、ドイツ諸邦連合軍の最大進出範囲はこんな感じ→(画像)
 見ての通り、ポーランド領ドイツは全て占領されている。北ドイツ諸邦が勝ち取った戦果ポイントは60%にのぼり、同盟主のヘッセン・3州を確保しているザクセンからは、複数の州を引き渡せという使者が次々とやってくる。
 8月、この国難において、国王アレクサンデルは死去。弟のズィグムンド(Zygmunt 在位:1506-1548)が即位した。このズィグムンドこそ、のちにポーランドの200ズロチ札に描かれることになる名君である。

1506-15 200ズロチ札の人
 新国王はこの国難にあたり、インフレを覚悟で全収入を国庫に入れ軍事費に充当、ポーランド貴族を一斉招集(ポーランドは貴族優先主義のレートが高く騎兵が安い)。ポモージェ(ポーランド語でポンメルンのこと)を包囲し、ダンツィヒから引き返してきたポンメルン軍主力を野戦で撃破。講和を結び、戦線から脱落させる。
 ケルンは国境線を接していないので、残るはザクセン・ヘッセンの二国。
 キュストリン・ブランデンブルグの奪回には成功したが、エルベ川以西の諸州を奪還しようとすると、ザクセン軍・ヘッセン軍が妨害に訪れ、4万対4万というような大規模戦闘がたびたび発生する。
 戦闘は勝ったり負けたり。消耗し尽くすのはあちらが先だろうが、国土の戦時疲弊も著しく、さらに奪われた城を奪還するとなると――と、将来に重たいものを感じていると、東の彼方から、6万に及ぶリトアニア軍が来援。
 ポーランド軍と合わせ、敵に3倍する大軍で掛かれば、たとえ槍と銃の戦いであっても勝利は間違いない。占領地の解放はリトアニア軍に任せ、ポーランド騎兵隊ザクソン・ヘッセンの本国に踏み込んだ。
 1508年、ザクソン・ヘッセン両国の属国化を持って、北ドイツ諸邦との戦争は終結した。
 1516〜1518年、無礼な外交をきっかけとした対スウェーデン・デンマーク戦争。陸軍国の運命として、15隻ばかしのガレー船団はデンマーク海軍と会うと一撃で粉砕されるので、首都のあるシェラン島やゴトラントを襲うことはできなかったが、デンマークからユトラント半島を奪った。兵の損耗を避けるため、スウェーデン領への侵攻は(夏季の小規模な進入を除き)行わなかった。

 ところで、16世紀前半といえば、イングランドのヘンリ8世(Henry VIII 在位1509-1547)、フランスのフランソワ1世(François I 在位1515-1547)神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V 在位1519-1556,スペイン王としては1516-1556)、オスマン・トルコのスレイマン(Süleyman 在位1520-1566)と、各国に英邁な君主が揃った時期である。いささか印象が薄いが、我等がズィグムンドもそのうちに含めていいかもしれない。  スレイマン大帝の即位した1520年時点でのヨーロッパ世界の様子を見てみよう。(画像)
 イングランドは史実よりも勢力が弱く、アイルランドを失陥、本土の一部すらフランスに浸食されている。
 ではフランスが調子いいかというとそうでもない。ブルゴーニュ領を勢力下に収めることに失敗し、軒並みスペインに奪われている。
 スペインは、イベリア半島の本国に加え、アラゴン領のサルディニア・シチリア、ブルゴーニュ領のほぼ全域を支配し、新大陸にも進出、この世の春を謳歌している。
 トルコは、なぜかコンスタンティノープルを占領していないものの、東欧諸国を併合し、ハンガリーを圧迫、史実どおり、ヨーロッパ世界の脅威となっている。
 そして、ポーランドはドイツ北部に進出。地図で見るとそれほど大国に見えないが、すぐ東のリトアニアを合わせた『ポーランド・リトアニア連合王国』として捉えるなら、欧州世界最大の超大国である。

 もうひとつ、16世紀前半を特徴付けたものが、この時期から始まる宗教改革である。
 EUIIの作品世界では、カトリックと正教に加えて、プロテスタント(このゲーム、「プロテスタント」は主にルター派のことを指す)と改革派(「改革派」はカルヴァン系)という二つのキリスト教系の宗派が登場し、主にカトリックの土地が次々と改宗しておくことになる。
 ポーランドは宗教的多様性を認めるタイプのカトリック国であるが、このゲームではそのあたりのことは再現されていない。『ドイツ人や一部イスラム教国は全ての異教徒・異端のスライダーが一番左で固定』ぐらいの制約があった方がヒストリカルだと思うのだが、宗教スライダーはどの国にも平等で、それどころかカトリック国がイスラム教を優遇してカトリックを弾圧するような設定すら取れる。
 1520年時点で、ポーランドの全ての州はカトリックである。正教州のガリツィアは宣教師により、インゲルマンラント・ノヴゴロドはイベントにより、カトリックへと 改宗している。人口の多いノヴゴロドの改宗は実にラッキーだったといえるだろう。正教・イスラム教のスライダーを最低にして、カトリックを最高に優遇、ルター派・改革派を少し優遇する。あるいはカトリックのスライダーを下げて、プロテスタントを優遇した方がいいかもしれない。
 さっそく、属国ザクセンの領民がルター派になっている。

 1520年、ポーランドは先の北ドイツ諸邦戦争で属国化できなかったポンメルン相手に24ヶ月の開戦理由を得た。ポンメルンの同盟国はクレーフェ・ケルン・ブルターニュ。ドイツ北部の残余を一挙に支配下におさめるチャンスである。
 兵力の補充をかねて、ヘッセン・ザクセンを外交併合した。併合で低下したリトアニア・ヴェネツィアとの友好度を回復するのに時間と金を費やしたが、開戦理由の期限が切れる22年2月にはポンメルンに宣戦布告を行うことができた。
 予想通りダンツィヒに侵攻してきたポンメルン軍を一蹴、ミュンスターは要塞度3だが所詮は平地、ケルンは川向こうだが領土が1州なので一度本土が戦場となれば兵力が回復できない。無理攻めをせずタラタラと戦争を続けていると、バルト海にヴェネツィア船団があらわれ、5000人ばかしの陸軍部隊が上陸してきた。海洋国恐るべし。同盟国でよかった。
 1524年1月、ポンメルンが領土割譲and属国化を呑まないので、ガリシアまで逃げた3000ばかしのポンメルン軍残余を追い掛け回していると、チュートン騎士団がプロテスタントに改宗してリトアニアの属国を解除した。
 ――歴史イベント『クラクフ条約』――
 チュートン騎士団総長、ブランデンブルク出身のアルブレヒトは、チュートン騎士団領をプロテスタントの世俗国家プロイセン公国にすると決定。ポーランド=リトアニア連合王国に承認と保護を求めてきた。
 承認すればプロイセンが属国に、認めなければ250デュカートの出費・+5のBBR・240ヶ月の開戦理由を得るという。
 元々、プロイセンの地はポーランド王チュートン騎士団に貸し与えたものである。世俗国家の建国などどうして認められようか。ポーランド王ズィグムンドは、プロイセンの非承認を決定、即日宣戦布告を行った。
 土着の異教徒を虐殺して鍛えているだけあって、ドイツ人は強かった。しかし、マゾヴィアへと攻勢に出て損耗したところを、数に任せて押しつぶすことができた。妙に都合のいいタイミングで、マゾヴィア公ピアスト家の断絶というイベントが発生、200デュカートの臨時収益が兵力増強に役立った。メーメルを獲得して講和。全土を占領したので属国化も可能だが、我々はたとえ属国としてであれプロイセンの存立を認めるつもりがない。
 戦争中、『キリスト教の騎士』だの『王妃ボナ・スフォルツァ』だのいう未翻訳イベントが発生した。能力+と引き換えに反乱リスクが上がったり安定度が下がったりする類のイベントだったが、元々安定度が高く、反乱リスクも低いのでとくに問題はなかった。

 1527年、トルコがついにビザンツ帝国を滅ぼす。
 いよいよ精強なイェニチェリ軍団がオーストリアを蹂躙してくれるかと期待していると、31年、トルコが動いた。標的は、同盟国ヴェネツィア。
 なんかヴェネツィアは32年にはブルターニュ(なぜか1州だけ保有していた)に独立されるし、独立戦争ってたいてい同盟国離反するから、こっちは同盟を再編しなければならなかったし。ブルターニュは生意気にも貿易制裁とかしてくるし。どこの貿易センターで競合するっちゅーねん。
 それでも、対オーストリア戦を意識して組織されたポーランドリトアニア・ヴェネツィア同盟は強く、ポーランドはトランシルヴァニアを、ヴェネツィアはコソヴォを割譲させることに成功した。
 ヴェネツィアはクロアティアの方が欲しいようだったが、クロアティアをヴェネツィア領にしてしまうとオーストリアとトルコが戦争する余地がなくなってしまうので、コソヴォで我慢してもらうことにした。開戦時のトルコ領→(画像)

 1541年、オーストリアがボヘミアを併合した。なんの苦労もないイベントでの継承、開戦理由がついているかと思ったが、なぜかつかない。オーストリアずるい。こちらも対抗して、属国化したクレーフェを併合してみる。ポンメルンケルンはプロテスタントに改宗してしまったので併合できない。
 ボヘミアの併合により、ボヘミアの属国となっていたハンガリー(既にわずか4州)が宙に浮いた。なので同盟に取り込む。
 これでオーストリアを北・東・南の三方向から包囲する形勢となった。あとは開戦理由を得るのを待つばかり――

 1547年、スペイン・オーストリアを中心とする同盟に、フランスが加入した。欧州連合軍ですか。こいつらと戦争したら……世界大戦勃発とちゃいますか。

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