■聖域へ■


「おい」
「おいってば」


 どこか遠くで声が聞こえる。

 うるさいなぁ、まだ寝てたっていいだろう?なんで起こすんだ、サガ――――。
サガ……?
サガの声じゃない、誰の声だろう?サガ……俺、どうしたんだっけ………俺、昨日、サガと口論になって………――――。

 カノンは、そこまで考えたところではっと気付いた。

 そうだ!俺、小屋を飛び出して――――。

 目を開けると、自分と同じ年の頃の少年が二人、目の前に立っていた。

「誰だお前」

 一人は黒髪、

「なんでこんなとこで寝てんだよ!」

 もう一人は癖の強い赤毛の少年だった。

「お前の訓練の場所ここじゃねえだろ!」

 は?
 訓練?

「はじめっからこんなとこで訓練受けられるわけないだろ!」
「ここがどこだか分かってんのかぁ?!」
「お前カヨイだろ?コロッセオはそんなに簡単に入れる場所じゃないんだ!お前なめてんのか?」
「そーだそーだ!ここはちゃんとした候補生しか入れないってことも知らねーのかよ!」

 この二人は何を言ってるんだ?ちょっと待ってくれよ。俺はサガと喧嘩して、小屋を飛び出して…、それからとにかく走った。それで、街まで辿り着いて……。

 そこでカノンの記憶は途切れていた。

 くたびれて、ここで寝ちゃったのか……。

 カノンが視線を上に上げると、それは石組みの立派な門だった。奥に目を遣ると、そこはぐるりと回廊がめぐっており、少年二人の話と合わせると、ここは闘技場の入り口ということなのだろう。
 回廊の奥から、湿った冷たい空気が流れてくる。
 カノンは寝ぼけた頭で必死に記憶を辿っているというのに、目の前の二人はそんなこともおかまいなしにまくしたてていた。
 彼らは、カノンのことを「通い」と呼んだ。このときの聖域は、聖戦まで時間があるため、正式な聖闘士はまだほとんど誕生していない状態だった。よって、候補生を訓練するにも教師の手が足りていない。
 我々が知る、あのマンツーマンの教育形態になるひとつ前の段階なのである。
 聖闘士候補生となるために、もうひとつ段階がある。大人数で基礎的な体力や体術を学び、小宇宙に目覚めることが出来そうな者が聖闘士候補生として選抜される。その正式な候補生となるべく、聖域外から通って来る者も多かった。この者たちを、「通い」と呼ぶのである。
 当然カノンはそんなことは知らない。目の前の少年たちが何を言っているのか理解できなかったが、カノンは黙ってそれを聞いていた。

「早くここから出て行くんだな!」
「のろのろすんな!!」

 見ていると、黒髪の方が兄貴分であるらしい。

「初めて聖域へ来て、やる気出しちゃってるのも分かるけどさぁぁー、しょっぱなからコロッセオなんかに入れませんからぁ!」
「そうそう!世の中そんな甘くないんですよーだ!」
「ちゃんと手順を踏んで、他のカヨイの連中と一緒に来いや」
「そうそう!カヨイはカヨイの連中と一緒に来いや!」
「こんなに丁寧に教えてもらえて、俺たちに感謝するんだな!」

 この二人はどうやら聖域内に住み、「カヨイ」の連中とともに正式な聖闘士候補生になるべく訓練を受けているようだ。
 この頃の聖域では、「通い」より、聖域内に住む候補生候補の方が立場が強いことが多かった。正式な候補生たちや教師、そしてや本物の聖闘士と顔見知りであるからだ。

 先輩格であり、しかも二対一であるにもかかわらず、反抗的な目をして二人を睨み続けるカノンに対して二人はいらだちを募らせた。

「なんなら訓練の厳しさを教えてやろうか?!」
「謝るならいまのうちだぞ?!」

 このころの年齢の男の子にはよくあることである。修学旅行で他校同士が喧嘩になるのと全く同じ心理だ。二人にすれば、聖域内に住む「ワンランク上」の自分たちが、こんなに丁寧に教えてやっているのに、礼のひとつもないばかりか敵意むき出しで睨まれたのである。こんな侮辱が許されてなるものか。かくなる上は「身体に教えてやる」以外にない。

 一方のカノンとて負けていない。

カヨイだかなんだか、そんなもん知ったことか。
カノンは謝るどころか、にやりと不敵な微笑みを浮かべると、二人を挑発した。

「上等だ!まとめてやってやるよ」

 こうして戦いの火蓋は切って落とされた。
二人は卑怯にも一人がカノンを捕まえる役に徹する作戦に出た。
一人がカノンを羽交い絞めにしてしまえば、もう一人がぼこぼこに出来る、という算段である。
 カノンはすぐに看破したから、すぐに受けて立つことはせず、様子見を兼ねてひらりひらりと交わすことに徹した。
体力的にはカノンは負ける気がしなかったし、二人の動きを見て、すぐにこれは間違いなく勝てると確信した。しばらく凌いで二人が疲れたら、そこで一気にカタをつけよう。
 二人は頭に血が上っていて、自分たちがいかに無駄な動きをしているかに全く気が付いていなかった。あんなに大振りに拳を振り回したり、こちらの動きを読まずに飛び掛ったりしていれば、じきに体力の限界が来るに決まっている。

 カノンの読み通り、二人はじきに大きく肩で息をするようになった。
二人はカノンを捕まえることはあきらめたようで、二人まとめて飛び掛って来た。カノンは紙一重のところで黒髪を交わし、すぐ右隣に居た赤茶色の癖っ毛の鳩尾に拳を叩き込んだ。

「ぐふっ」

 カノンは低く姿勢を固めてその鳩尾へと拳を入れた。赤毛は飛び掛ったその勢いを逆手に取られた格好になった。赤毛の体重と、飛び掛った勢いをそのまんま利用して、鳩尾に叩き込まれたのだからたまらない。息をすることもままならず、ぐへ、と奇妙なうめき声を上げ、その場へ小さく丸くなるしかなかった。

「…ンのヤロー!」

 黒髪が逆上した。赤毛がうずくまるかどうかの瞬間に、間髪入れずにカノンへと足払いをかけて来た。赤毛へ拳を突きこんだとき、カノンは右前方の赤毛の方へと体重をかけていたから、左後方からの脚払いというその作戦はなかなかに有効だった。うまく足がカノンへと掛かれば、カノンは横倒しに倒れたはずである。
 だが間一髪でカノンは飛び退り、それを交わすと間髪入れず拳を固め、黒髪の顔面へと力の限り腕を伸ばした。黒髪は足払いをかけたせいで、ちょうどカノンが腕を伸ばした高さに顔が来る形になっており、ボクシングで言うところの、ストレートパンチを一番良い形で食らうこととなった。
 しかも残酷なことに、これはストリートファイトであり、リング上での試合のように、綺麗に顎に入って脳震盪というわけにはいかない。カノンの拳は見事に顔の中心にめり込んだ。そう。この場合の「一番良い形」とは最もダメージの大きいことを指す。哀れにも黒髪は鼻血を噴いて仰向けにひっくり返ることとなった。

 勝負あり。

 カノンは無情に、冷たく言い放った。

「おい、“カヨイ”ってなんだよ」

 仰向けに倒れ、大きく胸で息している黒髪の胸を片足でにじりながら、カノンは勝ち誇った顔をしてこう続けた。

「ああ、その前に俺に言うことあるよなぁ?」







 ああ、眠ってしまっていたのか……。
サガは一人、小屋のテーブルで目を覚ました。

 カノンが出て行ってしまってから、サガはずっと帰ってくるのを待っていた。小さな物音がするたび、扉の方へとはっと目を遣る。だがそれは全て徒労に終わった。
 小屋の扉が、カノンの手によって開けられることはなかった。カノンのいない部屋はやたらに広くて、そして寒かった。

 サガは窓の外へ目をやった。

 穏やかな、美しい朝だった。空はうすい水色をしていて、あたたかくも穏やかな日差しが世界を満たしていた。
 自分の心はこんなに荒れ果てているのに、世界はまるで自分の存在をまるごと無視しているようだ。

 今日は教師も来る予定をキャンセルすると言っていた。
昨日の続きで、まだしなくてはならないことがあるから、と。

 どうして。
カノン、どうしてお前はきちんと考えて行動してくれないんだ。
ぼくたちは厚意でここに置いてもらってるだけなんだよ?ここから追い出されたら、ぼくたちはもう帰れる家なんか、どこにもないんだよ?
 この先どうなるかは分からないけど、とりあえず大人になるまではとにかくここに置かせてもらうより方法がないじゃないか。

 自分の言い方が悪かったのだろうか。でも、カノンだって。言い方というなら、カノンだって十分に悪かったではないか。
 あんな言い方をされたら、ぼくでなくたって――――誰だって頭に来るだろう。
 それに、言い方の問題じゃない。ぼくが言い方をどんなに工夫したって、カノンは逆上したに決まっている。言い方じゃなく、その内容が気に食わなかったんだから。
 カノンは、いつも人の話を聞かず、すぐに自分の考えで衝動的に行動に出るんだ。
 母さんの元に居た頃からそうだったが、最近とくにひどくなってる気がする。
 いや、でも、もう少し聞いてもらえる話し方があったのだろうか……。

 サガは考えを堂々めぐりさせながら、開くことのない扉をいつまでも見つめていた。
 このときサガは、自分たちがどういう宿星を背負って生まれて来たのか、聖域が何を自分たちに期待しているのか、何も知らなかった。



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