■おかえり■


 カノンは、上も下も分からない、不思議な空間の中にいた。
巨大な惑星が、自分のすぐ脇をすり抜けて行ったかと思うと、砂のように塵となって霧散した。
 ここは、あの空間の「割れ目」の中だ。
 水の中のように、ふわふわと漂うのだが、水の中とは違ってまるで抵抗を感じない。
 泳ぐような動作をしてみても、文字通り手は空を切るばかりで、上下ともなく、左右ともなく、カノンの身体はぐるぐると回転しながら漂っているだけだった。
 ものすごいスピードで、銀河が自分へ向けて突進して来るのに気がついた。

 ぶつかる!

 カノンはたまらず目を閉じた。
 それは大きさからしても、スピードからしてもカノンに衝突することは明白だったが、しばらくたってもカノンには何の衝撃も無かった。
 カノンがおそるおそる目を開け、振り向くと、その銀河が変わらずものすごいスピードで、遥か彼方へ飛び去って行くのが見えた。

 なんなんだよー。どうなってんだ!

 ちらりと見えたあの割れ目の中が、こんなところだったなんて。
入り込むことには成功したが、その先のことを何も考えていなかったと、こういうことだな。
出口があるのかすら、おれは考えずに飛び込んだのだ。
 サガが言う、「詰めが甘い」ってのはこのことだよな。むかつくが、こうなっては認めざるを得ない。
飛び込む直前、サガが「だめだ!」って言ってたなぁ。
お前、どういう意味で言ったんだ?
でもさ、他にどうすればよかった?
あのまま川の向こう岸で、ずっと立ち尽くしていればよかったのか?
でもさ、あの「ゆらぎ」、この「空間の割れ目」が消えちゃって、二度と現れないかもしれなかったんだぜ?

 カノンは不思議な空間の中を漂いながら、そんなことを考えていた。

 サガは目の前で起こったことを俄かには信じられずに、その場に立ち尽くしていた。

 なんだったんだ今の。

 空気に気味の悪いゆらぎが現れたと思ったら、カノンを飲みこんで消えてしまった。
しばらく呆然と立ち尽くしていたサガは、はっと我に返った。
「…カノン!カノン、カノン!!」
カノンが消えてしまった。さっきまで目の前に居たのに。カノンはどこへ行ってしまったんだ?
「カノン!聞こえるか!聞こえるなら返事をするんだ!!」
待てども待てども、答えはなかった。

 落ち着け、落ち着くんだ。

 サガは必死で自分に言い聞かせた。

 カノンは何かに気がついてた。何に気がついてた?
ぼくとカノンは双子なんだ。もともとは同じひとつの卵だった。分かるはずだ。考えろ、考えるんだ。

 サガは必死で集中した。余計なことは忘れ、何があるのかだけを考えることに努めた。
しかして、川縁に漂う、目には見えない赤い霧に気がついた。

 カノンは何をした?
カノンはこの霧を消そうとした?……いや、ちがう。

 はっと顔を上げ、サガを見つめたカノンの双眸を、サガははっきりと思い出した。

 そうだ。カノンは帰って来ようとしたんだ。

 そう。この得体の知れない、赤く漂う気味の悪い気体につかまることなく、こちら側へ帰って来ようとしたのだ。

 帰るには、どうすればいい?
家を飛び出す前、カノンは「空気の裂け目を見つけた」と言っていた。ぼくにだって、出来るはずだ。
ぼくにだって見つけられるはずだ。

 サガはすっと意識を集中した。傍から見て、それがカノンとまったく同じ仕草だったことに、サガは全く気づいていない。

 なにもない空気。なにもない空気。
 ゆらゆらと、揺れている。
 なんで、揺れている?
 何が、揺れている?

 そのとき。
 虚空に歪みつつ、つーっと線が走るのをサガは気づいた。見る見るうちに、それはぱっくりと口を開け、不安定にゆらゆらと揺れた。

「カノン!」

 サガはその不安定な空間の口に駆け寄ると、その中へと向けて意識を集中した。

「カノン!」

 これに、つかまって。

 サガは目をつぶったまま、その空間の中へと腕を伸ばすことをイメージした。その中遥かを漂うカノンへ、サガはまっすぐに意識を差し向けた。

 カノンは不意に聞こえたサガの声に、はっと顔を上げた。

「サガ!ここがわかるのか!」

 わかるよ、かのん。
 そこだね、みつけた。

 声は不思議に響くが、どこから聞こえるのか全くわからない。カノンは遥か彼方を漂っているようで、実はすぐ傍に居た。この不思議な世界では、遥か彼方も、すぐ傍らも、実は同じことなのだ。

 つかまえた。

 サガの声はそう言うと、カノンを後ろから両手で捕まえた。

 すぐそばにいるような気がするのに、気配を探ると全く感じない。こんな不思議なことってあるのだろうか。

 サガの両手は、しっかりとカノンを掴んで引っ張った。
 惑星が、銀河が、砕ける恒星がカノンの脇を飛び退って行く。

 かえってきてくれて、ありがとう。

 サガの声が、やさしくそう言った。

 かのん、ずっとまっていたよ。

「サガ!」

 カノンは堪らずサガの(いるはずの)方へ振り返った。カノンはたまらなかった。サガに抱きつきたい。サガを抱きしめたい。心の底からそう思った。

 そのとき。
ぐわあん、と不思議な音が響くと、ぶわりと周りが明るくなった。あの空間の口へとカノンは辿りついたのだ。

 よし。

 サガは意識をこれまでになく集中させ、ぐい、と意識を自分の方へと引き付けた。

「うわ!」

 カノンは中空へと放り出された。

「カノン!」
「サガ!どけ!!」

 二人叫んだのは全くの同時だった。どさりと鈍い音がして、カノンはサガを押しつぶす形で着地した。

「ったー」
「サガ!大丈夫か?!」
「それはこっちの台詞だ。お前こそ大丈夫なのか?あんなところへ迷い込んで」
「!」

 カノンは慌てて、自分の腕や脚、背中などを見てみた。

「どろどろだけど、怪我はないみたいだ…」

 雨が上がったばかりの地面へカノンは落ちたのだ。それに潰されたサガは背面、カノンは地面に着いた手と膝が泥まみれの水でぐっしょりと濡れていた。
 カノンはじっと自分を見つめるサガの視線に気がついた。そして、自分がサガを押しつぶし、サガに馬乗りの格好になったままだったことも。

「あ、悪ぃ、どく…」
「カノン」

 カノンが言い終わらないうち、サガが口を開いた。

「いいんだ、そんなことは。カノン」
「…………」
「帰ってきてくれてありがとう」

 サガは、そっとカノンの頬に手を添えた。

「ずっと、心配してた。カノンがいないと、とても寂しい」

 サガは、その深い碧の瞳に穏やかな光を湛え、あの不思議な空間で言ったことと同じ言葉を繰り返した。

「サガ……」
「おかえり、カノン。ずっと待っていたよ」
「サガ!サガ!!」

 カノンは、サガのその言葉を聴いて、自分が抑えていたものが何だったのかをはっきりと知った。

 遠くでふくろうが鳴いている。

 今日の帰り道、きっと「しろ」はぼくらを驚かしにかかるだろうな、とサガはカノンに抱きすくめられながら思った。




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