■かえりみち■ ぴちょん、木の枝に残った滴が落ちる音がする。 雨上がりの夜道は、しっとりと湿気のにおいに包まれていた。小さな水路でもあるのだろうか、どこからかこぽこぽと水の流れる音が聞こえてくる。 カノンは小屋への道を、この二日間に起きたことを反芻しながら歩いた。 聖闘士になれなくても、この聖域で生きていくことが出来る。 これが分かったことは、非常に大きな収穫と言えるだろう。だが、その代わりにいくつも疑問が増えてしまった。 自分たちは一体どんな立場に置かれているのだろう?聖闘士候補生候補にも満たない立場なのだろうか。それとも、何か特別な存在として遇されているのか。 自分たちを教えている教師のロヨルは、おもに正式な聖闘士候補生たちを受け持っており、そのワンランク下の、候補生候補たちを教えるのは月に数回しかないのだそうだ。 オルコスとヨランドの話ぶりから、候補生候補たちがロヨルをどれだけ敬い、その授業をどれほど心待ちにしているかがありありと伝わって来た。 そのロヨルが、週に二回はわざわざやって来るのである。自分と、双子の兄の、たった二人のために。 と、いうことは、自分たちは候補生候補より上のレベル、正式な聖闘士候補生として扱われているということなのだろうか。 では、なぜ自分たちは聖域へ招かれないのか。なぜあんな辺鄙なところへ自分たちを隔離するのだろう。教皇に次ぐ古参の聖闘士であり、教皇に次ぐ権力を握っているというリウテス自らが「クリスタル・ウォール」を張ってまで。 そして。 それを破ったのはカノンである。教皇と同じ技なのだというが、破るのは実に簡単だった。 と、いうことは、自分はリウテスより強いのか?そして……、教皇よりも? 強すぎるから、強すぎて危険だから皆から隔離されている?だが、自分たちがそこまでの存在ならば、ロヨルや他の正規の聖闘士が張り付いて見張っていそうなものだ。 わからない。 カノンは道に月が落とした、現れては消え、消えては現れる不安定な自分の影を見て、ため息をついた。 まぁいいか。今回はここまで、だよな。 とにかく、悲壮な覚悟で日々の訓練に望む必要はないのだ。適当にやり過ごそうというのではない。なんというか、必要以上の不安に苛まれることなく、落ち着いて、自分のペースでやって行って良いのである。失敗することを許される安心感、と言えば良いのだろうか。何かにせめぎ立てられ、なりふり構わず、狂ったように訓練せずとも大丈夫なのだ。それが分かっただけでも、今は良しとしよう。解けない謎は、またおいおい解いて行けば良い。 天気は急速に回復した。流れていく雲が、時折月を隠すが、あちこちに星が浮かんでいることからももう雲はほとんど切れて来ていることが分かる。 サガ、怒ってるかな。分かったことを話したら、許してくれるだろうか。 おれ、不安と必死で戦ってるお前を見るの、嫌なんだ。 このことを聞いたら、少しは安心してくれるだろうか……。 カノンは、あの夜に泣いたサガの顔を思い出していた。 こんな風に、うつうらうつうらと浅い眠りを繰り返すなら、しっかりとまとめて眠った方が良い。散漫な思考もまとまるだろうし、たまらない胃のむかつきも収まるだろう。そう思って横になってみても、ちっともサガは眠れなかった。 もし、このままカノンが帰って来なかったら、と思うと、逆に目が冴えてちっとも眠れなくなってしまうのだ。 小屋の入り口のかんぬきはかけていないから、自分が寝込んでしまっていたって、カノンは問題なく小屋へと入れる。夜が明けたら、何食わぬ顔をして、いつものように暖炉に火を熾しているかもしれないではないか。 自分にいくらそう言い聞かせても、眠りの神はサガに許しを与えなかった。 カノンが出て行ってすぐは、せいせいしたと思った。自分の悪さを棚に上げて、人のことをなじるようなヤツなんか、いなくたって全く困らない。このまま帰って来ないなら、帰って来ないでかまわない。 そんなの、カノンが決めることだ。ぼくらは兄弟だけれど、双子だけれど、いつまでもこうして一緒にいることは出来ないだろう。別々の人間である以上、大人になればやがて別々の道を歩くことになる。 聖闘士になるにしろ、違う道へ進むにしろ、いつまでも一緒に居られるはずがない。それが、今だったということだ。たったそれだけのことだ。 先生が来たとき、何て話せば良いのかは非常に迷うが、でも本当のことを話す以外に方法はない。あとでまたカノンになじられるかもしれないが、それはまたそのときの話だ。 ここまで考えて、サガは自分の考えの矛盾に気づいた。 出て行ったきり戻らないカノンが、どうやって自分をなじるというのだ。睡眠時間というのは大切だな。まったく、眠れないとこんなにも思考能力が落ちるものか。 先ほどせっかく眠りかけたのに、激しい雨の音に起こされてしまった。起き上がったものの、部屋に明かりを点けるのが面倒で、サガは粗末な木の椅子に座り、暗い中、窓の外の叩きつけるような雨と、落ちる水滴をじっと見つめていた。 こんな雨の中、カノンは帰って来るかな。カノン、どこに居るんだろう。何も食べず、何も飲まずに居るのだろうか。 春とはいえ、夜はまだ冷える。まさか凍死することはないだろうが、それでも体調を崩すには十分だ。 サガのこころは、まるで揺れる振り子のように、怒りと心配を間を行ったり来たりした。 絶対に許さない。 怒りの側へと大きく振れた後、気持ちは序々に加速をつけて心配の側へと大きく振れる。 二つの気持ちの間を何度も何度も往復したあと、辿り着いた感情は不安だった。 帰って、来ないのかな。 帰って来て欲しい。 帰ってくるに決まってる。 早く、帰って来て欲しい。 もう、こんなまんじりとも出来ない夜はごめんだ。ひとりの小屋は寂し過ぎる。雨も、すっかり上がったようだ。雲間から美しい月が覗いている。 結界を張りなおす作業も、先ほど無事終了したという。明日にはロヨル先生も姿を現すだろう。 カノン、どうか、それまでには戻って来て――――。 サガは、ふと下の川まで行ってみようと思った。結界がどんなものなのかも見たかったし、なんとなく、カノンが戻ってくるような気がしたからだ。 希望的楽観、てヤツかな。 サガは自嘲気味に小さく笑い、窓際の小さな木の椅子を立ち上がった。扉を開けると、雨上がりの、湿気をたっぷりと含んだ優しい空気がサガの胸を満たした。 隣の林で、ふくろうの鳴く声が聞こえる。あれは、カノンが名づけたふくろうだろうか。白くて、おおきなふくろう。カノンはその見た目をそのまま取って「しろ」と名づけた。それじゃ犬みたいだ、とサガは抗議したが、ではふくろうらしい名前とはどんなものかと返されて、サガはそれに答えることが出来なかった。そしてそのまま彼(彼女?)は「しろ」と名づけられたのである。 ふくろうは賢い鳥で、夜、二人が外に出ると、よく音も無く飛んで来て、突然前を横切っては二人を驚かせた。決まって二人は、うわあ!と声をあげ、抱きついて飛び上がった。 「ぜったいあれ、狙ってたんだ」 悔しげなカノンの声がサガの脳裏に蘇る。 「俺たちを驚かして、あいつ面白がってんだぜ!」 今日は「しろ」は自分を驚かすことはないだろう。なぜなら、今日はサガが「しろ」の存在に気がついているから。 いつもは、カノンとの話に夢中になりながら――つまらない言い合いだったり、どちらかが発見した面白いものについての話だったり、また、それについて夢中で意見交換をしながら―――表へ出るから、「しろ」はそこを狙って驚かすのだ。 「しろ」も、カノンがいないとつまらないよな。 しろの住む林の前を横切りながら、サガはそう心の中でつぶやいた。 そのころ、カノンは小屋のある山の下を流れる川のところに居た。先ほどの雨で、水かさは増し、夜目にも濁っていることが見てとれた。日ごろはほとんど水がなく、川底の石ころまで見えるのに、一度雨が降ると、さまざまなところから水が流れ込んで川は豹変し、いつもと全く違う顔を見せる。 カノンは自然の脅威をまざまざと感じた。が、次の瞬間、それとは全く異なる種類の脅威に気づかざるを得なかった。 結界の張りなおしが完了していた。新たな結界は、ひかりのかべ――クリスタル・ウォールとは全く違うものだった。川べりに、無数の赤い花が点在している。 おとといここを出たときには、そんなものは咲いて居なかった。季節が慌しく移ろって行く中で、たまたまカノンが留守をした間に咲いたのかもしれなかったが、カノンは直感的に不自然だと感じた。 見たところは野ばらのような形をしている。川沿いに、その橋を中心に点々と咲いているのである。ひとつひとつを砕くことはそれほど大変ではないが、何しろ数が数だ。それに、張ったばかりの結界をまたしても破ったら、今度こそ犯人は自分だと彼らに突き止められてしまうかもしれない。 どうしよう。帰って来るのが、遅すぎたのだ。目前にして、自分はサガのところへは帰れないのか。 カノンはなんとも嫌な焦燥を覚えた。 破らずに、帰る方法はないのか。 あせるな、落ち着くんだ。 カノンは、必死に自分に言い聞かせた。 あのときは、どうしたんだっけ。 カノンは、あの「ひかりのかべ」を破ったときのことを思い返した。まずは、意識を集中させたんだ。そこに、何があるのかは考えないようにした。心の手で、そのなにかを探って行った。そうしたら、割れ目があるのを見つけた。それが決め手だった。今回も、あのときと同じように、何かを見つけることが出来るだろうか? カノンは目を閉じ、すっと意識の深いところへと潜り込んだ。 川べりが、帯状にうっすらと赤く染まっている。 ああ、これは、毒だな。 これに気づかずに、この橋を渡ったら、記憶がちょっとおかしくなるんだ。その前後のことを覚えていない、とある単語に反応する、この場所に再度来たら、異常な恐怖を覚える。まぁそんなとこだろう。 ヤツらは―――リウテスは、結界を破った犯人を突き止めようとしてるんだ。そりゃあ誰が犯人なのか、突き止められるものなら突き止めたいよな。噂のとおり、黄金の戦士、アイオロスが本当に自分に弓引いているのかどうか、何としても突き止めたいのだろう。 もし、噂が外れていたとしても(実際外れているのだが)、アイオロスと同等の力を持つ人物が居り(おれのことだけど)、リウテスに抵抗しようとしているとなれば、これはまたこれで由々しき事態である。 もしもカノンが犯人だと突き止められてしまったら、リウテスに抵抗するつもりなど、これっぽちもないと言ったところで、そうやすやすとは信用してはもらえないに違いない。自分の立場がどんなものなのか、カノンは今ひとつ掴めていなかったが、腹黒く、教皇よりをないがしろにしてのさばりかえっているというリウテスのことだ、良くて幽閉、消されるのが順当なセンな気がする。そう、なんとしても、結界を破ったことを突き止められるわけにはいかない。 なんとしても、帯状にある障害を壊さずに越えなければ。 向こう岸へ渡りたいんだ。 サガのところへ、おれは絶対に帰りたい。絶対に帰ってやる。 助走をつけて、思いっきり跳ぶ。それしかない。 カノンは、目を開けた。この間とは違う。半分は意識を飛ばして、半分は現実的に跳ぶのだ。霧のようにぼんやりと漂う、あの赤い空間を、まるごと飛び越えるのだ。 実在するわけではないのに、本物の霧のように、その赤い気体は風に流されて形を変えるのを、カノンは感じた。 かなり手前から跳ぶ必要がありそうだ。失敗して、川の中に落ちたらおわりだな。こうして意識を研ぎ澄ませ、しばらくその感覚で見ていると、川にはその赤い毒がたっぷりと溶け込んでいることがはっきりと判った。 霧の手前に、あの「割れ目」を見つけ、そこを介して向こう側へ跳ぶ。どこかにある。絶対にある。もしも、どこにも「それ」がないなら、出現するまで待つんだ。 カノンは、目を凝らしてじっと見つめた。そうして。その「割れ目」は前回とは違う形で姿を現した。ゆうらりと、かげろうが立ち昇るように幽かに現実の景色を揺らめかせながら出現した。 よし! カノンは、今回はそれへ衝撃を加えるのではなく、その中へ飛び込むことにした。カノンが走り出したそのときである。 「カノン!」 サガがカノンの姿を捉えた。詳しい理由は分からなかったが、カノン一人の力では、それは成し得ない。サガはそう直感した。 「だめだ!」 さすがは双子である。カノンも、サガの言わんとするところを違(たが)うことなく理解した。伝わる、というのとは少し違う。カノンも、サガと全く同じことを考えたのだ。 だが、その空間の「ゆらぎ」は今にも消えてしまいそうにおぼろげなものになっていた。次にそれがいつ現れるのかわからない。二度と現れない可能性だってある。 どうしよう。 カノンは、ひどく迷った。そのほんの一瞬に、起こり得るさまざまな事柄について思いを巡らせた。 ゆらぎに飲み込まれたまま、二度と出て来られなくなるかもしれない。ゆらぎの中で、何かに押し潰されてしまうかもしれない。 そのほんの僅かの間にも、「ゆらぎ」はますます薄くなって行く。 ええい!やってやる!! カノンはその迷いを振り切ると、ゆらゆらとゆらめく「ゆらぎ」の中へと、その身を投じた。 |