■雨上がりに■ なんか、帰るタイミングを逸したなぁ。 カノンは寝台に寝転がり、天井を眺めながらひとりごちた。 帰ろうとは、おもっていたんだ。 なのに、カノンの足を止めるかのように雨が降り出した。ぱらぱらと音を立てはじめたかと思ったら、あっという間に雨音は連続して聞こえるようになった。 このままここに居るわけにはいかない。帰らなきゃならないことはよーく分かってる。あれから二日が経った。サガ、どうしてるかなぁ。怒ってるかなぁ。それとも……、心配、してるだろうか? のっそりとカノンは半身を起こした。寝台の上にひざを抱えて丸くなる。雨がすぐ軒先で跳ねる音が聞こえる。 こりゃあ本降りだなぁ。今帰ったら、ぐちゃぐちゃになるだろうなぁ。 そして、つま先から水が沁みて来る、あの不快な感触をカノンは想像した。 ぐっちゃり濡れてしまえばまだ良いのだ。靴のなかで、水がぐちゅぐちゅと音を立てるくらいまで濡れてしまえば、いっそ諦めもつく。もう、靴など履いていないのと同じだから。 だが、あの、中途半端に水が沁みた、かゆいような、むずむずするような、なんとも言いがたいあの不快な感触。あれはとにかく耐えられない。 そんな忍耐をしてまで帰る価値なんかあるもんか。 ふん、あいつの言う「心配」なんて、自分が良い人であるための言い訳なんだ。俺のことを心配してるんじゃない。俺を心配してる自分が好きなんだ。なのに、あいつはそれにちっとも気がついていない。本気で自分は善い人なんだと思い込んでる。 だが、問題はそれだけではなかった。現実的な状況を考えると、もう時間的に限界なのである。もうそろそろ教師だって来るだろうし、先生が来て、カノンが家出してるなんてことが知れたらきっとものすごく大変なことになる。ひょっとしたら、もうそれは起こっているかも知れなかったが、カノンは敢えてその可能性を無視することにした。 帰らなきゃ。 それは分かっている。分かっているのだ。 だが。 カノンは両手を大きく広げると、再び寝台の上に仰向けに倒れた。 石造りの家でも「しみ」ってあるんだな。 雨漏りの跡だろうか。それはまるで両目を光らせた怪物のように見えた。 オルコスに、この「しみ」は何に見えているのだろうか。 そう、この部屋はオルコスのものだった。潔く、とは言わないまでも、オルコスはカノンにこの部屋を提供した。カノンの名誉のために言えば、またしてもカノンがオルコスを殴り倒して追い出したわけではない。カノンは居間で適当に寝る、と言ったのだが、オルコスは使ってくれと自分の部屋を明け渡してくれたのだ。 ヨランドの部屋は、散らかり放題に散らかっていて、とてもカノンが泊まれるような状況ではなかったので、消去法にオルコスが提供するしかなかったのではあるが。 帰らなきゃまずい。簡単なことだ。帰る、と言ってこの家を出れば良いだけのことだ。 自分たちの小屋への道はごく簡単で、迷うようなことはない。カノンの足で2時間歩けば辿り着く。 でもなぁ。サガがなぁ。 帰ったらさんざん説教されるのだろうか。それともお得意の偽善者面をして、涙を流しながら抱きついてくるのだろうか。カノンは思い切り眉間に皺を寄せると、そんなことされたって俺はほだされないからな、と思った。 大体、今回のことだって、あいつが悪いんだ。それを泣いて心配されたって―――そもそも「心配」ってのがおかしいんだ。泣いて謝るのが筋だよな。でもあいつは絶対に謝ったりしない。 天井のしみはみるみる姿を変えて、両手を上げる子供の姿になった。 つまるところ、カノンはどんな顔をしてサガに会えば良いのか分からないのだ。合わせる顔がない、とは少し違う気がする。恥ずかしかったり、後ろめたかったりして顔向け出来ないわけではない。 恥ずかしいものか。後ろめたいものか。悪いのはあいつなんだから。でも、でももう帰らないとまずい。まずいんだ。 カノンは今日何回目か分からない堂々巡りを終えた。 よし。帰る。もう帰るぞ。 カノンが帰宅を決意し、寝室のドアを開けようと、ノブの手をかけたそのときだった。 ちょっと出掛けて来る、と出て行ったオルコスとヨランドの声が、扉の向こうから聞こえてきた。 戻って来てたのか。 二人が戻らないうちに、こっそり帰るのが最良だったのだが。 カノンは自分の踏ん切りの悪さを少し呪った。 「驚いたよなぁ、破られたのがクリスタル・ウォールだったなんて」 「うん。信じらんない」 クリスタル・ウォール? 「ロヨル先生も言ってたじゃん、破るって言っても、ひびを入れるのが精一杯のはずだって」 「だよな。ロヨル先生がやったとしても、って意味だろ?あれ」 ロヨル?俺らに教えてくれてる、体術教師の名だ。 あいつ、聖闘士候補まであと一歩の連中にも稽古つけてるのか。意外と結構ちゃんとした教師だったんだ。 カノンは教師に対して失礼きわまりない感想を抱いた。 「それが粉々に砕かれちゃってて、二日かけて、あの人数で行って、まだ修復出来ないなんて、やっぱり尋常じゃない」 ということは、昨日も連中が俺たちの小屋へ来てたってことか。自分の家出は教師にばれてしまっただろうか。 カノンは手に、気味の悪い汗をかいていることに気がついた。 「でもさあ、リウテスのじじいがまた大げさに言ってるだけなんじゃないの?」 「こら!“様”をつけろって言ってるだろ!」 「だってさー、リウテス…さま、の技が教皇さまと同じ威力だなんて思えないじゃん。だってリウテスって…エリダヌス座って青銅でしょ?」 「だから“様”をつけろって……はぁ。それよか階級は関係ない、要は小宇宙だってこないだ教わったばっかりじゃないか」 「えー、そんなはずないっしょ。やっぱ黄金は黄金。青銅は青銅でしょー」 ヨランドは面白いな。いつもふざけているように見えるのに、言ってることは的を得てる。 兄貴分のオルコスは、こうして聞いていると大義名分に捕らわれ過ぎて、本質が見えていないようだ。 「しかもいっつもえっらそうでさ、なんであんなに威張ってんだよ。教皇さまよか威張ってんじゃん。星を見て、それを読んでるのは教皇さまでしょー?それをなんでリウテスが自分の名前でお触れを出すんだよ。おっかしいじゃん」 「ヨランド!」 「だってさ、そりゃあ偉い人だってことはわかるよ。今いる聖闘士では一番長い人だしさ。だけどなんかまるで自分が教皇さまみたいに言うじゃん。それに聖闘士とは思えないくらい太ってるしさ、あれで戦えんのかよ?戦争になったらアテナじゃなく、自分を守るよう命令出すんじゃないかってみんなが言ってんの、オルコスだって知ってるっしょ?だから、俺はクリスタル・ウォールを破ったのはアイオロスさまだとおもうよ!」 は? なんだ?? 今の、話の脈絡おかしいよな。全然分からない。 リウテスってのがエリダヌス座の聖闘士で、青銅。教皇さまってのは察するに黄金聖闘士、なんだよな? 「ずいぶんと話が飛躍するじゃないか。わかるように説明しろよ」 オルコス、ナイス突っ込み!なんでそうなるのか、俺も分からなかった! カノンは扉に耳をぴったり押し付け、盗み聞きの体勢を完璧なものした。 「アイオロスさまが我慢しきれなくなったんだ。リウテスは調子に乗りすぎだから、もういい加減分からせようとしたんだよ」 リウテスってのはずいぶんな権勢家のようだ。教皇を差し置いて、ふんぞり返っているらしい。そのせいでずいぶんと嫌われていると、こういうことのようである。 で、「アイオロスさま」ってのは何なんだ?ロヨルと同じ先生なのか?あ、でも「さま」って呼んでたなぁ。ってことは先生とは違うのか。 「なんでアイオロスさまがリウテスを分からせるんだよ」 「あ、オルコスだって呼び捨てしてる!」 「いいから脱線すんな!」 この二人の会話は、まるで漫才だな。基本オルコスが突っ込みだが、肝心なところでボケるところがおもしろい。 「だってさ、クリスタル・ウォールを粉々にしたんだよ?そんなこと出来るの、他にいる?それに、いい加減アイオロスさまはリウテスが教皇さまを馬鹿にするのが許せなかったんだよ!同じ黄金聖闘士として!」 「だから、“馬鹿にしてる”んじゃなくて、“ないがしろ”だって何回言ったら分かるんだよ。全然意味が違っちゃうだろ…」 オルコスが情けない声で言った。ヨランドは国語が苦手らしい。 「同じだろ!だって、“クリスタル・ウォール”って、教皇さまの技なんだろう?!青銅ごときに、自分と同じ名前つけられたらムカつくだろ!!」 ふむふむ。「青銅ごとき」とはヨランドも言うときは言うもんだ。自分は聖闘士でもないくせに、そんな言い回しをするヨランドが、カノンはおかしくてたまらなかった。 ともあれ。“ひかりのかべ”は正式には“クリスタル・ウォール”というらしい。 そしてそれを張ったのは青銅聖闘士、エリダヌス座のリウテス。本来その技は教皇の技であるにも関わらず、どういうことか良く分からないが、リウテスも同じ技を使えるらしい。 リウテスは長年の在位が災いし、ひどく増長して聖域内でかなりの反感を買っている。リウテスが自分の技に教皇の技と同じ名前をつけたことも、この辺が関係しているのかもしれない。 黄金聖闘士にして本尊たる教皇の“クリスタル・ウォール”の威力の程は定かではないが、リウテスの“クリスタル・ウォール”は、皆に尊敬されている教師であるロヨルにも破ることは不可能な程度には威力がある。 あそこまで完璧に破ることが出来るのは、黄金聖闘士たるアイオロスしかいない、ということのようではあるのだが。 カノンはぽりぽりと頭を掻いた。他人事のように聞いていたが、“クリスタル・ウォール”を破ったのは他ならぬ自分なのである。 と、いうことは、自分は黄金聖闘士たるアイオロスと同等の力を持っている、ということなのだろうか。 「アイオロスさまが聖域を正してくれるんだ!黄金の矢でクリスタル・ウォールを破ったように、リウテスの時代も終わらせてくれるんだ!」 「お前、それ誰かのぱくりだろ」 カノンはオルコスの突っ込みを聴いて、思わず吹き出した。カノンも確かにヨランドの物言いに不自然さを覚えたからだ。ヨランドは鋭い見方をするが、こういう洒落た言い回しは絶対に出来ない。 「うるさい!確かに言ったのはリゲロだよ、でも俺だって同じことおもってたもん!」 なんだ?また新たなる人物の登場か。もう俺把握しきれないぞ。 「お前リゲロのことをおもうんだったら、他所で言うなよ?もうちょいで神官になれるのに、そんなこと言ったってみんなに知れたら全部おじゃんになっちゃうだろ?神官として認めるのはリウテスなんだから」 ああ。リゲロってのが、ヨランドが言ってた、神官を目指してる「頭のいい」ともだちなんだな。 それにしても、神官の間でもリウテスってのはそこまで評判が悪いのか。 神官と言うと、あのずるずるした格好や、「頭が良い」連中の集団と聞いて、なんとなく冷徹で人情味のない人種をカノンはイメージしていたが、そういうわけではないのかもしれない。 そこまで聞いて、カノンは立ち上がった。膝についた埃をはたき、上衣のすそを治すと、がちゃりと扉のノブを回した。 二人の驚いた瞳が、カノンを見上げた。 「カノン!起きてたのか」 「ああ。なぁ、教えて欲しいんだけどさ」 カノンは思い切って、一番知りたいことをストレートに聞いてみることにした。 この答えを聞いて、帰ろう、そう思った。 「二人いっぺんに聖闘士になるって出来るのか?」 「認定試合なら同じ日に二回やることもあるよ」 「そういう意味じゃなくて……」 「勝った方しかなれないから、どっちかしかなれないよ」 「えーと……二人が同じ星座の聖闘士になれるかって意味なんだけど………」 そんなことを考えたことも無いオルコスとヨランドは、驚いて目を丸くした。カノンの言ったことの意味を、まだ咀嚼出来ていないのかもしれない。 「うーん、聖闘士が二人いる星座があるか、って言えばいいのか?」 「わかった!」 オルコスが大きな声を出した。 「カノン、お前、このこのこのぉ〜」 「??」 「好きな子と二人で聖闘士になりたいんだろー」 「「ええっっ」」 今度は、カノンとヨランドが目を丸くする番だった。 「そーなの?!カノン、カノジョいるの?!」 「な、な、何を」 「そっか、カノンモテそうだもんなァ。そっかぁ…もうそんな仲のコがいるのか……」 「だ」 「なぁなぁ、カノジョってかわいい?」 「か」 「カノジョの友だちでかわいい子いない?」 「ら」 想定外もいいところだ。 とんでもない方向へと話が進んでしまった。 「そうじゃない!!」 「でも早まらない方が良いんじゃないか?別れちゃったらどうするんだよ」 「そうだよ。まだ若いんだし、遊べるうちに遊んでおかないと」 二人は勝手に盛り上がってしまって、カノンが何を言ってもからかうネタにしてしまい、てんで話にならない。 「いい加減にしろ!また殴り倒されたくなかったら、まじめに答えろ!」 「ああん、ごめんなさいカノン、わたし、それは知らないわ」 「そう、そんなこと考えたこともなかったもの。今度聞いておくわね」 オルコスとヨランドは、ぴったりと寄り添うと手を握り合い、くねくねしながら気味の悪い女言葉でこう答えた。カノンは殴る気力さえ失い、力なくこう言った。 「おれ、もう帰るわ………」 本当は、まだまだ聞きたいことがあったが、ともあれ今回はこれで切り上げよう。 「えっ、マジで?!」 「ああ」 「カノン、からかって悪かったよ」 「今日は泊まってけよ」 「いや…そういうわけじゃない、もう帰らないと……。また来る」 雨は上がったようだ。雨は上がったといっても、まだまだ道はぬかるんでいるだろう。 足、濡れるだろうな。 あのかゆいような、ちょっと沁みるような、あの不快な感触をカノンは思い出していた。 |