■薫る風■ 緑の原を、薫風が吹き抜けて行く。まばゆいばかりの緑色をした草の葉が、まるで波のようにうねる。サガは、二人の住む小屋から少し上ったところの、遠く谷を見渡せる高台に居た。 二人にはあの後間もなくして小宇宙の習得の訓練が開始された。が、二人には習得までの訓練は、必要のないものだった。 二人とも、そんなものとっくに知っていたからである。「小宇宙とは」と、それはそれは大仰に語られていたから、二人は相当な覚悟を持って訓練に望んだが、拍子抜けせざるを得なかった。 それをコントロールするとなるとまるで別物のように難しかったが、小宇宙を発動させるだけであれば、それは二人にとって、実に簡単なことだった。 遠く、谷の向こうを見つめるサガに、カノンは背後から声をかけた。 「なんだよサガ。そんな顔して。またあの女のこと考えてたのか」 その声に、サガは眉間に皺を寄せて振り向く。 「無駄だよ無駄。あの女にそんな価値なんかあるもんか。男を捕まえたくて捕まえたくて、ナマでやらせたら出来ちゃったんだろ。なのに結局逃げられて、馬鹿な女」 「そんな風に言うな、お前の母親だろう?」 「母親?あいつが?」 カノンは肩をすくめて、おどけるように言った。 「ああ、生物学的には、っていう意味で?」 「…………」 カノンは眉を上げ、更におどけた表情でそう言ったかと思った途端、表情を一変させ、叩きつけるように言った。 「ざけんな!てめーが勝手に産んだろっての!別に俺が頼んで産んでもらったわけじゃない」 あまりのカノンの言い様に、サガは言葉を失ってただカノンを見つめた。 「俺は堕ろしてもらって全然構わなかったんだぜ?“家庭的な女”の演出のための小道具に使われてさ、その芝居が失敗に終わった途端にゴミ扱い。堕ろしてくれてりゃあそんな目に合うこともなかった」 「カノン!やめないか!それ以上言うと」 「それ以上言うと?」 カノンはサガのその言葉に被せるように、たっぷりと怒気を含んだ声で言った。 サガはそれには直接答えることを避け、絞り出すような声で言った。 「……こんなに美しい日に、なにもそんなことを言わなくたっていいだろう」 カノンはそれまでのひどく攻撃的だった表情をすっと引っ込めると、サガとは違う苦い表情を作り、こう答えた。 「お前が辛気臭い顔してるからだろ」 カノンはそう言うと、オルコスとヨランドのところへ行く、と吐き捨てるように言って山を下って行った。 小宇宙の習得を始めてからというもの、カノンは必要以上に母親を罵るようになった。その攻撃性と来たら異常なほどで、執拗に母親を責め続けた。 母はとても美しい人だったが、ひどく不安定だった。二人に対して、何の前触れもなく矛先が向けられると、あとは地獄だった。二人は邪魔だと蔑まれ、産まなければ良かったと嘆かれ、嫌悪感も顕わに、父親そっくりだと罵られた。 カノンの異常とも思えるこの部分は、母親から譲られたものなのかもしれない、と小さくなるカノンの背中を見ながら、サガは思った。 そんな“影”とも言える部分を二人の中に産み出しつつも、二人は着実に小宇宙を体得して行った。 二人に指導する教師も、単なる体術ですら、もはや最低でも1対3でなくては訓練の体を成さなくなった。 小宇宙を発動させての指導に至っては、制御がまだ完全でない二人の小宇宙が暴走し、周囲へ被害を及ぼすことを防ぐために、神官数名を連れて来て、結界を張らせてから行うまでになっていた。 ついにサガもカノンも、「通い」として聖域に招かれることのないまま、完全に正規の聖闘士候補生のレベルを―――二人は知らないことだが、正規の聖闘士さえ―――遥かに凌駕してしまっていた。 ところで、かの「アナザーディメンション」は本来攻撃用ではないことをご存知だろうか。 あれは本来遠隔地にいる敵の目前へ、異次元を介して突如として姿を現すための移動手段であり、異次元空間に閉じ込めたまま未来永劫さ迷わせるというのは、技を中盤で止めるという反則的な応用であって、実は技は完結していないのである。 赤い霧が漂う川縁で、カノンが失敗したのが発案のきっかけとなったのだが、本来は、異次元空間を通り、出口を出てはじめて「完成」であり、半分だけ掛けて終わりの、いわゆる「インコンプリート・アナザーディメンション」は、二人にすればこれ以上簡単な技はない。光速の拳を繰り出すことより簡単、と言っても良いだろう。 カノンは急いで山を駆け下り、例の川縁まで来た。いつものように、この赤い野薔薇から漂う、霧状の結界を越えなくてはならない。 すうっと意識を集中させ、自分が今いる地点をしっかりと認識する。そして、移動したい地点をしっかりと認識する。この二点を掴んだまま意識をすーっと頭の上へと引っ張り上げ、引っ張り上げ、意識で大きな二等辺三角形を描く。そして一点に交わったところで、意識を爆発させる。 と、次の瞬間、川面にはカノンの走り去る後ろ姿が映っていた。 カノンはこの、「アナザーディメンション」と呼ばれる技の完成形が出来るように自らを訓練し、聖域への行き来にこれを使っていた。 一見テレポーテーションと同じに見えるが、異次元を介すか否かという大きな違いがある。異次元へと足を踏み入れることなく瞬間異動するテレポーテーションは、そこに結界が存在するとそれを超えられない。投げたボールが、壁にぶつかり阻まれるのと同じ原理である。 だが、アナザーディメンションは、まったく異質の世界へと入り込んでしまうため、移動している間はこの世界に存在していないことになる。 壁があろうが、何があろうが、違う世界にある―――この世界に存在しない―――ボールにとっては、何も問題にならない。まさしく別世界の出来事であり、移動を阻まれることなど有り得ない。 後の聖戦において、カノンが誰にも見つからず、アテナ神殿へと辿り着けたのは、この「完全版アナザーディメンション」を使ったからなのである。 「あ、来た!」 「おーい!こっちこっちー!!」 走って来るカノンの姿を見つけると、オルコスとヨランドは大きく手を振った。 二人はカノンと出会った数ヵ月後、無事に正式な聖闘士候補として認定された。二人はカノンとサガと違い、小宇宙を発動させるまでに想像以上の苦労を必要とした。それでも、二人は小宇宙を発動させることを身につけ、なんとか制御出来るようになっていた。 制御、と言っても、それはカノンとサガに求められた、とんでもない破壊力の暴走を抑える類のものではなく、必要なレベルまで必死に上げるというものである。 その度合いの差は、小宇宙を使うことが出来るようになり、是非とも披露したいと言われたカノンが「神官がいないのに大丈夫なのか?」と質問したところ、二人にはその意味が全く通じず、小宇宙の発動と神官は全く関係がないことを、カノンが辟易するまで熱心に説明するというほどであった。 通常、青銅聖闘士はこの程度である。認定試合中に小宇宙を発動させた技が出せればまず合格出来た。 「出したもん勝ち」が実際のところであり、「一撃必殺」とは言うものの、実は「一発勝負」というのが本当のところだった。 明日は、いよいよオルコスの聖闘士認定試合である。オルコスは、小宇宙の発動までにとにかく時間のかかるタイプだった。発動さえ出来てしまえば、あとは心配いらない。エネルギーの質、量ともに申し分なく、オルコスの繰り出した拳を食らえば、立っていられる候補生はまずいない。 だが例の「一撃必殺」の青銅の認定試合にあっては、この時間がかかるという点がとにかく難点だった。 相手がオルコスより先に技を出してしまえば、そこで終わりだからである。オルコスに出来ることは二つしかない。発動までの時間を縮めるか、相手の攻撃を受けても敗れない防御力を身に着けておくかである。 三人は訓練しながら色々と考えたが、防御力を上げるにしても、小宇宙を籠めた拳を防ぐには、こちらも小宇宙を発動させておかなければならないのだということに気がついた。 「はぁー、俺自信ねえなぁ」 オルコスは情けない声でそう言い、がっくりと肩を落とした。 「なんだよ、しっかりしろよ」 「なんでカノンはそんなにすんなり出来るんだよ」 不意にオルコスはカノンへと素朴な疑問をぶつけて来た。 なんで? そういえば、なんで自分は出来るのだろう? 「コツがあるなら教えろよ」 「コツ、ねぇ……」 カノンはちょっと考えてから、こう説明した。 「うーん、すーっと意識を一本にまとめる感じなんだよなぁ」 「それじゃ分かんねーよ。もっと分かりやすくさ、こう、これだ!みたいなのってないのかよ」 「そんなのねーよ」 「人って字を書いて飲み込むとかさ、かっこいい呪文を三回唱えるとかさ」 「そんなのねえってばよ」 「ああー、女神(アテナ)ー!!」 オルコスは地面にがっくりと両膝を付き、頭を抱えて情けない声をあげた。切羽詰って、追い詰められたオルコスの心境が分からないわけではなかったが、そんなことより少しでも訓練するべきだ。ひょっとしたら、オルコスの言う“コツ”が、ひょんなことで掴めるかも知れないではないか。 「おら、いいから練習しようぜ」 「カノン、お前他人事だと思ってるだろう〜〜?!」 オルコスはここで同情しても伸びるタイプじゃない。冷たくあしらって、泣きべそかかせる方がきっと伸びる。カノンはそう思ったから、オルコスの心の叫びは冷たくあしらうことにした。 「ああ。だって実際他人事だしな。じゃあもっかいやるぞ」 「俺も一緒にやる!」 その脇で、不安そうにその様子をじっと見ていたヨランドが言った。 カノンは自分では全く気がついていなかったが、オルコスとヨランドへのコーチングが自分への実に素晴らしいトレーニングとなっていた。 出来ない二人に付き合って、何度も基本的な練習を繰り返す、さまざまな角度からの質問へ回答するために、自分の経験をきちんと説明できるよう頭の中で整理する。また、小宇宙の発動が苦手な二人の前で、失敗することなく小宇宙の発動を実演出来るように訓練しておく(いざ実演したときに失敗してしまいましたなど、そんな格好悪いことはカノンのプライドが許さなかった)など、これがいかに有効な訓練であったかは説明するまでもないだろう。 また、オルコスの試合に際して、どうすれば自分の欠点を補えるか、どうすれば自分の長所を最大に引き出せるかを考えたことは実に大きかった。たたかいに勝つための戦略は、相手がどんな人物であれ、駆け引きや小手先のテクニックなどはいくらでも応用があるが、この基本だけは変わらないからである。 「ああー、もっとちゃんと訓練しておくんだった、もう今更やっても遅いに決まってる」 「お前もちょっと自信持てよ、こないだよか全然良くなってるよ」 「ほんと?!ああー、でも明日の今頃ってもう結果出てるんだよな、俺どうなってるんだろう?!」 「うるせえ!余計なこと考えずにもう1…」 と、そのとき。 カノンは不意に、背後に気配を感じた。反射的に振り返ると、そこには訓練着に身を包んだ少年が立っていた。短い髪は黒に近い茶色で、瞳は暗めのグリーン。 「アイオロスさま!」 カノンの動きを目で追ったヨランドが、驚きと感激がないまぜになった、興奮した声を上げた。 背の高さはカノンと同じくらいだろう。だが、ひょろひょろと背ばかり伸びて、まだまだ身体に厚みのないカノンと違い、少年は鎧のような筋肉が、がっちりと身体を覆っている。 こいつが、アイオロス?! カノンは、アイオロスはもっと年上の、そう、教師ロヨルと同年代の青年を想像していた。リウテスの敷いた聖域の体制を一人で覆すだけの力量があると目されている英雄が、まさか自分と同年代の子供だとは夢にも思わなかった。 今の聖域にたった一人しかいない、黄金聖闘士。 カノンは、眼光に鋭い光を宿し、じっとアイオロスを見据えた。 「熱心だね、えらいなぁ」 アイオロスは対照的に、人好きのする笑顔を浮かべていた。 「明日、オルコスが認定試合なんです!」 「明日?!明日の試合は君だったのか。がんばれよ」 「アイオロスさま、俺、明日は恥じない試合をしてみせます!」 オルコスの力強い言葉に、アイオロスは太陽のような笑顔で頷いた。 その様子をカノンはじっと見ていた。 こいつはたまたま通りかかっただけじゃない。俺達の―――、いや、繰り返し発動される“俺の”小宇宙に気がついて様子を見に来たんだ。 アイオロスはそれに気がついたのか、カノンの方へと視線を向けた。 「さっきの小宇宙は君のものかい?」 ほらな。思ったとおりだ。 「君は、聖域の外から来てる子?」 カノンは沈黙をもってそれに答えた。答えないカノンに構わず、アイオロスは次の質問をした。 「君、名前は?」 カノンは相変わらず鋭い眼光のままでこう答えた。 「聖闘士になったら教えてやるよ」 「おい!」 「ちょっと!!」 オルコスとヨランドはカノンのその物言いに大いに驚き、窘める声を上げたがカノンは一向に態度を改めようとはしなかった。 「……そう」 アイオロスは、ちょっと間を開けてから頷いた。 「その日を楽しみにしてるよ」 アイオロスはカノンの態度を特に咎めるつもりはないようだった。そして、オルコスとヨランドに励ましの声を掛けると、三人の前を立ち去った。 「おいカノン!」 「お前アイオロスさまになんて態度だ!」 「カンケーねーだろ?」 「ないわけあるか!アイオロスさまは黄金聖闘士だぞ?!」 「だから?」 人を喰ったカノンの態度に、二人の声は大きさを増して行く。 「お前、アイオロスさまを怒らせたら八つ裂きじゃ済まないぞ!」 「そうだよカノン、あの方が小宇宙を発動させたとこを見たことないからそんなこと言えるんだ!」 発動させなくたって、存分に感じたよ。 「ふん。出来るもんか。聖闘士は私闘禁止なんだろ?」 「そうだけど!」 「黄金聖闘士が掟を敗ったら、他の連中に示しがつかねーだろ?だからぜってー出来ねえよ」 「そういう問題じゃないよ!!」 「でもカノン、アイオロスさまは、格が全然違うんだ!あんな失礼、許されない」 二人の応答が、アイオロスがいかに敬愛されているかを雄弁に物語っていた。 聞けば、アイオロスは生まれてすぐに射手座の黄金聖闘士の座を約束されたのだそうだ。幾人もの教師によって英才教育を受け、だが持って生まれた才能は、その教育すら必要とせずに大輪の花を咲かせた。年若いどころか、幼いと言っても良い年齢で、あの黄金に輝ける太陽の鎧を身に纏ったのだ。 黄金どころか、青銅の聖衣を拝領するために、皆がどれほど血と汗を流してているかを思えば、アイオロスの格の違いは考えるまでもなかった。 天才、英雄、最強。 アイオロスは、聖闘士にとって、最高の名声を欲しいままにしていたのだった。まだこんなに年若いのに、聖戦に於いては総指揮官として皆を率い、この世界を覆わんとする闇の使いどもを、その黄金の翼を広げて薙ぎ払うのだと、彼が生まれたときから聖域の誰もがそう思っていたのだ。 それに比べ、自分はどれほど惨めだったのだろう。物心ついた時には、母の顔色を伺っていた。いつ食事が出されなくなるか分からないから、出された食べ物を少しずつ隠すようになった。幼い兄弟には、どんなものが日保ちするのか分からない。食事が出されず、空腹に耐えられなくなったときにこっそり隠したそれを持ち出すと、それはすっかり腐ってしまっていて、食べることなどとても出来なくなっていた。 こんなことになるなら、我慢せずにあの時に食べてしまえばよかった。あれほど惨めな悔し涙を、カノンは知らない。 そんな自分との違いを、我知らず、カノンはアイオロスの中に見たのかもしれない。 最強の英雄だかなんだか知らないが、とにかくいけ好かない。それに、そんな感情を抜きにしても、カノンはアイオロスに負ける気がしなかった。 自分が聖闘士になった暁には、俺の方がヤツより強いってことを、皆に知らしめてやる。 カノンはぎらぎらとした感情を、はっきりと胸に抱いたのだった。 |