■ひかりのかべ■


 カノンは、自分たちが将来どうなるのかを知るために、まずはあの街へ行ってみようと思っていた。自分たちがここへ連れて来られたあの日に通って来た、街然としたあの場所――聖域の居住区のことだが、カノンはそんな呼び名を知らなかった―――である。
 カノンは二人の住む小屋のある山を下り、川沿いに歩いた。少し歩くと橋があるはずだった。この記憶に間違いはない。だが、その橋が架かっていないのだ。もう少し先だったか、と思い、しばらく川沿いを歩いたが、どこにも橋は架かっていない。これ以上行くと、道は川沿いを離れ、もうひとつ隣の山へと入って行ってしまう。そこはもう見覚えのない景色が広がっていた。

 ということは、もっと少し手前かぁ。

 カノンは何度か行き来してみてが、橋はどこにも架かっていないのである。

 誰かが橋を落としたのか?

 橋はごく簡素なものだったが、あれを落とすとなれば、手間は大変なものだろう。それに、そんなことをする必要があるとは思えない。たかが子供二人を、そこまでして閉じ込める必要など、どこにもないではないか。

 閉じ込める―――――?

 俺たちは、ここに閉じ込められているのか?聖闘士になるためなどではなく、奴隷とか、もしかしたらイケニエとか、そのテの目的のために取り敢えず飼われているのでは―――――。

 カノンは、自分の思いつきに怖気をふるったが、首をぶんぶんと振るとその考えを自分の頭の中から追い出した。

 いけないいけない。これじゃ、まるでサガだ。サガときたら、とんでもない心配性だ。一日中何かの心配をしている。それだけならまだしも、いちいち俺を叱り飛ばす。心配なのはわかるが、なんで俺が怒られなきゃならないんだ。サガのことは好きだが、そこは嫌いだ。

 カノンは、そんなことを考えながら小屋へ戻る道を急いだ。

 あんまりのんびりしてると、先生が来ちゃうからな。

 二人には聖闘士になるための本格的な訓練が開始されていた。身体を作るための基礎訓練、実技である各種格闘技、そして聖域の仕組みや歴史、聖闘士の在り方についてを含む学術。これらを複数の教師が訪れる形で、二人に教示していくこととなった。今日は、その中の一人である基礎訓練の教師が来る日だった。

 先生が、来ちゃう―――――。

 カノンは、自分の言葉にはっとした。

 教師は、どこから来るのだ。この川の向こうから来るのではないか。「橋」を、渡って。

 ならば、教師が現れるところを抑えればいいのではないか。そうだ、なんでこんな簡単なことに気が付かなかったんだろう。なんで、今まで何日も何日も野山を無駄に歩き回ったのだろう。

 カノンは自分の愚かさを呪いながら、確かに橋が架かっていた場所へ大急ぎで戻ると、近くの草叢に潜み、教師が現れるのを待った。

 サガは、小屋の前で、一人宿題の基礎訓練に励んでいた。本当はカノンと二人でやらなければならないのだが、カノンはいつもどこかへ行ってしまって小屋にはほとんどいない。出された宿題をきちんとやらなければならないのに、やるやるとカノンはいつも口ばっかりだ。
 今までは黙っていたが、今日こそは先生に話そう。言いつけるみたいで気分は良くないが、カノンのことを思えば、しなければならない訓練をしていない、この状態を許す方が絶対に良くないはずだ。

 カノンはきっと、小宇宙の習得の練習をしたいんだ。
こんなに地味で、同じことの繰り返しで、退屈で、そのくせ身体中の筋肉が痛くなって、身体中がだるくなって、ご飯を食べながら眠ってしまうほど疲れるだけの基礎練習なんて、馬鹿馬鹿しくてやる気にならないんだろう。
 あの時、あの黒ずくめの男が語った「小宇宙」。それを体得し、制御することが出来るようになれば、岩を砕くことも、地を割ることも出来るという。サガは俄かには信じられなかったが、カノンはその手の話が大好きだった。

 誰よりも強くなる。強くなって、かっこいい聖闘士になる。

 カノンは口癖のようにそう言っていた。かくいうサガだって、男の子だ。そういうかっこいいものは大好きだったし、テレビ映画に出てくるヒーローみたいな強さにも憧れる。

 小宇宙の習得の訓練は、いつ始まるんだろう――――。ぼくだって早く練習したい。でも、先生は「まずは基礎訓練」て言ったんだ。ぼくだって、こんなことやってないで遊びに行きたいよ。だけど、練習をサボって、小宇宙の訓練も、聖闘士の必殺技の習得もさせてもらえなくなってしまったら、とてもとても困るじゃないか――――。
 なんでカノンはわかってくれないんだろう。ぼくがあんなに口をすっぱくして言っているのに。

 そう考えていたときだった。カノンが息せき切って走って来た。

「先生が来たぞ、サガ!」
「どこ行ってたんだ!二人で宿題やろうって約束してたのに!」
「るっせーなぁ」

 俺が何のために、こうして走り回ってるか、サガはちっとも判ってないんだ。

 二人が口論になろうかというそのときだった。

「ちゃんと宿題やったか、二人とも」

 体術の教師が姿を現した。

「先生!カノンが!カノンは全然宿題をやってません!」
「ばっ」

 サガのやつ!なんでそんな余計なこと言うんだ!俺は遊びたいからサボったんじゃない、お前が泣くほど不安に思った疑問を、解いてやろうと俺は必死で歩き回ってたんだ!

「カノンは今まで一回も先生に出された宿題をやったことがないんです!二人で一緒にやるようにって言われたのに、僕はずっと一人でやってたんです」

 サガのやつ!俺の気も知らないで!!これもサガの嫌いなとこのひとつだ。いっつも一人で、自分だけいい子ちゃんになろうとする。それもお前のためを思ってとかなんとか、いちいち恩着せがましいのも気に入らない。

 でも、カノンはそのことをサガに言うつもりはなかった。一人で秘密を解いて、サガを驚かせてやりたかった。 純粋にサガの驚いた顔が見たいという気持ちもあったし、サガの鼻を明かしてやりたい、というか、サガを出し抜いてやりたい、という気持ちもあった。
 サガはいっつもお兄ちゃんぶるが、二人はほんの数時間差で誕生したというのに、なんであんなにお兄ちゃん面するのか、カノンはずっと前から、ちょっとだけ(本当はかなり)気に入らなかったのだ。

「ああ、サガ、そんなことは言わなくていい。そんなのは、見ればわかる」
「「えっ」」
「お前たち、先生のことを見くびるんじゃないぞ。訓練すれば、それがちゃんと身体に現れるんだ。やってるかやってないか、そんなこと言われなくても全部お見通しだ。カノン、お前、強くなりたいんだろう?お前は格闘技ばっかりやりたがるが、お前の大好きな必殺技を出すには、何より身体がしっかり出来てることが必要だ。お前、今みたいにサボってると、そのうちサガに歯が立たなくなるぞ?」

 なんだと!?それは困る!でも今俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ!絶対秘密を解き明かしてやる! でも、でもサガに負けるのも絶対いやだ!
 どいつもこいつも、俺の苦労も知らないで言いたいこと言いやがって!

 カノンは、悔し涙を噛み締めながら、その授業を終えたのだった。

 そして。
 授業を終え、帰る教師のあとをこっそり追いかけた。サガが何か言っていたが、そんなことに構ってはいられなかった。

 見つからないように、そっと。あいつ、ああ見えて勘がいいからな、あんまり近づきすぎちゃ駄目だ。でも、離れすぎず。あいつはデカいから、一歩もデカい。うかうかしてると、置いて行かれちまう。

 山を降り、例の川へと差し掛かる。

 あいつが来たときのアレ、見間違いじゃないよな。

 カノンは、午後に見た、教師が来たときの光景を思い出してごくりと唾を飲み込んだ。

 ゆらり、と彼は唐突に現れたのだ。そこに、壁があり、壁抜けの術でも使ったみたいに、片足から現れたのだ。
 カノンがもう少しハリウッド映画に詳しければ、ベタなCG合成シーンのようだった、と言っただろう。

 俺、頭おかしくなったんじゃないよな……。

 信じられない光景を思い出して、カノンはそう思った。

 枯れかけたオレンジの木の陰に隠れ、生い茂る草むらに身を潜め、つかず離れず教師の後を追いかけていく。

 いよいよだ。

 数時間前と同じ草叢で息を殺し、カノンはその瞬間を今や遅しと凝視した。

 果たして。

 ゆらり、と光の壁が揺れ、教師の身体は、虚空へ溶けてしまった。カノンは、心の中で、やっぱり、とつぶやいた。

 だが、しばらく待たねばならない。もしもそこに、見えない壁が存在するなら、教師はその壁の向こうを先ほどと同じペースで歩いているはずなのだから。すぐにも駆け寄りたい衝動を必死でこらえ、しばらく経ってからカノンは教師が消えた場所へと立った。

 そこは、橋が架かっていた場所に違いなかった。

 やっぱり、橋は架かっている。ここに何かの仕掛けがあるんだ。

 カノンはじっと虚空を見つめた。すっと手を伸ばしてみるが、カノンの手は隔たれた空間の向こうへ消えることはない。

 どういう仕掛けなんだよ?わけわかんねー。

 わからないが、ここに何かあることだけは間違いない。
意識を、集中させるんだ。
何かがあるんだ。
目には見えない何かが。
自分の意識が、すっと一点に集中するのがわかる。

 何がある?
ここには何があるんだ?

 カノンの脳裏に、ひとつの光景が映像となって集約された。

 虚空につと走る、白い細いひび。
ガラスを割るんだ、小石をぶつけて。
このひびに当てれば、きっと簡単に割れる。

 ここだ、このひびの、ここのところ――――。

 カノンの思い描くイメージが一点にまとまったとき、それは起こった。



 ぱりーん



 四方八方に、光の破片がふりそそぐ。
すっかり陽がかたむき、春先の夕暮れの、紫の光を受けて、その破片は紫色の光をきらきらと反射させながら宙を舞い、カノンの上にも、川の中へも、あしもとの地面へも降り注いだ。思わず頭を腕で庇ったカノンの上に、また、地面に、着くかどうかというときに、破片の全ては宙にかき消えてしまった。

 そして、これも予想していたことだったが、光の壁が消え去ったその場所には、記憶のとおり、あの橋が架かっていたのだった。

 カノンは、夕闇せまる川縁りに、ひとり立ち尽くした。



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