■37話■



 いつの間にか冷たい雨が降り始めていた。霧雨と呼ぶにはいささか強い。重苦しい雲が垂れ込め、雨は強くなることも、弱くなることもなく振り続けていた。

「申し訳ございません、今しばしお待ちを」

 議場は気まずい雰囲気に包まれていた。神官の長であるリウテスが来ないのだ。

「使いを送ってございます、急いでお連れいたしますので」

 まだ年若い神官が額の汗を拭いながら言った。

「珍しいな、リウテスが遅れるなんて」

 隣に座るアイオロスが言った。何の気なしに、素直な気持ちがぽろりと溢れた、という言い方だった。

「何か、あったのだろうか…」

 サガの法衣を着て、サガの表情をしたカノンが言った。

 何かあったどころじゃねえんだけどね。

 心底心配そうな表情の下で、カノンは舌を出して嘲りたい気分だった。そして、早く帰って寝たい、と考えていた。そう、やらなければならないことをとっとと済ませて。

 そして手元へと視線を落とし、カノンは用意された資料に目を通し始めた。それを見ていたアイオロスが声を掛ける。

「えらいなぁ、サガ。俺、リウテスが来るまで寝てようかと思ったのに」
「いや、全く資料を読めていなかったからな」
「ああ、あの調べもの、大変そうだもんなあ。毎日遅くまで?」
「まぁ、それはそうなのだが、そんなことは言い訳にも……」

 そう言いかけたところで、二人の会話は中断された。使いに出された雑兵が戻ったのだ。

 やっと戻って来た!

 待ちくたびれていたカノンは、ポーカーフェイスの下で安堵のため息をついた。このまま、事情が全くわからない議定(ぎじょう)を始められてはたまらない。さしものカノンにも、最後まで尻尾を出さずにいられる自信はなかった。兄のためにしたことが、とんだ仇(あだ)になっては元も子もない。

 雑兵は、分厚い樫の木の扉から転がり込むように現れた。こけつまろびつ、という表現がぴったりだった。神官数人が雑兵を囲んだが、何を言っているのかよく分からない。腕が。大変です。屋敷が。神官たちは尚も彼を問い詰めようとしたが、アイオロスとサガは席を立った。ただならぬ事態が起こったことは明白だった。どのみち現場に確認しに行くことになる。ここで話しているなど、時間の無駄でしかない。二人は、リウテスの邸(やしき)へと駆けた。

 リウテスの邸(やしき)に着くと、入ってすぐの広間に使用人と思しき人物が腰をぬかしてへたり込んでいた。リウテスの部屋はどこかと尋ねようかと思ったが、明らかに恐慌状態だったので諦めた。二人は周囲を見回し、次の瞬間迷わず一番奥の部屋へと走った。血の臭いを辿ったまでだ。聖闘士ならば簡単なことだ。

「リウテス殿」

 一応、ノックをする。しばらく待つが、やはり応えは無かった。

「リウテス殿、開けますぞ」

 そう言って、アイオロスがノブに手を掛けた。二人は目を合せると、そっと頷いた。

「失礼!」

 その言葉とともに、重厚な扉は開かれた。奥に、人が二人倒れていた。一人はリウテスだった。リウテスは、口からおびただしい血を流して倒れていた。
 そして、もう一人。

「ロヨル!!」

 ロヨルの遺体はひどい状態だった。辛うじて顔は判別出来るが、腕はもげて飛び、足はあらぬ方向を向いて、腹の皮が破られ、内蔵がぶちまけられていた。

 サガのやつ、もうちょい加減しろよ。

 カノンは舌打ちしたい気分だった。おそらく、あの使用人は訪ねてきた雑兵を主人の部屋まで案内し、この惨状を目にしたのだろう。朝っぱらから見て良い光景ではない。まるで、轢死体だ。とすると、あの雑兵はそれでもまだ度胸が座っているということか。議場へと戻るだけの根性はあったのだ。

 でも、わからない。
八つ裂きにするなら、リウテスの方だろう。二人とも一瞬で絶命したに違いないが、リウテスには長年の恨み辛みが積もっている。サガの話を聞いた限りでは、ロヨルはたまたまそこに現れただけだったようだ。要するに、巻き添えを食っただけだ。なのに、なぜ……。

「ひどいな……」

 アイオロスがぼそりと言って、小さく十字を切った。

「毛布をもらって来よう」

 サガの口調でカノンが言う。それをアイオロスが止めた。

「奴らが来る前にいじると後がうるさいんじゃないか?」

 カノンがアイオロスを見ると、アイオロスは肩をすくめて言った。

「どうせ血眼になって犯人探しを始めるに決まってる」

 そのとき、ようやく神官たちが屋敷に駆け込んで来た。入り口が騒がしい。神官たちは、リウテスの部屋はどこかとがなりたてていた。先ほどの使用人を吊し上げているのだろう。使用人は放心状態で、とても話せる状態ではない。それが分からないのか、分かってはいるが構わずに続けているのか、神官たちの声はますます大きくなった。

「こちらに」

 アイオロスが声を上げた。

「一番奥だ」

 その声に導かれ、神官たちはぞろぞろと、肩で大きく息をしながら現れた。そして次の瞬間、人数分の絶叫が部屋に響きわたった。

「リウテスさま!リウテスさま!!」
「な…なんという、なんというお姿に!!」
「ロヨル!こちらはエリダヌスのロヨルではないか!!」
「これは…一体……」
「一体誰が……!!」

 神官たちは一斉に二人を見た。

「………」

 二人からの答えを待ちかねて、神官は更に続けた。

「リウテスさまもロヨル殿も聖闘士です。このように撃破出来るものでしょうか」

 ロヨルはともかく、リウテスなら雑兵にだって殺れるだろ。

 カノンは心の中で毒づいた。
 遺体を見ながら、アイオロスが言った。

「攻撃力だけを見れば、白銀以上、か」

 その言葉に、神官たちがどよめく。それは、白銀であってもこれほどの力を持っているのか、という意味なのか、容疑者が絞りきれないことへの不満なのだろうか。

「だが」

 アイオロスが更に続ける。

「昨日の夜、わたしは何の異変も感じなかった。サガ、お前はどうだ?」
「わたしも、まったく感じなかった」

 サガの仮面を着けたカノンが答えた。それを受けて、アイオロスが先を続けた。

「問題は、これほどの攻撃を仕掛けながら、微塵も小宇宙を感じさせなかったという点だ」
「どういうことですか?」

 意味を汲みかねた神官が尋ねる。

「我々は小宇宙を燃やし、原子を砕く。この点は、ご存じだな?」

 アイオロスは、分かりやすく、噛み砕いて説明した。アイオロスの言葉に、神官が頷く。

「強力な攻撃を加えるには、それに応じて小宇宙を燃やす必要がある。その燃焼させた小宇宙の気配を消すというのは、相当な手練れでなければ不可能だ」

 神官たちは固唾を飲んで聞き入っている。

「そして、リウテスも、ロヨルも黙ってやられたわけではあるまい。当然、防御も反撃もしたはずだ。その小宇宙までも完全に消し去っている。そこまで含めて考えると……」
「考えると?」

 こらえきれず、神官がオウム返しに尋ねた。それまで黙っていたカノンが、口を開いた。

「黄金聖闘士でなければ無理だろうな」
「!」

 一瞬、その場は水を打ったように静まり返った。しばらく間を置いて、それはどよめきに変わる。今、サガ様は何と言われた?黄金聖闘士に犯人がいる、と?

「お……恐れながらお伺いします、昨日、サガ様は何をしておいででしたか?」
「おい!」

 あまりに失礼な質問に、アイオロスが気色ばんだ。

「いえ、可能性として、その…一応確認を……」

 神官は言い訳にもならぬ言い訳を口ごもりながら必死に続けた。

「構わぬ」

 カノンが神の化身と呼ばれるにふさわしい、堂々とした態度で、それでいて神官の心情を慮った表情で制した。

「わたしは昨晩、遅くまで調べものをしていた。例の、教皇からご下命仕った(つかまつった)案件だ」
「そ…その……、それを……、証明することは……」

 カノンは慈愛に満ちた表情で、しっかりと頷いた。

「昨晩遅く、教皇から書簡をいただいた。急ぎの案件ということだった。それを持って来た雑兵に聞けば、すぐに分かる」

 その言葉を受けて、目配せされた若い神官が教皇の間へと走った。

「あ……、アイオロス様は……」

 アイオロスは、肩をすくめ、ため息をついて答えた。

「俺はケヒオとアレクサンドルと一緒だった。確認してみてくれ」

 残る一人、まだ幼いうお座の黄金聖闘士の許へも、数名の神官が走った。呆れた。うお座がリウテスを殺すわけなどないではないか。全く、文官のやることはいちいち呆れる。それを明らかに言葉ににじませて、アイオロスがカノンに言った。

「シオン様にも聞くつもりかね。あんたアリバイはありますかって」
「これも彼らの仕事なのだ、仕方あるまい」

 カノンは、サガならばおそらくこう言うだろう台詞を口にしながら、なぜサガが自分にああ口うるさく言うのか、その理由を垣間見た気がした。あらゆる方向からの視点で物事を見、失礼のない―――正確には、敵を作らない―――物言いをする。ひょっとして、サガは、自分にも同じように気をつかっていたのだろうか。

「どうする?俺たちをどっかで監視すんのか?まだ容疑者扱いなんだろ?」
「アイオロス!」

 アイオロスが神官たちに言葉をかけた。その思い切った物言いに、カノンは驚いた。こんなことを言う奴だったのか。自分が、聖域のことを、聖域にいる人物のことをどれほど知らないのかを思い知らされた気分だった。サガが言うように、時折サガの身代わりとなってもう少し参加するべきだったかもしれない。

 雨は、少し強くなって、尚も降り続けていた。



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