■36話■



「聖戦が始まるまで、もう時間がない。それまでにわれわれは何をすべきなのか。少しでも聖域の組織を確固たるものとし、一人でも強い聖闘士を育てておくべきなのではないか?わたしは、あなたと力を合わせ、尽力していきたいのだ」
「………」
「わたしにとってあなたは師だ。わたしとあなたは、聖域に於ける正式な師弟関係ではないと聞くが、そんなことは関係ない。あなたという師に出会えたことを、わたしは女神に感謝している」

 闇と静寂に支配された空間に、サガの声だけが響く。

「だから、あなたのリウテスに対しての気持ちも十分わかっているつもりだ。他の方法を見つけることが出来れば、わたしはこんなことは決してしなかった。わたしの力不足については、謝るよりほかない。だがロヨル、あなたならば分かってくれるはずだ」

 それまでリウテスの遺体にとりすがっていたロヨルが、顔を上げた。
ロヨルの視線が、まっすぐにサガを射抜いた。

「こうすることが、一番良い方法であったと」

 ロヨルは、じっと黙ったまま、サガを見ていた。

「教皇には、時期を見てわたしから話す。それまでこのことはわたしとあなただけの秘密にしてほしい」

 リウテスの悪行は、確かに放っておけるものではなかった。そして、教皇にそれを訴えたところで、事態が好転するとは思えなかった。教皇シオンは鉄血の人であったが、リウテスは聖域の大部分を牛耳っていたため、更迭するには事態が複雑過ぎたのだ。

 ロヨルはじっと考えていた。
 リウテスがいくら権力の座にあったとはいえ、ここまで放置して来たのには自分たちに責任がある。年下の、しかも弟子とも言えるサガにこのような始末を押し付ける形になってしまったことをロヨルは悔いていた。

 いや、今までの聖域に風穴を開けるのは、この若い世代なのかもしれない。権力や今までの慣習を恐れ、さまざまなしがらみに縛られて、自分たちではどうすることも出来なかった。それをサガはやすやすと打ち破ってみせた。ここはサガにすべてを任せるべきなのかもしれない。
 そう思った次の瞬間に、ロヨルの心はそれを否定する。

 いや、そうするにはあまりに事が大きすぎる。当初の判断のとおり、教皇に報告せねばならないのではないか。

 ロヨルは、リウテスの亡骸を見つめたまま、思い悩んだ。


 あと一歩だ。

 サガは、ロヨルの逡巡を見てとった。
 教皇へ告げられることだけは、何としても避けなくてはならない。教皇の指示を待たず、このような重大な決断を勝手に下したことを教皇に知られたら、自分の評価が著しく下がってしまうかもしれない。

 ここのところ、次代の教皇が近々選ばれるという噂がひっきりなしに囁かれていた。教皇は、黄金聖闘士の中から選ばれる。自分たちよりも年若い、数名の黄金聖闘士が新たに選任されていたが、教皇に選ばれるのは自分か、アイオロスのどちらかであることは明らかだった。順当に行けば、自分が選ばれるとサガは思っている。教皇というのは、武官というより文官の色合いが濃い役職である。武官である聖闘士や雑兵たちだけでなく、文官である神官やそれに追随する役職の者たちもとりまとめていかなくてはならない。それはサガの方が適任であると周囲も認めていた。

 そして、これは周囲は預かり知らぬことであるが、サガにはカノンがいる。サガが教皇に昇格しても、双子座の聖衣を纏うに十分な人物がもう一人いるのだ。戦力の面から考えても、サガを教皇に選ぶ方が合理的と言えた。

 この有利な背景がありながら、みすみすそれを棒に振ることだけはサガは何としても避けたかった。

「ロヨル。わたしを信じて欲しい。聖域のためをさまざまな面から考えての行動だ。教皇へはわたし自ら報告したい。わたしに任せてくれ」

 ロヨルは尚も苦渋の中にいた。サガの言うことは分かる。だが、だが、教皇へ言わなければならない気がしてならない。

「頼む、ロヨル、頼む!」

 振り切るようにロヨルが顔を上げた。

「教皇に報告する」
「………!」

 サガは拳を握りしめた。

「わたしも聖闘士だ。教皇への報告は、聖闘士としての責務だ。サガ、お前を信頼していないということではないのだ、わかってくれ」

 サガの拳は、小さく震えていた。サガは、怒りで目が眩みそうだった。

 愚かな。聖域のためだというのが、なぜ分からないのだ。しかも、わたしがリウテスを殺したおかげで正式に聖闘士になれるというのに。聖衣を纏う誉れを手に入れたというのに。

 殺してしまえ。

 奥深いところから、声が聞こえた。
カノンの声だった。いや、自分の声か?

 こやつがこんなにも愚かな人間だとは思わなかった。馬鹿は、厄介だ。わたしが何を思ってこのようなことをしたか、どうあっても理解することが出来ないのだ。リウテスなど、いない方が聖域のためなのに。がん細胞であることが分かっているのに、摘出せずに捨て置いたらどんな結末が待っているかを思えば、答えは明ではないか。様々な事情があるのは分かる。だが目先のそんな些末なことに囚われて、大道を見失っては聖戦など勝てるはずがない。こんなことも理解できないような馬鹿は、いない方が良い。聖戦が起きた際、また面倒なことを言って足を引っ張るに決まっている。

 こんな馬鹿は、いない方が良い――――。

 奥深いところから聞こえてくる声が、もう一度繰り返した。



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