■35話■ 今や、月は沈もうとしていた。先程まで天高く在り、白く輝いていた月は、今は地平すれすれのところで不気味な赤い光を放っていた。 「遅い……!」 双児宮で待てと言われたカノンは、いらいらとサガを待っていた。 あれからもう何時間が過ぎた?自分を追い返して、サガは一体何をするつもりなのだ。何をするにしたって、これではあまりに遅すぎる。 そのとき、カノンは不意に人の気配を双児宮の扉の外に感じた。 やっと戻って来た……!もうすぐ夜明けだ。一体今まで何をやっていたのだ。 カノンは安堵した。サガが戻ったことはもちろんだが、今までの不満をサガにぶつけることが出来るのが、安堵の最大の原因だった。第一声、何と言ってやろうかと思いながらカノンは扉を開けた。そして、息を飲んだ。そこに立っていたのは、サガではなかった。扉の外に立っていたのは、簡素な皮鎧を着けた雑兵だった。 カノンは彼に気取られることのないよう、細心の注意を払いながらサガのふりをした。 「こんな時間に、一体何用だ」 「はっ」 彼は軽く一礼すると、用件を切り出した。 「双子座のサガ様。教皇より親書をお預かりして参りました。至急の用とのことにて、内容を早急におあらためくださいますよう」 「相分かった」 雑兵は親書を手渡すと、再び一礼して踵を返した。 至急の用? カノンは一瞬親書を開けたいという衝動に駆られた。だが寸でのところで思いとどまった。そんなことをしたら、サガに何と言われるか分かったものではない。リウテスとのこの一件で、サガは十分に気が立っている。ここでこの親書の封を切るなど、火に油を注ぐ以外の何物でもない。 そこまで考えて、カノンははたと我に帰った。教皇が何を考えているかなんて、自分には関係のないことではないか。 カノンは自分を恥じる思いだった。 馬鹿らしい。どうせくだらないことが書かれているに決まっている。聖域がどうなろうが、教皇が何をサガに指示しようが、知ったことか。 カノンは必死で自分の気持ちを取り繕った。 「り……、リウテス様!リウテス様!!」 リウテスの館に現れたのはロヨルだった。サガとカノンに体術を教えた、二人の師匠とも呼べる人間だ。ロヨルはリウテスに駆け寄り、リウテスを抱き起こした。リウテスは白目を剥き、口からは血の泡を吹いて琴切れていた。 「サガ…!これは……、これは一体どういうことだ!お前はなんということをしたのだ!!」 サガは慌てた。ここにロヨルが現れるなど、予想だにしていなかった。落ち着け、落ち着け。自分は間違ったことは何一つしていない。サガは自分に言い聞かせ、一つ深呼吸をしてから口を開いた。 「黄金聖闘士としての務めを果たしたまでだ。リウテスは聖域の資産を私用に流用し、それを暴いたわたしを殺そうとした。わたしに己の罪をなすりつけて」 ロヨルはじっとサガを見据えていた。 「聖闘士として、聖域を束ねる立場に在る者として許される行為ではない」 「だからと言って殺すことはなかったろう!教皇に伝え、沙汰を仰ぐべきではなかったのか!」 「リウテスはわたしを殺そうとしたのだ。教皇直伝のクリスタルウォールにわたしを閉じ込めたのだぞ」 「正当防衛だと言いたいのか!」 ロヨルの瞳は、強くサガを責めていた。 「お前なら、殺さずに済ませることも出来たはずだ!」 「………」 確かに正論だ。じっと黙ったサガを見つめながらロヨルは言った。 「教皇に報告させてもらう。これは私刑だと言わざるを得ない」 聖闘士が私益のためにその拳を振るうことは固く禁止されている。桁外れの力を秘めたその拳を己のために使ったら、どのようなことが起こるかは想像に難くない。 サガは焦った。違う、断じて私刑などではないとサガは叫びたかった。だが、果たしてそう言えるだろうか。 もしもリウテスにとどめを刺さず、然るべき場へと引き出したとしたら、リウテスはカノンの聖域脱走を教皇に話してしまっただろう。カノンの街での行いも叶う限り誇張し、見過ごすわけにはいかぬ悪事に仕立て上げて報告したはずだ。そして、カノンがリウテスを殺そうとしたことは決定打だった。 リウテスも罪を問われるだろうが、カノンも無罪というわけにはいかない。リウテスは悔しいが聖域の重鎮だ。だがカノンは。 「違う!私刑ではない!ロヨル、私情を抱いていたのはリウテスの方だ。リウテスは以前カノンに拳を向けられたことをずっと根に持っていた。常にカノンを陥れる機会を狙っていたのだ。わたしは、カノンを守りたかった」 「………」 リウテスがカノンのことを快く思っていないことはロヨルも知っていた。カノンにも不敬な振る舞いがあったことは事実だが、それにしてもあのように粗探しをされてはたまらない。誰であったとしても非難されるべき点の一つや二つは見つけ出されてしまうだろう。 「わたしがカノンを守りたいと思うのは肉親の情だけではない。肉親の情が一片もないとは言わぬ。だが、カノンは聖戦において欠かすことの出来ない戦力だ。黄金聖闘士たるわたしと互角の力を持っているのだぞ。こう言っては何だが、リウテスとその力を比べるべくもない」 これは確かに事実だった。リウテスは前線に立てる年齢ではなかったし、ぶくぶくとだらしなく太って走ることさえままならない。いわんや冥闘士との殺し合いなど出来ようものか。 「そのリウテスがカノンを抹殺することなど、黄金聖闘士としてわたしは見過ごすことは出来なかった。カノンの存在が秘されている以上、カノンを守ることが出来るのはわたしだけだ」 「………」 ロヨルは口を固く結び、じっと黙って立っていた。ロヨルは、自分が二人を指導したあの頃を思い出した。二人とも驚くほど飲み込みが早かった。ときに競い合い、ときに協力しながら訓練をこなした幼い二人。今、目の前に立つサガは青年の相を帯びていた。あんなに細かった身体もずいぶんがっちりした。 「それに……」 サガは言いかけ、逡巡する素振りを見せた。 「それに、なんだ?」 ロヨルはサガにつづきを促した。 「これは言うまいと思っていたのだが……」 サガはしばらく言い淀んだあと、語りはじめた。 「ロヨルのことも考えていた」 「俺のこと?」 「そうだ。わたしは、ずっとリウテスは譲位するべきだと考えていた。あなたという後継者がいながら、なぜ聖衣を返上しないのかと」 ロヨルはサガの思いもしない言葉に驚いた。 そう、ロヨルはリウテスの弟子だった。まだ聖闘士が数えるほどしかいなかった聖域で、ロヨルはリウテスの厳しい指導を受け、聖衣を授かった。が、それは驚いたことにリウテスが所持していたエリダヌス座の聖衣だった。主を持たぬ聖衣が数多くあるなか、ロヨルを主と選んだのはエリダヌス座の聖衣だった。こういうこともあるのかと人々は驚いた。神意とはかくなるものかと思わざるを得なかった。リウテスは聖闘士の位を退き、教皇を補佐し、神官や雑兵たちを取りまとめる役に徹するものと誰もが思った。だが、リウテスは未だその時ではないと言い、ロヨルへと聖衣を譲ることなく在位し続けた。 あれから何年の時が過ぎたのか。今すぐ聖戦が始まるわけではないから、聖衣を誰が所持していたところで問題はない。事情を知る誰もが釈然としないまま時間は過ぎて行った。ロヨルは聖闘士と認められながら聖衣を持たぬまま、候補生たちの指導にあたっていたのだ。 「サガ、お前、知っていたのか……」 「もちろんだ。わたしはずっとエリダヌス座の聖衣を持つべきなのはあなただと思っていた。なぜあなたがそれを主張しないのか、不思議でならなかった。だが、わたしでは窺い知れぬ事情があるのやもしれぬ。そう思ってずっと黙って見ていた」 聖闘士ならば、聖衣を手にしたいと思うのは当然のことだ。それを主張することなく、ずっとこらえて来たロヨルの心境はいかばかりのものだったか。 「その真相が、リウテスの自分勝手な都合だったとはな」 「………」 じっと黙ったロヨルの横顔を見ながら、サガは続けた。 「横領のことやカノンのことと併せ、もはやこうするのが最良の方法であるとわたしは決断したのだ」 空の低いところで輝く月は、ますます赤く染まっていた。 |