■黄昏■ 時は、夕暮れだった。あの日アイオロスと見た夕暮れを、サガは今日、神官たちと再び見ていた。遠く、地平へと夕日が沈む。あの日と同じように、きらきらと地中海が金色に輝いていた。 サガと、アイオロスと、若い神官たちは、まるで学生が課外活動を行うかのように、毎日集っては語り合っていた。 今日も、いつものように人馬宮へと集まる予定だった。これから向かおうとしていたそのときに、不意にリウテスから声が掛けられた。 「教皇猊下のお召しにございます」 教皇から呼び出しがかかるとは、まったく予想していなかった。サガは、嫌な予感に囚われたが、それを顔に見せることは全くせずに、神官たちに後から行くと合図をし、呼びに来たリウテスとともに教皇の間へと向かった。普段謁見の行われる教皇の間をリウテスはそのまま通り過ぎると、その奥にある教皇の執務室へとサガを連れて行った。 サガは、教皇の執務室へ足を踏み入れるのはこれが初めてだった。黒光りのする、重そうな木製の扉は、ここに備え付けられて一体何百年が経っているのだろう。 リウテスが扉を叩き、サガを連れて来たことを教皇へと告げる。扉の向こう側から、教皇の静かな声が中へ入るようにと答えた。 リウテスが扉を開ける。ち、とほんの僅かな金属音を立てて、その扉が開いた。執務室は、思いのほか簡素なものだった。いや、机も、神話の時代からの伝承が記載された書物が収められている棚も、おそろしく上等なものだろう。 教皇は、黄金聖闘士から選出される。いわば、武官の出だ。質実剛健を旨とし、部屋にも、家具にも装飾など一つもないことが、武官の出だということを強く印象づけた。 教皇は、サガに応接のための長椅子に座るようにすすめた。リウテスも、ともに座ろうとすると、教皇はそれを制して言った。サガと、二人の話だ、と。 それまで、リウテスは教皇の話を全て聞いて来た。先にアイオロスが黄金聖闘士としてその責につくまで、リウテスは教皇と共に人払いをする側であって、されたことなど一度も無かった。アイオロスに続き、サガが黄金聖闘士となって以来、その頻度は徐々に上がって来ている。 リウテスはちらりと不服の色を顔に覗かせたが、すぐにそれを引っ込めると、それでは、と一言だけ言って部屋を出て行った。 先ほどと同じ金属音が再び聞こえ、重厚な扉が静かに閉められる。リウテスの足音が、徐々に遠ざかって行った。サガは黙って、横目にそれを見ていた。 「さて」 教皇は執務のための机から立ち上がると、自分が薦めた長椅子へは座ることなく、窓際へと立った。 「どうだ十二宮は。少しは慣れたか」 サガは、こうして教皇と二人きりで話すのはこれが初めてだった。ひどく緊張していた。 「は。徐々にではございますが。ですが、まだまだ至らぬ点ばかり。一日も早く、黄金聖闘士の名に恥じぬ振る舞いが出来るよう、努力してまいる所存にございます」 「なにをそんなに緊張しておる。そんなに固くならずとも良い」 そうは言われても、サガは緊張を解くことが出来なかった。まだまだ礼儀作法が出来ていない。口うるさく、リウテスに指摘されてばかりだ。教皇に、失礼があってはならぬ。それを見抜いたように、教皇が言った。 「なかなか、そうも行かぬか」 教皇は、少し笑っていた。 「お前とも、これから何度も話をして行かねばならぬ。我々は、ともに手を携え、冥王と戦うこととなるのだからな。すぐにとは行かずとも、篤い信頼を築かねば」 サガは、黙って、だが、その言葉を重く受け止めた。 「さて」 いよいよ本題に入らんとばかりに教皇はサガの正面へと腰を下ろした。仮面の下の瞳が、じっとサガを見ていた。 「あやつはどうしておる」 「は」 咄嗟のことに、サガはなんのことか分からなかった。 「カノンだ。ずいぶん荒れたそうだが、どうだ。落ち着いて来たか」 サガは、答えに窮した。それを聞いて、そんなことまで報告されているのかと思った。そう思ってから、当然のことなのだと思い至った。リウテスも、ロヨルもカノンの行動に目を光らせている。双児宮の私室へ入ってからは、さすがに監視とまでは行かなくなったが、それでもサガと話すときに、必ずと言って良いほど探りを入れられた。 サガは、カノンが居ないことを必死に隠さなければならなかった。双児宮にある書物をカノンは読み耽っている。幸いなことに、アイオロスもたくさんの、そして重要な古書を貸してくれた。自分とともに、カノンもそれらを勉強し、さまざまに試してみている。自分が、カノンの行動を責任を持って監視しているから、安心してくれ、とサガは何度も二人に繰り返した。 カノンが居なくなってしまってから、もうすぐ一月が経とうとしている。サガも十二宮はもちろん、聖域周辺まで捜索の範囲を広げたが、カノンの気配すら掴めずにいる。 教皇には知られていないはずだ。知られていないと思う。まさか、全てを知って、こんな鎌賭けをしているわけではないだろう。教皇は、サガの気持ちを知ってか知らずか、それまでと全く口調を変えることなく続けた。 「あやつとも直接話さねばなるまい。話してきかせねばならぬこともある」 サガは、気味の悪い汗をその手に握った。 「あやつをここに寄越してはくれぬか」 どうしよう、何と答えるべきか。とにかく、是、といえないことだけは確かだ。なんとか、時間を稼がなければならない。 「……怖れながら」 サガは必死で口を開いた。緊張のあまり、妙に掠れた声がその喉から絞り出された。 「今しばし、お時間をいただきたく」 教皇が、黙ってサガを見ている。 「やっと、落ち着いて参ったところなのです。今しばし、お待ちください」 教皇は、それを聞いて、静かに言った。 「そうか。まあ、荒れる気持ちも分からぬではない。わたしがお前たちの年であったら…、そうだな、宮の壁を一つ破るでは済まなかったろう」 「………」 サガは驚いた顔をして、教皇を見つめた。教皇の表情は、冷たい鉄の仮面の下だったから見ることは叶わなかったが、その目は、笑っているように見えた。 「なにを驚いておる。わたしは黄金一の問題児であったのだ。先輩方に呆れられたものだ。短気が過ぎて、真っ先に戦死するだろうと目されておった」 教皇は、変わらず頑なな自分の態度をほぐそうとしているのだろうか。老獪で、冷徹な人物だとリウテスから散々聞かされてきたシオン像との違いに、サガは驚かずにはいられなかった。 「わたしに比べ、実に良く出来ていると感心している。アイオロスも、お前たちも。ことに……お前たちはよく耐えておる」 その言葉に、サガの心は強く揺らいだ。 ほんとうのことを、話してしまおうか。この人は、自分達の力になってくれるかもしれない。教皇が、自分達の味方をしてくれれば、こんなに心強いことはない。 「恐れながら……」 サガはおそるおそる口を開いた。本当のことを、言おうと思った。だが、そのときサガは聖域のあの掟を思い出したのだった。 聖域脱走は死罪。 教皇が自分たちに理解を示し、味方してくれればそんな掟なぞは握りつぶせるだろう。だが、もしも掟は掟だと言ったら?下の者に示しがつかぬと判断する可能性は充分にある。 そうなったら、カノンは……、カノンは……。 「今少し、お時間を。もう少しで、落ち着きます。わたしが、責任を持って必ずカノンを落ち着かせます」 教皇は、しばらく黙ってサガの顔を見つめていた。全てを知っているようにサガには思えてならなかった。サガは、息をつめて、教皇の答えを怯えながら待った。 「そうか、分かった。時期はお前に任せよう。あやつに会える日を、わたしは楽しみに待つこととしよう」 サガは、目を伏せたままで頷いた。何もかもを見透かしてしまいそうな教皇の目が恐ろしくて、顔を上げることが出来なかった。 |