■On the floor■ 腹の底から突き上げるような低音が響く。激しく明滅するライトが、暗闇に蠢く人々の姿を浮かび上がらせては消える。自光する柱が天井へと弧を描いて伸び、その中心には豪奢なシャンデリアが吊るされていた。 「どう?新しいドレスなの。今日はエラウンが回すから買っちゃった!」 「エラウンは特別?」 「ええ!マックスも良いけどやっぱりエラウンね!最高の気分で踊りたいもの」 「メイクもいつもと違うだろ?」 「ええ?メイクは変えてないわよ?」 「じゃあ新しいドレスのせいだね。いつもと全然違って見える。かわいいよ」 女はひときわ大きな嬌声を上げて身をひねった。 「踊っておいで。ここで見てるよ」 ダンスフロアから一階分上がったところにしつらえられた、ひときわ豪奢な一画から、女は身をくねらせながら降りて行った。女と入れ替わるように、男が数人、その一画に滑るように入って来た。 「どうだ?」 「上々です。今日手紙が来ましたが、色々と情報を得ているようです」 「そうか」 「まぁ初歩中の初歩ですが、だいぶそれっぽくなって来ました」 ソファに座る男は満足気に頷いた。口元に密かな笑みが浮かんでいた。カノンはそのやり取りを黙って見ていた。 「それっぽくなってきた男」というのは麻薬を売り捌いて捕まった男のことだ。男、と言っても、カノンとさして変わらない年の少年である。法の裁きを受けて、今は収監されている。 己の罪を悔やみ、改めるための施設に入れられても、そこで行われるのは情報交換だ。品物の品質の情報であったり、安く仕入れるためのルートであったり、有能な先輩運び屋からの指南であったりする。己の行いを悔い改め、まっとうな人間になるどころか、より薬物の情報に精通した人間となって出て来るのだ。これでは彼が囚われているのは、公正施設どころか教育機関だ。 「フォローも忘れるなよ」 「もちろんです」 お前が出てくるのをいつまでも待っている。お前が出てきたら、みんなで盛大なパーティを開こう。お前は俺たちの大切な仲間だ。お前のことをいつも思っているよ。 温かい言葉を手紙にしたため、まめに物資を送ってやる。自由もなく、息の詰まるような施設の中で、こうしたものはどれほど嬉しいか知れない。彼はこの恩義を決して忘れないだろう。彼は、出所パーティで、施設で得た情報を披露する。組織の男たちはそれを褒めそやす。彼は認められた嬉しさになお研鑽を積むようになる。 組織はこうやって投資し、やがては組織に莫大な利益をもたらす凄腕の売人を育てるのだ。 俺も、同じように篭絡されたのかな、とカノンは思った。ソファに座っている組織のボスであるバシーヨは、濃いサングラスを掛けていてその目を見ることは叶わない。彼が何を考えているのかわからなかった。 結局、愛情なんてものは利害の上に乗っかって、ふわふわ漂っているだけなのだ。自分の益のために、愛しているということにして、うまいこと利用する。要するに、馬の目の前に吊るした人参ってわけだ。 男は部下をねぎらい、ソファに座るよう進めた。給仕の女がすかさず酒を持って来る。ボスは部下たちに配ろうとした給仕を制した。 「もっと良い酒を。俺の名前で入れてあるアレを持って来てくれ」 そう言うと、胸のポケットから財布を取り出し、「足代だ」と言って部下たちに札を配った。 カノンは当初、この行動の意味が理解出来なかった。なぜ交通費として一番大きな札を配るのだ。すぐ近所ではないか。どう考えても、一番小さな札か、何枚かのコインで足りる。だが部下たちは恭(うやうや)しくそれをいただき、そのまま胸に納める。 これが報酬なのだとすぐに分からなかった自分はなんと馬鹿なのだろう。なぜ誰も釣り銭を差し出さず、ボスもそれを咎めないのかと考えたのだからほとほと呆れる。世間知らずと言う奴だ。あんな聖域なんかにいたからだ。自分も流れる時間からすっかり取り残されたのだ。 自分はどれほどの田舎者と彼らの目に写っただろう。カノンは顔から火が出る思いだった。 幹部のために動けば、破格の報酬が得られる。上層部に近づけば近づくほどその価格ははね上がる。だから部下たちは幹部の目に止まるべく、手柄を立てようと血道を上げる。危険であればあるほどその価値は高い。実に、良く出来たシステムだ。 そこまで考えて、いや、待てよ、とカノンは思った。聖域だって同じ仕組みではないのか。その報酬が現金ではないというだけで、システム自体は全く同じなのではないか。 まったく上等だ。世界の愛と平和を守るための女神の戦士は、街のごろつきと何も変わらない。人間なんて、どこに行っても結局は同じなのだ。 「カノン」 バシーヨがカノンを呼んだ。物思いに耽っていたカノンは、現実に引き戻された。バシーヨのすぐ脇に座る。カノンは、ボスのお気に入りになっていた。自分よりも古くからいる連中がやっかむかと思ったが、不思議とそれは無かった。 「俺たちの世界は実力が全てなんだ。弱肉強食。自然の摂理だろ?」 仲間の一人はそう語った。あの大人数を向こうに回して、一歩も引かないどころか、彼らをいいように弄んだカノンは、すぐさま一目置かれる存在となった。強い者は強いと認める。単純で潔いルールが、この世界の全てだった。 ソファはとても奥行があって、カノンの身体全体を受け止めた。力を抜いて、とてもリラックスすることが出来る。柔らかな皮が使われて、とても肌触りが良かった。階下を見下ろすと、数え切れないほどの人間が、音楽に合わせて身体を揺らしていた。 「話は聞いていたか?」 バシーヨは、小声で喋った。 「ああ」 「もうひと月もすれば、そいつが出てくる。そうしたら、お前に見てもらいたい。モノになるかどうかをな」 「俺に?」 「ああ。お前なら見抜けるだろう」 「買いかぶりすぎだよ。なんで俺なのさ」 耳をつんざくような爆発的な音に阻まれ、二人の会話は他の男たちには聞こえなかった。 「お前は他の連中とは違うよ、カノン。特殊な教育を受けたんじゃないのか?」 探るような目で、バシーヨはカノンの瞳を覗き込んだ。 「あのときの身のこなしといい、『グランドパパ』の前での振る舞いといい」 「俺のことは詮索しないって約束だろ?」 「そうだったな。特殊な教育でないなら、お前には特別な才能がある。お前の立ち居振る舞いや、物言いを見ていればわかることだ」 カノンは、聖域で教わった通りの振る舞いや、サガの物の言い方を借用すればするほど、組織の幹部たちに認められた。最近ではもっと上の、いくつもの組織を束ねている最高幹部である『グランドパパ』にさえ名指しで用事を頼まれるようになった。 俺の、居場所はここなのかな……。 カノンは、最近よくそれを考えた。 聖域へは、もう帰りたくない。人間には、居場所が必要だ。自分のために用意された部屋があって、自分を必要としてくれる人がいる。もう、聖域のことは忘れて、完全にここの人間となってしまおうか。いや、でもやはり帰らなければならないだろうか。 今日という日は二度と来ない。 今を生きよう。人生を謳歌しよう。 夢のために金を掴め。幸せのために地位を手にいれろ。 成功者として、美酒を煽ろう。 夢を掴め。夢を掴め。 巧みに音を組み合わせ、煽動的な旋律に仕立てあげられた音楽がこの大きな箱に響いていた。 仲間たちは今日も派手に飲み、騒いでいた。 「ねえボス、義理と人情と、どっちが大事なんですかねえ?」 赤い顔をして、仲間の一人が不意に訪ねた。冗談めかしてはいるが、ボスはなんと答えるかは皆が注目するところだった。バシーヨは事も無げに答えた。 「そんなもの、気分次第さ。これと決めて、頑なに守る必要なんかない。結局、人生なんて気分次第だ。やりたいようにやれば良い。泣くのも、笑うのも自分だ」 その言葉は、カノンの心を揺り動かした。 その通りだ。泣くのも、笑うのも自分だ。 「義理も、人情も上手いこと大切にするのさ」 何かのために、全てを犠牲にする必要なんてない。 それまで、カノンはそんな風に考えたことはなかった。聖域では、そんな考え方は許されなかった。もっと真剣に、いや深刻に考え、問われればきちんと説明出来るように行動しなければならなかった。 でも、思えばそんなの不自然だ。人間なんだから気分が変わることだってある。一貫性がないとか、整合性に欠けるとか、そんな大仰に非難されなきゃいけないことなのか。 カノンは漠然とした疑問を抱いていた。兄のように、突き詰めた考え方をして、全責任を自分で負うなんて、そこまでしなきゃいけないか?もうちょっと、やりようがあるのではないか。 そうだ、力を抜いて、もっと気楽に生きれば良い。肩肘張っていれば、良い結果が出るわけでもないだろう。 そうだとも。『気分次第』だ。じゃあ、明日ちょっと聖域に戻ってみよう。兄貴の顔も見たいしな。どうせ小言を言われるんだろうが、嫌になったらまたここに戻ってくれば良い。 吹きすさぶ嵐の日もある、油を流したように凪いだ日もある。 それでも、今を生きよう。明日は、来るのだから。 甲高い男の声が、叫ぶように何度もそれを繰り返し歌っていた。 |