■クルラキャ■ 朝。時間はもうすぐ8時なろうとしていた。昨日遅かったせいで、サガはいつもより起きるのが遅かった。8時ともなると、太陽はすでに強烈な日差しを放っていて、外を見るのには目を細めずにはいられない。 私室とは言うが、ここはもともとは守護星座を一にする軍団の堡塁(ほうるい)である。数十人がここに屯営出来るだけの広い面積を有している中、今住んでいるのはサガ一人だ。どこもかしこも、間抜けなほどがらんとした空間が広がっている。サガは厨房へと歩いた。足音が、驚くほど響いた。 一人、朝食を用意する。クルラキャ、と呼ばれるクッキーだ。ギリシャでは昼食を最も重く摂る。だから、朝食は簡単に済ませるのが一般的だ。 毎夜のように集っては、様々な話をする若い神官たちは、難しい話題ばかりでなく、思わず微笑んでしまうような話もサガに聞かせた。昨日の話はことに面白かった。神官たちは生え抜きのエリートだったが、その選抜試験に望む際に、このクルラキャで願掛けをするというのだ。 三種類のナッツの入ったクルラキャを三つに割って食べると、試験に合格出来る。もう何代も前から伝わっているのだそうだ。ただし、歴史の試験の日だけは食べてはならない。歴史の日にナッツのクルラキャを食べると、大失態を犯して、それまでの努力が全て水泡に帰してしまう。歴史の試験の日は、甘すぎるほどはちみつを掛けた、ヨーグルトを食べなければならない。 これに由来し、聖域の住人たちは、このクルラキャとハニーヨーグルトを願掛けのアイテムとして愛用するようになったという。 教皇の間から人馬宮へとやってきたサガは、心ここにあらずという状態だった。教皇とサガの間でどんな会話がなされたのかは知る由もないが、神官たちはサガを元気付けるべく願掛けの話をしたのだろう。アイオロスもその会話に同調し、願掛けの聖闘士バージョンを披露した。左手で、右手のバンテージに「必勝」と書くのだという。神官のそれとは違う、単純この上なく、ストレートすぎるその願掛けがいかにも聖闘士らしいと皆で大笑いをした。彼らのその心遣いに、サガは深く感謝した。 クルラキャに込められた、人々の、小さな願い。微笑ましくも涙ぐましいその心の底からの祈り。サガは、それに平和と幸福を見た。自分が守るべきは、人々のこうした些細な日常なのかもしれない。 では、わたしも神官風に願をかけてみようか。サガは楽しそうに笑って、神官にそのクルラキャを持って来てはくれないかと頼んだ。珍しいサガの表情を見て、若い神官は一も二もなく快諾した。アイオロスは聖闘士らしくバンテージに書けと叫んだ。またしても皆で笑った。 「サガ様はなにを願うのですか?」 神官たちは好奇心に目を輝かせて、サガに聞いた。 「教えてしまっては、願掛けにならないのだろう?」 サガはいたずらっぽく笑って、質問を交わした。 サガの願いは言うまでもない。カノンの一日も早い帰還である。楽しそうな笑顔に隠した、誰にも話せないサガの願いだ。 昨日の話を思い出しながら、サガはクルラキャを伝統のとおりに三つに割った。この形が均等であればあるほど、願いがかなう確率が高くなるのだと言う。サガの手の中で、クルラキャは無残に大きく二つに割れた。力を入れすぎてしまったようだ。もう、均等にすることは叶わない。仕方がないから、片方のうちの一つをもう一回割って三つにした。 今日も、戻らないか。 サガはカノンが戻らないことにもうすっかり慣れてしまった。ナッツがひとかけら、クルラキャからぽろりと落ちた。 そのとき、バタンという扉が閉まる音をサガの耳は捕らえた。音がした方へと目をやる。そこには、信じられない者の姿があった。 「――――カノン……!」 サガは、俄には信じられなかった。 「お前……、戻って…来たのか………」 カノンは憮然とした表情のまま、サガの座るテーブルまで歩み寄った。 「なんだよ、自分ちに戻って来ちゃ悪いか?」 サガが用意した、ミルクの入ったグラスを手に取ると、カノンは一気に飲み干した。グラスをテーブルの上に置くと、カノンはサガの瞳を覗き込みながら言った。 「ああ、自分ち、じゃねえか」 サガは、カノンの言わんとすることを掴みかね、黙っていた。 「ここは、兄さんのお宅でしたっけ。お邪魔しまーす」 カノンは、サガをからかうように言った。 「いいなぁ、クルラキャ。俺、腹減ってるんだよね。兄さん、俺の分は用意してくれないの?冷てえなぁ。俺、愛されてないんだなぁ」 いつ戻るか分からないのに、用意のしようなどあるものか。だが、その言い回しはカノン得意がとする嫌がらせだ。挑発に乗ってはいけない。サガはそれには取り合うことなく、カノンに割れたクルラキャを突きつけて言った。 「今までどこに居た」 カノンがサガの手からクルラキャを奪うように取った。そして、それを口へと運ぶ。クルラキャが割れる、乾いた音が聞こえた。 「聖域から出るんじゃない」 「なんだよ、ナッツか。プレーンないの?」 カノンはサガに一向に取り合わない。 「お前が聖域から出ていることが知れれば、大変なことになる」 「兄さん、俺、コーヒー飲みたぁい」 「カノン!お前がここに居ないこと隠すのがどれだけ大変か分からないのか!」 カノンはその言葉を聞くと、サガの方へと向き直った。瞳には、怒りの色が浮かんでいる。 「隠さなきゃいいだろ?」 「なんだと?!」 「俺はもともと存在しない人間だ。いない人間が居なくなったんだ。何を隠すんだよ?隠すことがなくなるのが本当だろ?」 「建前ではそうだろう、だが、お前はれっきとして存在している。お前のことを知るリウテスやロヨルには隠し通すことがどれだけ大変か、考えてくれ!」 サガは教皇のことを話そうか逡巡した。だが、自分の直感が、今それを話すことに警鐘を鳴らしていた。 「ねえ、そんなことより、コーヒー入れてってば」 「カノン!」 「砂糖も、ミルクもたっぷり入れて欲しいなぁ」 「ふざけるんじゃない!真面目な話をしているんだ!」 カノンは一つため息をついてから、サガに向かって口を開いた。 「しらねえよ」 「なんだと?!」 「しらねーっつってんだよ。オメエが勝手に苦労してんだろ?いつ俺が隠してくれって頼んだ?俺は頼んでねえよな?オメエが隠したいから隠してんだろ?オメエの都合なんか知ったこっちゃねえ。それを恩着せがましく言うんじゃねえよ」 サガはあまりのカノンの言葉に絶句した。押し黙るサガを尻目に、カノンは、相も変わらずクルラキャをかじっていた。しばしの沈黙のあと、サガがようやく口を開いた。 「……カノン、お前も知っているだろう?脱走は死罪だ」 カノンは聞こえよがしなため息を一つついてから、サガに言った。 「なあ、サガ。俺を殺せるのって、誰?」 挑発の色をありありとその瞳ににじませて、カノンは続けた。 「俺を殺せるのは、射手座のあいつか兄さんしかいないよなぁ?」 「………」 「射手座のあいつがそんなことしてきたら、俺、あいつぶっ殺しちゃうよ?俺、あいつ嫌いだもん」 ぽり、ぽり、とナッツをかじる音がした。深刻な話をしているときの態度ではない。 「あ、でも俺のことは極秘なんだっけ。あいつにも知られちゃいけないんだよな。じゃああいつが来ることは有り得ないのか」 カノンはそう言うと、サガの方へと向き直った。じっと、サガの目を覗き込みながら言った。 「じゃあ、兄さんか」 「………!」 「兄さんが、俺を始末するわけだ」 冷たい光を、カノンはその瞳に宿しながら言った。 「やってみろよ。やれるもんならな」 カノンは、腹の底から絞り出すような低い声を出した。サガは思わずその声に怖気を振わずにはいられなかった。 「……カノン、もう、街へは行くな。ここに居るんだ。今は耐えるんだ。わたしが、わたしが必ず何とかするから……」 サガはカノンの挑発に乗らないよう、必死に自制した。カノンには、恐ろしく残忍な部分があった。それは時折顔を覗かせて、サガを恐怖させた。限度を知らないのだ。怒りにまかせ、徹底的に相手を攻撃する。逃げ道を一つ一つ塞いで、どこまでも相手を追い詰める。相手がサガであれ、教師ロヨルであれ、時折それは発揮された。 これがもし、教皇に向けて発せられたら……。事実、一度カノンには前科がある。あの双子座の認定試合のとき、カノンは教皇へ向けて一切の迷いもなく技を放った。自分たちが持てる、最大の技を教皇へ向けて放ったのだ。聖域への反逆と見なされてもおかしくなかった。数日間の投獄で済んだことが、どれほどの幸運であったかを、聖域の掟や慣習を知れば知るほど、サガは噛み締めていた。 こんな状態では、とても教皇には会わせられない。容赦ない暴言を吐き、事によってはまたしても暴力沙汰を起こすかもしれない。そしてその可能性は極めて高い。今度という今度は、教皇も許さないだろう。 そうなったら、自分はどうなるのだろう。自分もまた、罪に問われるのだろうか。サガは常々自分が責任を持ってカノンを監督すると言って来た。監督不行き届きの責を問われることは間違いない。そして、自分はカノンと一卵性の双生児だ。カノンと同じ危険思想の持ち主として、自分に与えられた立場も、この宮も、剥奪されてしまうかもしれない。 サガの本心は、カノンのことではなく、自分のことを心配していた。サガは、それに気付いて己の卑しさに戦慄した。そして、自分の存在があればこそカノンを守れるのだと、カノンを守るために自分の立場を心配したのだと、必死で自分に言い訳しなければならなかった。 「兄さん、幸せか?」 カノンは突拍子もない質問に、サガは顔を上げた。 「兄さんの幸せって、なに?」 サガは、答えに窮した。 自分の、幸せ、だと? 自分が、幸せかどうかなど、自分の、幸せが何かなど、サガは考えたこともなかった。 「わたしは、人々の幸せを守るために在るのだ。わたしが、幸せであるかどうかは問題ではない」 しばらく間をおいて、サガは答えた。 「あーあ」 カノンは呆れたような声を上げた。 「兄さん、やっぱ俺、コーヒーいらない。ねえ、酒ある?」 カノンのその言葉に、サガは眉を顰めた。まだ朝だ。やっと帰って来たかと思えば、何ということを サガは聖域にいない間の、カノンの自堕落な生活を垣間見た気がした。だが、今ここで怒鳴りつけては、またカノンは出て行ってしまうに違いない。 「酒は置いていない。今日持って帰ろう」 今日自分が戻るまで我慢しろと遠回しにサガは言った。多少の奔放は、許すことにした。時間を持て余し、一人ここで過ごすことがどれだけ苦痛であるか、サガは考えたのだ。重大な掟破りをしない限りは、大目に見ようと思った。 「カノン、ここに居ろ。二度と、街へ行くんじゃない。約束してくれ」 「約束?『約束は、破るためにある』って言ったの、誰だったっけ?」 「カノン!」 「俺、馬鹿だから約束とか覚えてられないかもぉー」 カノンは飽きもせず挑発を続けた。サガは、ため息をつくしかなかった。 |