■judgment■


 先に動いたのは、カノンだった。ざり、と爪先が砂を掻く音が水を打ったような闘技場に響いた。それを受けてサガも動く。間合いを詰められないよう、カノンと同じだけ、同じ方向へと移動した。

 仕掛けると見せかけては引き、間合いを取ると思わせては詰め、お互いは攻撃する間を見つけられないまま駆け引きを繰り返した。実力が拮抗すればするほど、攻撃の糸口を見つけるのは難しくなる。仕掛けた瞬間が隙となり、カウンターとなって反撃を喰らう危険性が高くなるからだ。だから、必ずしも先手必勝とは行かなくなる。だが、先に相手にダメージを与えることが出来れば、それが決定打となるかもしれない。

 まるで鏡だ。顔を隠していても、色の違う服で区別を付けられても、ふたりはまったく同じだった。息遣いも、爪先をつと動かすタイミングさえぴたりと合っていた。
 たたかいとは、ダンスのようなもの。ステップを踏んで、タイミングを見つけ、ひらりと派手な動きを入れる。華麗に踊って、相手を自分のテンポに引き入れればこちらの勝ちだ。こちらの思い通りに躍らせて弄ぶ。主導権を握れば、もう勝負はついたも同然である。
 だが、ふたりは崩れない。油のような汗を流しながらも、二人は全く同じタイミングを崩すことはなかった。
 そんな中で、カノンは一瞬、ほんの一瞬だけ間を見つけた。それで、攻撃しようとした。サガは、成すすべなく立ち尽くしていた。

 そのとき。鉄兜の男が手を挙げた。

「そこまで」

 決して大きくない声なのに、はっきりと聞こえた。頭の中に直接響いてくるような声だった。

「女神はサガを新たなる聖闘士とみとめた」

 水を打ったような闘技場に、男の声が響いた。
 カノンは、まったく意味が分からなかった。頭が真っ白になった。

 サガが……、勝者………?

 次の瞬間、カノンは祭壇に向かって吠えた。

「なぜ…!なぜだ!!」

 勝者は自分だ。あの次の瞬間、俺は小宇宙を爆発させ、サガを倒したはずだ。死なない程度には加減してやるつもりだった。サガなら、逃げられる。

 兜の男は、カノンの声に答えることなく、サガに向かって言った。

「ここに聖闘士の証である聖衣をさずける」

 これもまた決まり文句なのだろう。教皇は、まるで謳うように述べた。

「なおサガに忠告しておく。聖闘士は神話の時代より女神を守護し正義を守ってきた……」

 教皇の行動は、決定を覆すつもりはないと雄弁に語っていた。

「その聖衣も、正義を守るためにのみその身に纏うのだ。決して私欲や私闘のために纏ってはいけない。もしこの掟にそむき、聖衣を穢すようなことがあれば、このギリシアはおろか……」

 言われているサガも、事態が飲み込めていないようだった。呆然と、立ち尽くしている。

「世界中にいる聖闘士がおまえをほろぼしにいくだろう……」

隣に立っていたもう一人の黒衣の男が、小声で雑兵に指示した。

「仮面を外して差し上げろ」

 控えていた雑兵が、弾かれたようにサガへと駆け寄る。

勝者のみが仮面を外し、顔を見せる仕組みか。なるほど。そうすれば、二人が同じ顔をしていることは分からない。

 カノンは激昂した。ちょっと待て、理由を聞かせろ、と。

「無礼な!控えよ!!」

 黒衣の男はそう声を上げると、カノンに向かって技を放った。あの、ひかりのかべだった。

 ああ、こいつがリウテス。

 リウテスは、カノンをひかりのかべの中へ閉じ込めようとした。

 ちょうどいい。俺の実力を見せてやる。あのときと同じと思うなよ。

 カノンは、不敵な笑みを浮かべると、まるで羽虫か何かを追い払うかのように、さっと左腕を振った。それは、一瞬だった。溶けかかった氷よりもろく、それは砕けた。
 カノンは格段に実力を上げていた。あの川縁で、「ひかりのかべ」を破ったときと最早別人のレベルにある。リウテスの目が恐怖に見開かれた。

 お前の技を破ったのは、アイオロスなんかじゃない。この俺だ。肝に銘じておけ。

 小宇宙の塊をリウテスにぶつけようとした瞬間、カノンは異変を感じた。なにかがカノンに纏わりつこうとした。カノンはエネルギーの昂りをすっと引かせ、その何かをすっと受け流して交わした。
 翼竜の兜の男と目が合った。冷たい、感情のない目だった。たたかいというものを、底の底から知っている戦士の目だった。

 ヤバイ。

 カノンの本能が告げた。

 こいつには、勝てない。

 だがカノンは、無理やり自分を奮い立たせ、恐怖をかなぐり捨てた。男は、そんなカノンの躊躇など、とっくに見透かしているようだった。

 さっき俺を絡めと取ろうとした技が、ほんの牽制だったとしてもだ。お前はリウテスと俺の間の戦いに割って入ったんだ。分かってるよな?受けて立つぜ。お前なんか、容赦してやらない。さっきサガにぶつけそこねた塊など足元にも及ばない、なんの遠慮もなしのヤツを喰らわせてやる―――!

 教皇が張った本物のクリスタルウォールの強固さは、想像を絶した。カノンが全力を持って放った技――後に、ギャラクシアン・エクスプロージョンと呼ばれる技だ―――は、その怪しげな光を揺らめかせる壁に簡単に跳ね返された。
 リウテスの、えせクリスタルウォールを薄氷とするなら、教皇の本物のクリスタルウォールは鉛の壁だ。厚さがどのくらいになるのかは想像もつかない。

 カノンは跳ね返された自分の技を、寸でのところで交わした。ほっと安堵の息をついた瞬間、罠だったことに気付く。カノンは柔らかな網にゆるりと絡め取られた。先ほどカノンを捕らえようとしたものだろう。 それは美しい虹色をしていた。柔らかで、暖かかった。上質な羊毛で作られた毛布のようだと思った。場違いな柔弱な感触に、カノンは心の底からの怖気をふるった。
 それを察したかのように、感触が変わる。それは、荒縄のような、いや、鋼(はがね)の感触へと一瞬にして変化を遂げた。大きな船の、煙突やらレーダーやらの支えに使われる、鋼鉄で結われた縄だ。黒い油にまみれ、鈍い銀色の光をその下から覗かせている。ぎりと締め上げて、人間の体躯ごとき、ねじ切ることなど造作もない。
 次の瞬間、身体中を締め上げられた。仮面の男の小宇宙で作られた鋼鉄製の縄が、カノンの腕を、足を、無造作にひねり切ろうとしている。

 この辺から、カノンの記憶は曖昧だった。途中、すっぽりと抜け落ちて、思い出せない部分がある。おそらく、恐怖が限界を超えたのだろう。

 もうだめだ、とても逃れられない。

 カノンは闘技場にいることも、そこに居るはずのサガのことも、考えられなかった。そんな余裕など、どこにもなかった。

 手首が、太ももの付け根が、千切れる――――――!

 カノンは絶叫した。

 それが最後の記憶だった。そのまま死ぬのだと思った。無残に引きちぎられた骸は、聖域と俗世を隔てる深い森に捨てられるだろう。 そこに棲む、野生の獣に貪り食われるのだ。おそらく、骨すら残らない。
 だから、気がついたとき、カノンは自分が生きているのかどうか分からなかった。自分に手足の感覚があることが本当に不思議だった。いや、これすらも幻想なのだろうか?手足を切断された人間は、あるはずのない手足の感覚を感じることがあるという。今の自分も、それなのだろうか。
 暗い暗い闇の中で、カノンは本物か幻か分からない腕で、自分を抱えた。ぎゅうと丸くなった。自分の体は温かかった。

 だが、この温もりすらもが幻覚なのだとしたら、なんと恐ろしいことだろう。  カノンは闇の中でひとり震えた。



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