■You lost me■



 「サガの愚か者め。おまえが大いなる実力を持ちながら 手をこまねいているのなら勝手にしろ!」

 カノンの怒りはいつまでも収まらなかった。入り口の鉄格子を撃ち、その脇の岩壁を撃ち、天井を、足元を、カノンは撃ち続けた。が、岩牢は破れなかった。まるで衝撃が届いていないようなのだ。固い岩肌ではなく、なめらかで柔らかな生き物を撃ったような感覚をカノンは感じていた。ぽわん、とその柔らかな生き物は衝撃を吸収して、滑らかな表面はつるりと衝撃を受け流してしまう。そんなはずはない。触ってみればそれは明らかに無機質な岩でしかなかった。カノンは自分の頭がおかしくなったのではないかと思った。そんなはずはない。カノンは尚力を入れて、岩肌を撃ち続けた。

 どれほどの時間が経ったろう。

 これだけの衝撃を加えても破れないとは……。まさか……。サガの言うとおりなのか。

 カノンは鉄格子に取り縋って大きく肩で息をしていた。カノンの体力は限界だった。どんなに力を入れても、否、力を入れれば入れるほど、衝撃が届かなくなるように思えてならなかった。しばらく休もう。体力を回復させている間に、違う方法も考えてみればいい。

 鉄格子に頭を預けたまま、カノンは足元で揺れる水面に目を落とした。そこには歪んだ自分の顔が写っていた。なぜ、なぜこうなってしまったのだ。なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのだ。

 カノンは、聖域が今まで自分たちに押し付けて来た理不尽を思った。
何の説明もなく、小さな小屋に閉じ込められた。そこは閉ざされた世界だった。聖域とすら結界で隔たれていたのだ。
 聖域は自分たちに都合の良い説明だけを一方的に聞かせ、こちら側の質問には何一つ答えることはなかった。おいおい説明する、いずれ分かる、時を待て。そんなことってあるだろうか。自分たちはあんな血の滲むような訓練を毎日こなし、聖域に伝わる伝承や神話を必死に覚えているのに、自分たちが向かっている物事の全容は、おぼろげな輪郭すらちらりとも見せてもらえないなんて。

 しからば、自分で調べようとするのは当然のことだろう。何が悪い。探られるのが嫌ならば、こちらの質問に分かるように答えろと言うのだ。
 聖域を探っていくうち、そして成長する中で外の世界に目が向くのは必然だった。脱走は死罪だと言われたところで、この年頃の少年が大人しく聞くはずなどない。大人たちが勝手に作った世界に刃向うのは十代の少年たちの「ミッション」だ。お前らが勝手に作った決め事で、俺を抑え付けようとするな。知ったことか。てめえらに都合よく作った「正義」で、俺を縛ろうとするな。

 少年たちは刃向って刃向って、ある者は破れ去り、ある者は懐柔させられ、ある者は勝利を掴む。そうやって時代は少しずつ変わって行く。

 カノンは勝利者になるはずだった。シオンの命を受け、女神の聖衣の守護者となった彼は、聖域の中しか知らない者たちでは決して成し得ない知恵と経験をもって聖戦に臨むはずだった。

 だが皮肉にも、その運命は最愛の兄によって摘み取られた。今、カノンは暗い岩牢の中にいる。

 波が打ち寄せて、足元に映っていたカノンの顔を押し流した。

 自分は確かに勝手をしてきたが、それはすべて兄のためだった。一見兄の足を引っ張ることばかりだったろうが、だが深い、深い部分でカノンは兄の望みを看破し、兄が心の奥底で望んでいる気持ちに気付き、兄が自分の気持ちに素直に行動できるきっかけを作ろうとしていたのだ。

 なぜサガは気付かないのだ。本当のお前は神の化身なんかじゃない。お前はもっともっと傲慢で、奔放で、自分本位で、冷酷で、強欲な人間ではないか。

 なぜサガは気付かないのだ。お前の望みは聖域の教皇になることなんかじゃない。お前が本当に望んでいるのは、危機感に煽られ、焦燥感に焼かれることのない、安寧で平穏な暮らしだ。
 なのにお前は、あの聖域に閉じこもったまま、教皇にすらなれず、あの魯鈍な男の配下となって、この先もずっとあの禁圧の中で生きて行くというのか。この俺をこんなところに閉じ込めて。

 カノンは顔を上げた。岬の先端から見えるのは、広がる地中海だった。太陽は空を茜に染め、水平線の彼方へと沈もうとしていた。夜が来る。

 サガ。お前は、俺を失うのだ。
決して失ってはならぬ己の半身を、お前は永遠に失うのだ。

 カノンは、深い深い闇の中を、この先13年間彷徨うことになる。
聞こえて来るのは、打ち寄せる波の音だけだった。



前へ  / 次へ