■42話■



 カノンを閉じ込めた後、サガは振り返ることなく歩き続けた。岩場に細く造られた道は、人ひとりがやっと通れるほどの広さしかなく、ときおり波をかぶるせいで濡れていた。
 サガは浅い呼吸を繰り返しながらその道を歩いた。

 仕方がない。こうするより他に方法はないのだ。
もしも、今カノンをこのまま放っておけば、今にも増してわたしを脅(おびや)かすだろう。

 リウテスを、ロヨルを誰が殺したのか、俺がお前に代わって白状してやったって構わないんだぜ?

 蛇のような目をして、自分ににじり寄るカノンの顔が浮かんだ。サガはもう耐えられなかった。ずっと、ずっとカノンを庇って来た。ずっと何とかカノンが歩み寄ってくれるよう心を砕いて来たのに、カノンはサガの心を踏みにじりこそすれ、サガの気持ちを汲み取って歩み寄ることは決してなかった。この先、カノンの言うとおり教皇を、女神を害し教皇の座を簒奪したとしても、アイオロスの部下としてこのままじっと耐え、聖域に仕える道を選んだとしても、カノンは何かにつけて自分の思うとおりにさせようとわたしを脅すに決まっている。
 だから、もうこうするより他、方法はないのだ――――――。

 サガはきつく目をつぶり、もう一度繰り返した。

 サガは、目の前にうずくまる一人の男に気が付いた。
黒い髪は腰まで届き、がっしりとした立派な体躯をしていることは、白いマント越しにも見て取れた。

 白いマント…?

 サガは気付いた。その男が、自分と寸分変わらぬマントを着けていることを。

 泣いているのか?

 男の肩が小さく震えている。その後ろ姿は、誰かに似ていた。わたしの見知った人間だ。これは、誰だったか――――。サガは遥か遠い記憶を辿った。豊かで艶やかな髪は、緩く波打ちながら背中を流れている。

 なぜ泣いている?

 そう思った刹那、サガは幼い頃に引き戻された。

 なんで、泣いてるの?

 そうだ、これは母だ。美しい自分の母。母は、笑うと芙蓉の花が開いたようだった。

 母さん、もう泣かないで。

 美しい母が、肩を震わせて泣いている。

 母さん、もう、泣かないで。ぼくが、ぼくが母さんを守ってあげるよ……。

 幼いサガが母の肩に手を置こうとしたそのときだった。うずくまって泣いていた母が振り向きざまに立ちあがった。

 母は泣いてなどいなかった。目は真っ赤に泣き腫らしていたが、母は高笑いとともに立ち上がったのだ。

 ちがう!かあさんじゃない!

 男は豪然たる態度でサガを見おろした。

 ――――――お……お前は!!




 次にサガが気が付いたのは――――――我に返ったのは、という方が正しいかもしれない。サガは、ここ何日かを過ごして来たことは分かっていた。だが、何をしていたのかはまるで思い出せなかったのだ――――――満天の星空の下、遥かに麓(ふもと)を見下ろす崖の渕だった。
 サガの目の前に、教皇の後ろ姿があった。

「むう…やはり動かざるべき北極星がわずかに傾いている……」

 教皇は一心不乱に空を眺めていた。吹き抜ける風が教皇の法衣の裾を揺らした。
天が告げるのは凶兆だった。

「二百三十年前の聖戦の前ぶれにも北極星が動いたと前教皇が言っておられた……」

 女神は先日降誕されたばかりだ。まだ、聖戦が始まるまでは幾何(いくばく)かの猶予があるはずだった。

「北極星と地上の北極の角度が0になった時、女神の封印がとけ邪悪がふたたびこの世に散乱する。その時が聖戦のときなのだ」

 では、今星が告げている凶兆とは一体何なのか――――――。シオンが思索に耽ろうとしたとき、不意に後ろに人の気配が現れた。シオンが振り向くと、そこにいたのは強大な小宇宙を纏ったサガだった。

「サガ……。おまえ、黄金聖闘士といえども立ち入ることは困難なこのスターヒルの祭壇までどのようにして……」
「フッ…老いた教皇のあなたでさえ登ってこられる場所ですからね……。ましてや神の化身ともいわれているわたしにとっては造作もないことです……」

 サガはおぼろげな意識の中で、ずっと考えていた。なぜ、シオンはわたしを教皇に選ばなかったのだろう。わたしの何が、アイオロスに劣っていたというのだ。どうしても、それだけはシオンに確かめたかった。

「サガ……。ここは教皇以外立ち入ることは許されぬ禁区だ。そこにわざわざ何を言いに来たのだ」

 シオンはいつもとは違う不穏当なサガの言葉と行動に、警戒心を隠さず言った。

「だから言っているでしょう。わたしはすべての人々に神のように慕われている……」

 サガは身の内であれが暴れるのを感じた。息が少し苦しかったが、大丈夫、まだ抑えられる。理由を、聞くだけだ。教皇に理由をお聞かせいただいたら、わたしはそのまま丘を降りる。そして、明日からは今までのように聖域のために尽くすのだ。わたしの心には迷いはない。一つとして、迷いなど、ない。サガは自分に言い聞かせた。

「そんなわたしがなぜ次期教皇ではないのですか……」

 シオンは迷った。サガの自尊心を傷つけぬよう、考えてあったそれらしい理由を言って聞かせるべきだろうか。

「いったはずだ。仁・智・勇を兼ね備えたアイオロスこそ教皇にふさわしい男だと」

 シオンは言い訳にもならぬ、教科書通りの回答をした。これでサガが引き下がってくれれば良いのだが。サガを無下にすることは出来ないが、シオンが今優先すべきは星見だった。今日こそは、星が告げる真意を読み解けるかもしれない。星は、いつもよりも強く輝いていたからだ。

「仁・智・勇ならば決してアイオロスに勝りこそすれ劣るとは思っておりません」

 シオンの言葉を遮るようにサガは言った。
 なおもサガの息苦しさは増した。呼吸が浅く、早くなる。苦しくて、苦しくて、この苦しさから何とかして逃れたくてたまらなくなる。そうすると、頭の中が白くなり、そして何も分からなくなるのだった。 そうなってしまう前に、サガは何としても理由を聞き出さなければならない。

「いや、すべてにおいてわたしの方がアイオロスよりも勝っていると思います。それなのになぜですか、教皇!!」

 あのサガが、禁忌を破ってまで知りたがった答えだ。通り一遍の、うわべだけの言葉でサガを納得させることは出来ない。百の言い訳より、一つの真実を伝える方が、サガにとって救いになるのかもしれない。シオンは、意を決した。

「そこまでいうなら教えてやろう」

 シオンは、低く、静かに言った。

「わたしはおまえの心の奥底になにか得体の知れない不気味なものを感じるのだ。たしかにおまえは神のように慕われている。そして事実そのように清く生きておる」

 シオンは、聖域で、そして近隣の村で、清く民のために生きるサガの姿を思い出しながら言った。

「だが、おまえの魂にはとてつもない悪魔が住んでいるような気がしてならんのだ。これがわたしの取り越し苦労であればよいのだが……」

 シオンがサガに疑念を持ったのはいつだったろう。自分がひたむきに努力するサガのどこに暗い部分を見たのか、はっきりと言葉にすることは出来なかった。何かの間違いかとも思った。だが、ひょんなときに、やはりシオンはサガにその暗い部分を感じるのだ。
 ちょうど良い機会だった。お互い腹を割って、すべてをさらけ出すにはもってこいだ。シオンが思い切って口に出したその疑念を、サガは否定するはずだ。そして、シオンは続けるつもりだった。なぜサガを黄金聖闘士に選んだかを。カノンに何を託そうとしているかを。

 だが、サガの口からこぼれたのは否定の言葉ではなく、腹の底から湧き上がるような低い笑い声だった。

「どうしたサガ?気分でも悪いのか……」

 サガはああ言ったが、スターヒルには結界であったり、磁場であったり、古くから伝わる力を秘めた呪文を彫った壁であったり、幾重もの防御が張ってある。何の耐性も持たぬ一般人がここに立ち入れば、即座に気を失って倒れるだろう。サガもそれらの障りを受けてしまったのではないかとシオンは心配した。

「み…見抜いていたのかわたしの秘密を……」

 サガとはまるで別人の声がシオンに答えた。

「さすが教皇…老いたりといえども前の聖戦の生き残りだけのことはあるようだな……」

 シオンは我が目を疑った。

「こ…これは髪の色が変わって行く……。サ…サガおまえはいったい……」





 やっと潮位が下がって来た。この洞窟は、満潮時には潮は天井のほど近くまで届いた。洞窟の天井と、海面の間に出来るほんのわずかな隙間を見つけて、カノンはなんとか凌いだ。隙間というのも憚られるほどわずかな空間しかなかった。カノンは何日も地獄の苦しみを味わった。これから大潮に向かうなら、カノンに助かる道は残されていない。

「う…うう、サガめオレは決して死なんぞ…。い…いつか必ずここを抜け出してアテナともども殺してやる…、うう……」

 カノンはサガと聖域への呪いの言葉を吐き続けた。
 問題は呼吸だけではなかった。潮が上げるたびに全身が海水に浸かる。体温を奪われ、眠ることも出来ない。カノンの強大な小宇宙を以てしても防げるものではない。カノンの衰弱は激しく、凌げるのもあとほんの数日だろう。カノンは自分に死が迫っているのを感じていた。

 カノンは何の気なしに奥の岩肌へ目をやった。何かが光ったような気がしたのだ。

 次の瞬間、カノンは自嘲した。ついに頭がおかしくなったか。昼間なら陽光に反射して何かが光ることもあるだろうが、今は夜だ。岩が光るわけなどない。俺もついにここまでか。だがカノンは岩肌から目を離さなかった。
 しかして、岩は再度光った。見間違いなどでは決してない。


「な…なんだこの光は…?!この岩の向こう側に何かあるのか?」

 カノンはそこへ近寄り、その岩肌に触れて言った。

「ここならなんとか砕けそうだぞ」

 何回も見て回ったはずなのに。見落とすことなどないはずなのに。だがそんなことに構ってはいられない。

「うまくいけばこの岩牢から抜け出られるかもしれん」

 カノンは千載一遇のチャンスに賭け、最後の小宇宙を振り絞って岩を撃った。すると岩肌はもろくも崩れた。カノンは信じられない思いだった。
 そしてカノンは、岩陰に更に信じられないものを見つける。

「な…なんだこれは?!」

 それはこの暗闇にあって、黄金の輝きを放っていた。

「こ…これは伝説に聞いたことのある海皇ポセイドンの…三叉の鉾!!」

 岩の壁で直接潮からは隔てられていたとはいえ、三叉の鉾には錆びひとつ浮かんでいなかった。

「し…しかしなぜこれがこんなところに……」

 そしてカノンは鉾の刃の付け根に貼られた古びた一枚の紙を見つけた。

「こ…これはアテナの封印……。さ…さきのポセイドンとの聖戦に於いて勝利をおさめたアテナが封じ込めておいたというのか……」

 カノンが三叉の鉾に手を伸ばすと、古びた紙ははらりと剥がれ、近くの潮溜まりに落ちた。
カノンは何の気なしに鉾に力を入れた。

「うっ。こ…これは……」

 鉾の根元がぐらついている。神が封印したものだ。まさか抜けるはずはないとは思ったが、カノンは思い切って力を込めた。

「抜ける!三叉の鉾がオレの力で!!もはやアテナの封印は効力が失せているのか!!」

 カノンは先ほどはらりと落ちた古びた紙を見た。そこには黄ばんでほとんど読めなくなったアテナと言う文字が書かれていた。そして次の瞬間、カノンの身体は異世界へと引きずり込まれて行った。




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