■40話■ サガの小宇宙は強大だった。恐ろしく圧倒的で、反撃はおろか、防御すらままならなかった。ほんの一瞬の間にサガはその力を最大限にまで高め、息つく間もなく攻撃してきた。あと一瞬、ほんの一瞬だけ隙があれば、カノンはそれを防ぐことが出来た。だがサガはそれを知って先回りして攻撃して来るのだ。左腕を上げようとすれば左腕を撃たれ、右足を引こうとすれば右足を封じられる。 カノンは焦燥に駆られた。まずい。嵐の中、逆巻く大波に揉まれる木の葉のようだ。翻弄される一方で、体勢を立て直すことがどうしても出来ない。おかしい。こんなにこいつ強かったか。二人の実力は拮抗していたはずだ。なぜだ。こんな一方的にやられるなんて、有り得ない。だがカノンがどんなに焦っても、どんなに足掻いても、カノンには針の先ほどの機会すら見出せなかった。 ただの防具だと思っていた。正義の一軍を率いる象徴として、その仰々しい装飾と、輝く黄金色をしているのだと思っていた。だがそれは大きな間違いだった。黄金の聖衣は、サガの攻撃力も、俊敏性も、大幅に押し上げていた。聖衣はサガが頭の中で思い描いた動きを、いとも簡単に実現した。 あれほどうるさく言うわけだ。 サガは聖衣を授ける際に教皇が言う決まり文句を思い出した。あれは誇張でも脅しでもなかったのだ。聖衣がここまで攻撃力を上げるなら、聖衣を手にした者が、私利私欲のために暴走を始めたら、それを止めるのは容易なことではない。そんな勝手は、聖域の威信にかけて絶対に許さぬ。聖衣を得たそのときから、聖域はそれを刷り込んで、刃向おうなど夢にも思わないように「教育」するのは当然の成り行きというわけか。 聖域が素手での訓練にあそこまで固執する理由を、サガはその身をもって納得した。聖衣がこれほど攻撃力を押し上げるなら、武器など必要ない。むしろ煩わしいだけだ。 武器を使用するなら、日頃より手入れし、準備し、大型のものであれば設置し、重い弾丸を携行し、尽きれば補充……、やらなければならないことはまだまだある。それがどうだ。聖衣を纏い、素手で戦えば、そんな煩雑さはどこにもない。準備し、設置している間にどれほどの敵を倒せるだろう。 正義の女神アテナが武器を嫌っているから、とずっと聞かされて来た。そんなものは嘘だ。聖衣を纏えば、武器など必要ないというのが本当のところではないか。 サガは、聖域に対する不満の正体を見た。誤りではないが、正確とも言えない。真髄が伝承されていないため、一見無駄としか思えない儀式やら慣習やらが多過ぎる。何の説明もなしに、神話の時代からのしきたりだ、お前にもいずれ分かる、と、聖域はそればかりだ。もし自分がその地位を得たら、それを一つ一つ改善していく。聖闘士たちは命を掛けて聖戦を戦うのだ。少しでも余計な心配を排除し、集中して戦いに臨めるよう、聖域は尽力すべきなのだ。 気付くと、カノンは目の前に倒れていた。不思議とサガの心は静かだった。何の感情も浮かんでこなかった。カノンの意識が戻らぬうちに、スニオン岬の岩ろうにカノンを閉じ込めなくては。事務的に、淡々とサガは事を運んだ。 「出せ!!」 ちょうど鉄格子に鍵を懸けたところで、カノンは意識を取り戻した。まるでタイミングを計ったようだった。サガはこうなることを予見していた。こういったことはときどき起きた。自分の前に、道が拓けるように、まるで、誰かが自分のために準備してくれているように事が運ぶのだ。 「オレをここから出してくれ――――ッ」 叫ぶカノンを感情の無い目で見ながら、自分の予見が正しかったことをサガは再認識していた。 「弟のオレを殺す気か―――――ッ」 事が、自分の限界を超えているのだろうか。目の前で起こっていることが、自分が行っていることが、まるで現実だと思えなかった。目の前に幕を張ったようで、その向こうで誰かが勝手に物事を推し進めているようで、サガは呑気にも、こんな奇妙な体験は初めてだ、とぼんやり思っていた。 「カノン。その岩牢からは神の力をもってせねば生涯出ることは出来ん」 鉄格子に取りすがって叫ぶカノンを見おろしながら、サガは言った。 「おまえの心の中から悪魔が消えてなくなるまで入っているのだ。女神の許しが得られるまでな」 その言葉を聞いたカノンは凍りついた。冗談ではない。今、この場でサガに鍵を開けさせなくては。何としても。聖域に戻って、サガは女神を弑逆する。カノンは、何故かそれを確信していた。 「サガ!ここを開けろ!オレを出してくれ!」 先ほどサガは何と言った?神の力をもってせねばここからは出られない、と言ったではないか。女神を殺されてしまっては、カノンは牢から金輪際出られない。 「?!」 神の力をもってせねば―――――。 カノンは戦慄した。もう、手遅れなのか。サガでは、もうこの岩牢を開けることは出来ない? サガは、今まさに立ち去らんとしていた。 「お…おのれサガ おまえのような男こそ偽善者というのだぞ!!」 サガを引き留めなければ。カノンは必死だった。 「いつまでも悪の心を隠しおおせると思うな!!」 引き留めて、せめて鍵を開けることが可能なのかどうかだけでも確認しなくては。そう思いながらも、カノンはサガが行ってしまうことを心のどこかで知っていた。 「力のあるものが欲しいものを手に入れてどこが悪い!神が与えてくれた力を自分のために使って何故いけないというのだ!」 カノンはどうしても、行かないでくれという言葉を口にすることが出来なかった。 カノンは、どうしても自分を置いていかないでくれという本心を、言葉にすることが出来なかった。 「サガよ オレはいつもおまえの耳もとにささやいてやるぞ!悪への誘惑を!!サガよ おまえの正体こそ悪なのだ―――――ッ」 サガは一度も振り返ることなく、岩牢の前を去った。これが今生の別れになることなど、カノンは夢にも思わなかった。 カノンは、怒りにまかせ、鉄格子へ、その周辺の岩へ、有らん限りの小宇宙をぶつけた。サガはああ言ったが、聖域に伝わる伝説は眉唾ものばかりなのだ。聖闘士の拳は空を裂き、蹴りは大地を裂くというが、そんなことが出来るのはほんの一握りだ。出来る連中だって失敗することもよくあった。黄金聖闘士は光の速さで動けるというが、それだって正確ではない。攻撃の際、ほんの一瞬光の速さに達し、また、超えることもあるが、常時動けるわけなどあるはずがないではないか。カノンは身を以て知っている。 岩牢は見たところ、確かに堅固なつくりだった。だが、こんなものはどこかに弱点があるに決まっている。長い間波に洗われ、雨を受けてどこか風化している箇所だって必ずある。ずっと潮に晒されているのだ。鉄格子だって錆びてもろくなっているに違いない。 そうだとも。こんなところ、さっさとぶち破って街へ行こう。もう二度と聖域には近寄るものか。サガがどうなろうが知ったことか。あいつがあんなに馬鹿だとは思わなかった。勝手にしろ。あのリウテスもいなくなったことだし、俺には心配すること何もない。俺は俺のやり方で、世界を手中に収めてやる。 いつだってカノンは苦難を乗り越えて来た。自分をねじ伏せようとする力をはねのけ、くぐりぬけ、自分の思い通りに事を運んで来た。どうにもならないことが一つもなかったとは言わないが、それでもカノンは自分に納得の行く答えを見つけて来たと思っている。だから大丈夫だ。今回だって何とかなる。 カノンは高を括っていた。弱そうな箇所を探し、壊せそうなところを探し、撃ち、ダメならまた違う箇所を探って、カノンはいつまでも拳を放ち続けた。 |